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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

告発

作者: ラビット

この出来事は『フィクション』です。

これは私自身が体験した中高での話です。私自身の主観が織り交ぜられたものなので、思い違いや誤解も多くあるかもしれません。ですが、出来る限り出来事は出来事として、私自身が感じた印象と共に書き連ねていきます。 読み手側にとって、気分が悪くなる内容かもしれません。

 学校という狭い世界の中に閉じ込められた学生たちは、往々にしてストレスを感じ他者を攻撃します。それをまったく反抗できない者の気持ちが分からない。そんな人たちに、少しでも理解していただけますように。


 R女子中学校に合格した時、私はこれから始まっていく新生活に胸を躍らせ、採寸された新しい制服、銀製の新しい校章を胸につけ、蝶々結びにスカーフを何度も巻いては早く始業式が始まらないかと心待ちにしていました。 県でも名のある中高一貫の女子校で、5年生のころから近所の友達と遊ぶことを控えてやっと第一志望に合格することが出来た、と本当に嬉しかったのを今でも覚えています。

 電車で1時間少し、徒歩でも15分程度かかりながら到着したその場所は、女子校というだけあり入り口は大きな緑の門を構え、レンガの一本道の両脇には色とりどりのバラやマリーゴールドが植えられていました。少々狭くも十分な設備が施されたグラウンドや、一本道とグラウンド両方につながる校舎がずっしりと圧迫感をもって私を出迎えました。

 階段を上がり、見慣れない教室を案内され、体育館にてつまらない校長先生のお話を聞いて(1年生は最前部に配置されましたが、複数の生徒は既に始業式中に寝るという技能を会得していました)、やっと解放され教室には私たち生徒のみ。誰もが緊張して、部屋は静寂に包まれていました。


 そんな緊張感も、日にちがたつにつれて綻び、段々と活気を帯びた教室は喧騒に包まれて行きました。私も隣の席の人、そして周囲の輪に入ることが出来、毎日授業を受けるため延々と椅子に座らせられては、解放されたとたん廊下を駆けまわりました。お嬢様学校なんていう肩書きなんて、知ったこっちゃあありません。こと男子のいない場、見てくれを気にするものが誰もいない環境下、私たちは好きなだけ駆け回りました。校内で鬼ごっこをしました。授業中に落書きなんて日常茶飯事でしたし、男性の先生も私たちにとっては父親も同然だったので、先生の前で平気で制服を脱ぎ、体操服に着替えていました。

 共学の女子と女子校の女子の違いは何でしょうか。私から言わせれば、女子校の女子は大体はゴリラである、と言ってよいでしょう。女の子らしさよりは、面白さが買われる世界です。変顔やドラミング、常に白目をむくなど、どれほど人間をやめた行為をすることが出来るかで、他のゴリラから仲間と認められます。

 

 あと、何といっても恋愛対象が同性であるというのも、女子校の特異性であるといえます。毎年のバレンタインで好きな先輩や同輩にチョコレートを供え、手紙をしたためて送る。比較的校則が厳しかったR校もバレンタインの日だけはチョコを送りあうことを黙認されていましたので、先生にあげる子もいました。 あげ返すのが面倒くさい、間に合わないと思った人は、「ホワイトデーに返す」といって返さず忘れたふりをするというのが通説でした。


 本当に楽しい思い出です。今でも、当時の仲間とそのことを話しては馬鹿をやっていたと笑いあっています。 ですが、全てがすべて楽しいもので済まされたかというと、残念ながらそうではありませんでした。


 どのクラブに入部するかは、私は初めから決めていました。弓道に卓球、茶道や吹奏楽など、心惹きつけられるクラブはたくさんありましたが、私自身はテニスを小学生から続けていたので、引き続き磨いていこうと思っていました。

 ある時、入部希望者は集まるようにとのお達しの下、1年生は一所に集められました。緊張しながら冷たいパイプ椅子に座ると、


「隣、座っていい?」


 そう笑顔で話しかけられました。それが彼女、佐藤との出会いでした。

 私と彼女含め、8人が集められました。そしてその部屋に入ってきた大柄の先生(T先生。その図体からトトロと呼ばれていました)から、簡易的にガイダンスを受け、部活に入部するための手続きを行いました。

 その後解散といわれ、私たちは教室の外で初めて言葉を交わしました。 全員入部をもう心に決めており、テニス経験者は半数ほど、といったところでした。佐藤は手帳を広げ、私たちに連絡先と住所を聞いて回り、お互いにあいさつしあって別れました。

 しっかりした人だな、という印象です。少なくとも私は彼女に好印象を抱きました。


 私自身は自分にも他人にも甘い性格、というよりやや自己中心的な一面を持っており、小学校の頃にそれで何度かトラブルを引き起こしたことがあります。新しい場所、新しい学校に入学することを決意したのは、知っている人が誰もいない環境で1から始めてみたいということもありましたが、性格をまるっと変えて完璧な人間になりたいという強い思いがあったからです。 困ったときには手を差し伸べ、誰にでも優しく接することのできる人間であろうとしました。 その目論見は最初はうまくいっていたと思います。他人に好印象を与えることは簡単なのです。人への印象は3回会うまでに決まるという話がある以上、その3回とも目を大きくさせて相手の話に熱心にうなずいて、私はあなたの話に興味がある、と態度で示せば良いだけの話ですから。 問題は、それが続くことが出来るかどうかということです。


 私は最初のほうはかなり佐藤に気軽に接していました。初対面での印象通り本当に彼女はしっかりした性格で、ミスはほとんどせず、予定把握も正確でした。毎日の部活の予定は1階にある黒板に記入され、それを下まで降りて見に行かなければならず(2階に1年、2年。3階に3年、高1と学年が上がるごとに上へ上へと教室が移動する仕組みでした)それが面倒で私は彼女によく確認していました。彼女は快く答え、そして正確なので、私を含め他のメンバーも彼女に信頼を置くようになっていました。


 ある時、初めて私たちがラケットを握らせて貰える時がやって来ました。グラウンドにコートを張り、一列に並べさせられた私たちは球出しを打たせられます。 その時、私には他のメンバーには負けられないというプライドと、早く華々しく打って周りをあっと驚かせたいという気持ちがありました。事実、当時その場の中では私は一番に打てて、先生を喜ばせました。

「即戦力になる」と言ってくれたのは今でも嬉しい記憶として残っています。当時一年生ながら夏の選抜メンバーに抜擢され、先輩にも良くしていただきました。先輩への尊敬や敬意は、その時に培われたと言って良いでしょう。

 違和感に気がついたのはそれから間もなくの事でした。初めは些細な気づきだったのです。テニス部1年全員で行動して、例えば私が途中抜けする時、一人だけ挨拶を無視する人が現れました。それが佐藤です。

 繰り返し言いますが、私は佐藤に好感を持っていました。そして相手も嫌そうな素振りは見せていませんでした。過去の失敗もありそういった細かな相手の表情に目敏くなっていた私は、そんな訳はないと言い訳してさりげなく相手に交流しようとしました。しかし彼女は気軽に応じるどころか、段々と態度は悪化していき、ついには私に目も合わせなくなりました。


 それでも私は諦めようとしませんでした。私はずっと、人の善性というものを心のどこかで信じていたのです。どこかで相手に嫌な思いをさせたかもしれない。完璧でしっかりしている彼女のことだから、私のだらしない部分が癇に障ったとのかもしれないと解釈しました。ならば私が悪いのかもしれません。ですから私は、せめて彼女の前では取り繕おうと、真面目に部活動に取り組んでいました。

 それが全く意味をなさないことだと分かるのは本当に後になります。佐藤には下本、井上という二人の連れ合いがいました。その二人は彼女と同じクラスで、よく一緒に行動していました。 どちらかというと気質は私よりの下本に、ある時聞き出してしまったのです。

以前私が用事があり部活に行けない時がありました。その時のことを、佐藤はこう言いました。


「このメンツでいる時が一番楽しいよね。なんか嫌いなんだよね、吉田のこと」


 それを聞いた時、どうしたら良いのか私にはさっぱり分かりませんでした。どんなに取り繕おうとしても、仲良くしようとしても、相手が自分を嫌っているんじゃ意味がないじゃないか。しかも、『なんか』嫌いなのです。理由など彼女からしてみればないのです。それなのに、どうやってこの状況を打開できると言うでしょうか。


 それでも私はどうにか関係を良くさせようと必死でした。出来る限り笑顔で話しかけたり、恐る恐る気を遣って話題を提供したり、兎に角彼女の顔色ばかり伺うようになっていきました。ある時急に優しくなって仲直りする夢を見ました。私はいつかに感じた安息を、取り戻せるものと信じて行動していただけなのです。ですが、もうお分かりでしょう。


 理由もなく嫌いになったことがある相手はいるかもしれません。私にも過去に少なからず何人か存在しました。その相手から何度も執拗に話しかけられれば、鬱陶しいと感じるようになるでしょう。彼女からの返答は俄然冷たく、トゲを含むようになっていきました。ついには会話を何度か無視されたり、八つ当たりされるようになっていきました。


 他の人には笑顔で接する癖に、私が話しかけると途端に表情をなくすのですから、それは不快なものでした。しかも何が気味が悪いかって、ある時は打って変わって上機嫌になって私に話しかけてくるのです。これまでの環境が改善されたのだと喜び、また明日もその調子でいこうと願っても、次の日にはつっけんどんにされるのです。

 彼女はまるで二重人格のようでした。どちらが本性なのか分かりませんでした。それでも私は愚直に、彼女を信じ続けました。いつか分かり合える日が来るものだと信じて、何にも自分は感じないというふうに接していました。周りの仲間も彼女は浮き沈みが激しいことを承知していましたが、いかんせん佐藤は口が達者で、少なくともテニス部内の1年の実権は彼女が有していました。誰にも彼女に逆らえませんでした。逆らったら私のように仲間外れにされる事を知っていたからです。


 彼女の態度は悪化の一途を辿っていきました。部活は厳格な縦社会であると同時に、実力主義の世界でもありました。常に一年の中では私がトップ、彼女が二番目というポジションに落ち着いていました。そして相性とか関係なしに、ダブルスは上からワンツーで毎回組まされました。なので嫌が応でも彼女と距離が近くなってしまいます。

 そういった人間関係はよくあるもの、とされたのでしょうか。どちらにせよ、顧問の先生は取り合ってはくれませんでした。先輩への応援も一緒にされました。部活の行き帰りも一緒に帰らなければなりませんでした。土日は部活に時間を取られるので、ほぼ四六時中一緒でした。


「吉田が部活をやめてもなんとも思わない」 彼女は私にこう言いのけました。

「私、バカって嫌いなんだよね」 彼女は私を見ながらこう言い放ちました。

「あなたを見ているとイライラする」 心底苛立たしそうに言われます。

「先輩に好かれるとか、どんなイカサマやってるの?」 笑顔でそう聞かれました。

 どうして、放っておいてくれないのでしょうか。嫌いなのではなく無関心だったら、どれほど良かったでしょうか。毎日毎日言葉のトゲを突き刺されて、私はヘトヘトになっていました。一方的な悪口だけでなく、私のダラシがない部分をあげつらねて言ってくるのですから、私は何も反論することが出来ず、ただ笑って嵐が過ぎるのを待つばかりでした。毎日別れたあとは泣いていました。反発する気力すらなく、家で泣き寝入りしていました。考えても考えても、私が彼女に直接何か手酷いことをした記憶はありません。寧ろこうまでして仲良くなろうと努力しているのに、何がいけなかったのかといつも考えていました。それでも彼女をそのままにしておいたのは、怖くて何も言えない、相手を傷つけたくないということもありましたが、この頃は同じことをすることで同じ土俵に立ちたくないと思っていたからです。訳の分からない理由で人を貶める人間にはなりたくありませんでした。


 成績は目に見えて落ちました。親に順位が3桁になったら塾に行かせると言われ、辛うじて90番代をとることで回避しました。常に順位が一桁の彼女は嘲笑いました。追試を受ける人間の気持ちが分からないと馬鹿にされました。

 この段階では流石に私も陰口を溢すようにはなっていましたが、相手は同じ部活の同輩に留めました。一番共感して分かってくれてはいるのは周りの人間でしたし、彼女の人間性を知らない人に相談しても意味がないことを知っていたからです。彼女たちも佐藤に何も言えず、佐藤は好き放題やっていました。


 それでも私が学校に通い続けられたのは、家族と、同輩含めた他の人間関係が概ね良好だったからでしょう。特に1年生のクラスでは全員が全員仲がよかったです。誰も相手の悪口を言わず、いつも白目にピースで走り回っていました。親しい何人かでいつも一緒にいましたし、よく遊びにもいきました。合唱コンクールではなんと努力の成果もあり1年生では珍しく金賞を貰え、ハロウィンパーティーでは出し物を見せ合い、兎に角それはもう幸せなひと時でした。部活で嫌なことがあっても、私には居場所がありました。今思えば、その点では割と幸運だったと言えます。


 クラス運というものはあるでしょう。そんな幸せとは裏腹に、2年次になると今度は佐藤と同じクラスになってしまいました。そのクラスはとても静かなクラスで、始業時間の15分前には全員が着席して教室はシンと静まり返っていました。遅刻ギリギリに教室に飛び込むと、本当に遅刻したのではないかという錯覚を覚えたほどです。その雰囲気に耐えかねて、私はよく隣のクラスへ行き20人で人狼ゲームを行ったりしていました。隣のクラスは打って変わってとても賑やかな場所で、私は何度も自分の所属をそのクラスだと言い聞かせていました。

 部活は一人が抜け、七人となっていました。執拗な悪口や嫌がらせはやみませんでした。そして私は教室で監視されるようになっていったのです。誰かと話して楽しくしていると、視線を感じます。そちらを見ると相手が私のことをじっと見ているのです。そして私が少しでも校則に違反すると、すかさず割り込んできてやれ私の態度が悪いだの言ってきます。たまったものではありませんでした。


 そしてその頃になると後輩も入ってきて、どう指導を行うのか議論しながら進めていました。私たちの学年は真面目な学年と周りから称されていました。事実、熱心に後輩を育て、彼女たちは素直に従っていましたが。

 その後輩の中でも人間関係に不和が生じました。やや素行が悪く人の話を聞かない上原という子が、他を虐めているというのです。先輩含め私たちは彼女に度々言い聞かせましたが、いうことを聞かず困り果てていました。佐藤は上原の悪口を言うようになったのはこの頃です。本人の目の前で悪バレもなくいいのけるのですから、よく言ってのけるものだと彼女に同情しました。しかし実際、彼女の態度の悪さは目に余るところがありました。私は私以外の誰かが標的になることを待ち望んでいました。私も結局は周りの人間と同じだったのです。実際、ほんの僅かですが佐藤からの攻撃は減りました。


 3年生の間は、私の学校生活の中でも飛び抜けて良好な一年だったと言って良いでしょう。佐藤と離れ、テニス部でも一番仲が良い小嶋と橋田と同じクラスになることが出来ました。先生の口調を真似て1日過ごす先生ゲーム、大根抜きなど、毎日アホなことをして本気で笑い、ストレスを発散していました。いつも笑うものですからそれが部活の時にも伝播し、自然と佐藤からの風当たりも弱くなっていきました。

 また、佐藤はそのとき下本と井上と不仲になっていました。今考えてもなんともお粗末な理由です。彼女が何度も教えているのに二人がうまくならないから怒鳴ったのだと耳にしました。特に佐藤に反発した下本とは、日常的に顔も見ないほど険悪な雰囲気となっていました。気づけば彼女が相談、私が聞き手に回ると言うことも多くなっていました。彼女は疲れているようでした。私もまた、その気持ちは3年近く行われてきた身として嫌と言うほど知っているので、相談に乗っていました。自身の負担が減っていることを自覚しながら。


 高校に上がる頃、実は下本がそのまま進学せず遠くに引っ越すのだという話を耳にしました。偶然お別れ会に立ち会い、彼女に別れを言うことが出来たのが幸運でした。ですがそのクラスだけで秘密裏に行われたものだったので、他のクラスの人、佐藤や小嶋は知りませんでした。後日転校した話を聞き小嶋は泣いていました。そして佐藤は、憤っていました。

 何故下本が転校したのかは分かりません。前々から転校する予定だったのか、それとも私と同じ目にあったのが嫌だったから転校を決めたのか。どちらにせよ、彼女は佐藤の魔の手から逃れることが出来たのでした。同胞の別れはとても悲しいものでした。それに対して、「事前に転校することを教えてくれなかったから下本なんて知らない」と憤る彼女を、苦々しく思いました。どうして訳の分からない下らない理由で人を怒鳴りつけた彼女へ、相手から別れを告げるというのでしょうか。どうして自分が悪いんだという考えに至らないのでしょうか。

 

 そんな折、私にはチャンスが訪れました。R校では高1の夏に3週間オーストラリアへ行くことが出来るプログラムがありました。しかしタダでは行くことはできず、テストを受けて選ばれたものが、しかもその上位10名が10万円免除で行くことができるものでした。海外へ行ってしまうと部活ではペナルティとして当分レギュラーとして参加することが出来なくなってしまいますが、私はどうしても海外に行き、素晴らしい体験を行いたくて必死で勉強し、見事免除枠に収まることが出来ました。

 オーストラリアでの体験は予想だにしない魅力的なものでした。最初の1週間はホームステイをし、一人ひと家庭に割り振られてそこで生活していました。もう1週間でキャンプを行いました。名もなき森へと連れて行かれ、湖をヨットで漕いだり泳いだり、アーチェリーやロッククライミングも行いました。キャンプファイアーでマシュマロを焼きました。クラフトで粘土細工を作りました。最後の1週間で、さまざまな観光地を旅行しました。 

 そこで驚いたのは、オーストラリアの人々はとても気さくなのだということです。見ず知らずの一般人に臆面もなく話しかけ、友達のように仲良くなることができる。ホストファミリーも同様でした。彼らは私を娘だと言って可愛がってくれました。私もホストマザーとファザー、5歳の子供ルイクを、まるで弟のように可愛がりました。ホストファザーに教わったチョコムースを毎晩食べて私は幾らか太りました。

 後にも先にも、これほどまで心を許し好きであった相手は家族以外にありません。


 そんな楽しいひと時も終わりを迎え、私たちは高校2年生になりました。文系か理系かを選ばなければならなかったのですが、私は迷いながら理系を取りました。この頃には成績も20番代前後に落ち着き、数学、化学は大嫌いで、国語、社会、生物が好きな典型的な文系人間でしたが、生物系の大学に行きたいと思い、嫌いなものに真正面から挑戦しようと決めました。

 珍しいことに、私たち6人全員が理系を選びました。全員大方理数系が得意で、自然と選び取っていったといった感じでした。高校2.3年はクラスは変わることはなく、そのまま進まなければなりません。私は佐藤と同じクラスになったと聞いた時、家で泣きました。先輩も引退して、部長は佐藤に落ち着きました。 下本もいない中、またストレスのはけ口は私へと向かい、日常的に嫌がらせが横行していました。


 部長は誰が良いか、という話を皆で行った時のことです。実は少し前、後輩の上原が部活を辞めました。曰く、佐藤から酷く言われていたことに耐えかねていたそうです。 彼女は思わぬ行動を取りました。佐藤に直接乗り込み、これまでの不平不満を全てぶつけたのだそうです。佐藤は彼女のあまりの剣幕に怯み、やがて心を痛めて後輩が怖いと言うようになりました。

 私から言わせてみれば完全な自業自得でしたので、知らんこっちゃないという話でしたが、彼女が部長をやりたくないと言い出すと話は別です。私たちは再度集まり、ほかに誰が適役か話し合いました。橋田は私を推してくれました。以前橋田と小嶋が不仲になってしまった(これも佐藤が深く関わっているのですが、詳細は省きます)とき、「ちゃんと話し合って仲直りするまで私に関わらないで」と言い強引に仲を戻させたことで、橋田から信頼を買っていたのでした。そう言ってくれる事はとても嬉しかったです。


「吉田は、オーストラリアに行っててずるいからダメ」


 などという道理もへったくれもない言葉により、立ち消えにはなりましたが。何のための話し合いか、結局彼女は部長になると言いました。その際、私たちは彼女を手伝うという口約束を交わしましたが、そんな言葉をかけられ心底腹を立てていた私は協力する気など毛頭ありませんでした。一人重荷を背負って、苦労すればいい。そう思っていました。他の人も特に手伝うこともなく、実際に佐藤の負担は大きなものとなっていました。もうその時には彼女は誰に助けを求めることもなく、ただ一人精神を病んで行きました。


 授業中に泣き出したり、膝から崩れ落ちたり、何かとミスが増えたりしていました。数学の成績も芳しくなく、追試も受けていました。

それを私は無表情に見下ろしていました。助けもしませんでした。周りの人も同様です。今まで散々嫌な思いをさせられてきた人を、どうして助けたいと思うでしょうか。トラブルメーカーな彼女の元に、多くの恨みつらみがのしかかっているように思えました。

 その頃になると、ダブルスでも不和が目に見えて現れてきました。私は上手くなるために鍛錬を重ね、悪いところを直していこうとする一方、彼女は規則を重んじ、実力よりも規則に準じているかどうかが大事だと言ってのけました。私は実力、彼女は規則。お互いに持つカードが真正面から対立していきました。部長としての立場を利用して、彼女は全体の前で私を責めました。やれ足を曲げていて横立ちになっていただとか、あくびをしていただとか、私の行動をこんな人はあり得ないとあげつらねるのです。何が狡猾かって、直接私を注意することはなく、「こんな人は」と匿名性を利用して声高に叫ぶのですから、そういう事が嫌だと言っても自分がそういうことをしていると認めることになるでしょうし、ならやらなければ良い、と言われて仕舞えばぐうの音も出ません。そういった手段を封じられて、私はいつもたじろいで黙ったままでした。


 それが一気に変わったのは、修学旅行の帰りでのことです。


 不運にも彼女とは同じ班でした。 なんとか対面だけでも取り繕って接しているつもりでしたが、いつもの彼女の浮き沈みがとんでもないことを引き起こしました。帰りの飛行機のチケットが各班に配られました。チケット自体は一人一枚割り振られ、席番号が書かれているのでした。

 突如、佐藤がこう提案しました。「折角だから、シャッフルして見えないようにして配り合おう」と。嫌いな私がいるのにも関わらず、よくそんな事が言えたものだと思います。こういう時は一緒にいたくないと思えば思うほど当たるもので、私は嫌な予感を隠しながらチケットを手にしました。その予感は大当たりでした。

 私は佐藤の隣の席となってしまいました。しかもその席は二人だけの席。本当に最悪な気分になりましたが、そっと座って一言も話さずに数時間耐えればいいだけの事です。いつものように、何も言わずに耐えれば時間は過ぎてくれます。

私は恐る恐る彼女の隣に座りました。佐藤は私が隣に座るや否や、ヒステリックに叫びました。


「なんで吉田と一緒に座らなきゃいけないの!?!?」


 ガンと胸を殴られる錯覚を覚えつつ、しょうがないじゃんと小さくこぼしました。なぜなら、チケットをランダムに配ろうと言ったのは彼女なのです。結果に不満を思おうが、彼女の責任なのです。 二人の間で丸く収まれば良い話でしたが、佐藤は腹立たしそうに後ろの席の友達に「席変わって」を繰り返し、結局私が席を移動しました。

 その時私は何も言いませんでした。言うことができませんでした。はらわたが煮え繰り返り、何をしでかすか分かったもんじゃありませんでした。怒りをどうにかこうにか我慢すると、次に胸に訪れたのは深い悲しみでした。何故私がこんな間に合わなければいけないのでしょうか。何故、こんなことを言われなければいけないのでしょうか。

 そんなぐちゃぐちゃの感情に押しつぶされている私を救ったのは、隣に座っていた後藤という友人でした。彼女とは同じクラスになることが多く、話も合い良い友人でした。しかし彼女は何も知らなかったはずです。私と佐藤の不仲は周りの知るところとなっていたかもしれませんが、私は彼女の悪口を絶対に周りに言いふらさないようにしていましたから。

 茫然と、友人の話も耳から耳へ聞き流していたとき、後藤はぽつりと、本当にさりげなく告げたのです。


「辛いね」


 私はハッとしました。事情を知らず、第三者の立場からもらった初めての言葉でした。最悪な現場を見ていて、声をかけてくれた唯一の友人でした。 たった一言、その一言で私の心は破裂しました。私は涙がとめどなく溢れ、周囲に気づかれないように下を向いて泣いていました。そこにあったのは、悲しみと、理解です。

 私はずっと自分の気持ちに蓋をしていました。相手に反抗しないため、相手を傷つけないため。もしくは、自分が傷つかないようにするため佐藤に直接的な反抗は出来ないでいた。ただ弱音をこぼし、訪れる嫌がらせに耐えるほかありませんでした。

 ずっと夢を見ていたのです。私の彼女への初めての感情は、尊敬と好奇心でした。いつかまた最初の頃のように、羽交い締めにあった感情がほつれ元どおりになる、だから私は直接彼女と争えなかった。

 後藤の言葉は、その甘い考えを大きく突き放してくれました。私が今まで耐えてきたことは、周りから見ても辛いことだったのだと知ることができました。私はもう限界だったのです。本当に、精神的にぼろぼろだったのです。それを自覚させてくれました。


 帰り、後藤を呼び出し、強い剣幕で叱責出来たのはそのことがあったからでしょう。出来る限り感情を殺し、彼女のように幼稚にヒステリックに叫ばないように努力はしていましたが。


「さっきの行動、人としてどうかと思う。二度としないで」


 佐藤は不貞腐れ、間延びした声で「すみませんでしたー」とぼやきました。いろいろ言いたいことはありましたが声に出ず、結局そのまま私は彼女を放しました。 沖縄旅行は、最後の最後に最悪なものとなってしまいましたが、そこが大きな分岐点となりました。


 初めて面と向かって彼女に立ち向かった時、本当に恐怖し、終わった後も罪悪感で手が震えました。我を忘れて怒鳴ると、同時に涙が出てしまうのです。周りの人に汚い顔を晒すのは嫌で、何とか家に帰るまで耐えていました。

 ですが達成感もあったことも事実です。私は自分の感情に素直になれました。


 その時私は、今まで自分に向けよう向けようと努力していた感情の矢印を自由にしてしまいました。すると今まで抑え込んでいた力が一気に跳ね返るように、私は佐藤を強く憎むようになりました。憎い憎い憎い。無限に打った文字の羅列を彼女を宛先にして打ち続けていた日もあります。頭の中でなんども彼女に怪我をさせました。階段から突き飛ばしたり、ナイフでずたずたにしたり。今まで吐いていた毒を控え、惨たらしく私に向かって謝り続ける姿を想像すると愉快でした。勿論、それで気持ちが済むことはありませんでしたが。

 それからも部活での私を標的にした指摘は続きました。私は精神的に疲弊し、相手を殺したいという気持ちと、死にたいという気持ちが相互に現れていました。希死念慮というやつです。電車の車輪を見ると、自分が飛び込んだら切れるだろうかとか、なら佐藤を突き落として轢いてもらうのも良いかもしれないとか、そんな事を考えていました。

 部活仲間にも相談しました。悩んでいることを打ち明けると、誰もが私に同情し、止めてくれました。「殺すのは良いけど死んでくれるな」という人もいました。ですがそれだけです。部活の顧問もまともに取り合ってくれませんでした。

 やがて親に相談した時、やっと事が変わって行きました。母親はそんな部活行かなくていいと強く憤り、顧問に連絡をして私に3週間の休みが与えられました。束の間の休息を取っていた時、私の心はとても穏やかでした。この間だけは佐藤のことを考えなくてよい。部活からも解放され、親しい友人と一緒に登下校を送ることが出来る。そんな幸せを手にしたからこそ、部活に戻ることなんて考えられませんでした。

 佐藤以外のメンバーと話し合った結果、私は退部することを決めました。引退まで3週間、というギリギリの時期でした。もう少し留まってもよいのでは、という声を聞きましたが私は首を振りました。正直、3週間も我慢できる自信がありませんでした。


 さて、私にはあと一つやらなければならない事がありました。佐藤に感情をぶつけるのです。今までのことを話し、キチンと話さないと終われません。今までなんども私は彼女に交渉してきたのですが、彼女は話し合いの時は穏やかに接してきて、こちらから強く出ることは一度だってできませんでした。ですが、今回は違います。もうこれで最後なのですから、この一件で会話出来なくなっても構わないというぐらいの心積りでした。もう部活に行くことはないのですから。


彼女は初めてあった教室に佇んでいました。人のいない時間に呼び出し、私は彼女を睨みつけました。

彼女は笑って聞きます。


「どうしたの、吉田さん。何かあったの」


 私は声を荒げました。

「私が部活を辞めるのは、あなたのせいだってこと分かってる?」


 途端、彼女の笑みは鳴りを潜め、私を睨みつけました。

「何それ。私、けっこう気を遣ってあなたに距離を置いてるんだけど」


「それが置けてないからいってるんでしょ?」


「何処が?何が置けてないの?言ってごらん全部」

 一つ一つをあげても、彼女に丸め込まれてなかったことにされる。口がうまい彼女の常套手段でした。私の意見を跳ね除けるつもりで余裕そうに彼女は問い返します。私は彼女ほど利口に自分の利になるような言葉を持ちません。そう言われることも予想がついていました。だから、正論とは程遠い感情で刃向かうしかありませんでした。彼女のペースを崩さなければなりません。


「あなたは初めからそうだった。人のいないところで私を悪くいい、自分の気分の良し悪しで他人を振り回した。それがどんなに嫌だったか分かる?」


「まだそんなこと気にしてるの?私だってあなたに嫌なことされたことあるけどもう気にしてないし。もう何年も前のこと掘り出すのやめたら?」


 冗談じゃない、と思いました。彼女にとっては昔の出来事でも、私にとっては全ての始まりなのです。いたちごっこと言われようが、私の行動の何かが彼女の気分を害したのだとしても、それは執拗に人を傷つけていい理由にはなりません。何より、私自身の苦労を、辛い気持ちを、彼女の体験したそれと同等だと片付けられることは我慢なりませんでした。


「一緒にしないで!あなたはあまつさえ、私が部活をやめてもなんとも思わないだとか、私がいないときが一番好きだとまで言ったじゃない!私はそんなこと言われる理由なんてなかった!あなたは人の欠点をあげつらねて、そのくせ自分はテニスを上手くなろうと努力しなかった!技量よりも礼儀だといってどうでもいい理由で人を批判した!」


「だから、そんなこと掘り出されても困るんだけど?それに、私が努力を怠った?部長としての仕事もこなしてたし、毎回部活にも来てた。私のどんなところがやる気がないの?そういう風に見えたのならなんで指摘しないの?」


「指摘してたよ。ダブルスのペアとしてもっと上手くなって欲しいと言った。私のプレイで直して欲しいところがあったら言って欲しいって言った。なのにあなたはいつも何もないと言った。自分のプレイは棚に上げて、人の批判ばっかり。毎日毎日標的にされてヘトヘトだった」


「だって、何もないし。だから、嫌がらせなんてしてないって言ってんじゃん。自意識過剰なんじゃないの?」


 議論、というより喧嘩は平行線を辿りました。彼女は頑なに過去の行為を否定して、私の意見を否定しました。しかし事実は事実。そこには悪意がありました。人を傷つける意思を持っていました。私が干渉され、否定され、犠牲になっていることは、他ならぬ私自身が痛いほどよく分かっていたのです。

 やがて私は、彼女の意見をへし折る事を諦め、方針転換しました。


「とにかく私は、部活辞めるから。これからは部活でも他でも、私に関わらないで。もう監視するのはやめて。もうあなたと私は他人だから」


「はいはい。出来る限りそうしますよ」


 そうして言い争いは不完全燃焼に終わりました。言いたい事を言い切ってはいません。が、私は確かに彼女に立ち向かう事が出来ました。きっと今まで誰も成し遂げてこなかった事です。自分が傷つくこともわかって、死ぬ覚悟で叫びました。その後逃げるように洗面所に駆け込み、溜まった涙を洗い流しました。赤みは取れず、他の部活のメンバーにその事を伝える最中にまた泣いてしまいましたが、まぁそれは良いのです。涙は弱い自分を見せるようであまり見せたくないものですけども。


 高校3年は、私にとっては比較的穏やかな一年となりました。近くに彼女の存在はありましたが、担任の先生に頼み込み絶対に近くにならないようにしてくれましたし、後半には席替えもなくなり各々で勉強に打ち込む事ができました。部活を辞めたとき、後輩は私を惜しんで泣いてくれました。色々と苦労はありましたが、可愛い後輩たちでした。最後が彼女たちの涙を見て締め括れる事が、せめてもの救いでした。

春ごろは、テニス部はまだ引退ではありませんでした。私が悠々自適に受験生生活を謳歌している時、私は佐藤以外のメンバーに呼び出されました。 言いづらそうにしつつも、井上は私に頼みます。


「吉田ちゃん、部活戻ってこない?」


 それは想像だにしていない頼みでした。全員、何が原因で私が退部したのか分かっていたにも関わらずです。正直、再びあの地獄に付き合わされると考えただけで鳥肌が立ちました。理由を聞くと、思いがけないものが返ってきます。橋田は実は..ととんでもない事を口にしました。

「吉田ちゃんが抜けてから、佐藤、機嫌が悪くなって。なんか私たちに当たるようになっちゃって。今まで気にしなかったのにすごい怖くなっちゃってさ」


だから..と言って口をつぐみました。言わんとしている事がすぐに露見し、私は唖然としました。彼女たちは今まで私が被害を受けている姿をただ黙って見ていただけなのに、それが自分たちに降り注ぐと分かると被害を減らそうと私に押し付けてきたのです。 要するに、犠牲になって欲しい、という事でした。

 訳が分からない。そう思いましたし言いました。私は絶対に戻らないし、またあの責め苦を受けるつもりはない。よくそんな事が言えたものだと感心して、こうも言いました。「野次馬だったみんなが、私と同じ目にあって()()()()()で『共感』してくれて嬉しい」と。勿論皮肉です。小嶋と橋田は、私にとって親友です。腐れ縁といっていいかもしれません。だのに、こういう事を言われてしまいかなりショックでした。私は部活では、誰にとっても都合の良い存在だったのだろうと思いました。


 部活自体をやり切る事ができなかったというのは、私にとって思いの外心残りのあることでした。私は全く勉強に精が出ず、毎日宿題もしないでぼーっとしていました。早くこのまま一年が過ぎて欲しいと切に願いました。大学で、この閉じ込められた環境から解放されたかったです。結局、全てがなあなあにはなり、センター試験では大失敗をしましたが二時試験で滑り止めの私立に受かりました。生物国語英語で受け、大嫌いな数学を免除されたことは大きかったです。もし数学があれば、私は滑り止めにすら引っかからなかったでしょう。


 そして、私の6年間もあっという間に終了しました。記念の印鑑と一輪のバラをもらい、私は笑顔で学校を去りました。振り返ることもなく。 


 大学での毎日は、私にとっては新しい事ばかりです。自主性が重んじられ、全ての行動には責任が付き纏います。それまでとは全く違った世界に始めは戸惑いましたが、段々と仲間が出来ていくうちにその不安も和らいで行きました。かけがえの無い仲間が出来ました。一緒に一つのことをやり遂げる喜びを知りました。人のために動いてくれる人間が実は存在することも知りました。今、周りには佐藤の面影すらありません。

 佐藤はどうなったか。詳しくは知りませんが、風の噂で浪人したと聞きました。医者を志していた彼女ですが、実際には何を選んだのか知りません。 翌年の既卒生の進学実績を見ましたが、少なくとも有名な医学大学の合格者は多くても一人かゼロで、彼女が受かっている可能性は限りなく低いです。何の連絡手段も持ち合わせていません。彼女の連絡先は全て削除しました。友人に聞いても全員が知らないと言うでしょう。消えてしまったといって良いかもしれません。


 私は今、とても自由です。元々持っていた好奇心が爆発して、各地でゴリラが出現したと話題になっているそうです。皆さん、夜道には気をつけてください。ムチムチのおっきい生き物が歩いているかもしれません。うほ。

 小嶋と橋田とは今でも連絡を取り合っています。旅行にも行きました。彼女たちも悩みながら、各々の道を進んでいます。40までに結婚できなかったらルームシェアしようねと言われました。どうやら自分の死を見届けてくれる人は確保できたようです。幸か不幸か。


 時折、あの時のことを振り返ります。青春というものを全て捧げて、私はがむしゃらに頑張り続けました。何度死にたいと思っても、自分の命を軽んじる事はなかった。そのために大きな負担を強いてしまいました。もっと反撃できたとか言いようがあったとか、今だから言える事です。あの時の私には、選択肢は残されていませんでした。

 もし私があの時佐藤を殺していたとしても、私は自分を責めたりしないでしょう。あまり褒められたことではありませんが、殺人事件が起こると、毎度加害者側の背景を考えてしまいます。ともすれば自分もそちら側だったかも知れません。そう考えると、彼らと私の違いは、実行したかしてないかそれだけなのです。心理状況は同じではないでしょうか。

 

 これを読んでいる皆様は、今どんな心境でいるでしょうか。私に同情しているか、はたまた被害者面をしているそれこそ自意識過剰な女として写っているかもしれません。寧ろ、そう思ってくれて構いません。


 佐藤のような人間は、少なからず存在します。彼女のような人間は自分の正当性を決して曲げません。自分の感情のためなら人を見下し、徹底的に追い詰めます。そしていざ自分に被害が及ぶと、まるで自分が一方的な被害者であるかのように振る舞うのです。


 そんな人と出会ってしまったら、どうすれば良いのでしょうか。理屈だけなら何とでも言えます。逃げる。学校を辞める。部活を辞める。相手を酷い目に合わせる。陰口を叩く。沢山あります。私は、どんな手段に出てもその人を責める権利は自分では持たないと思っています。

 ただ、自分を下げるような人間にはなって欲しくないのです。我慢ばかりしていると徹底的に相手に利用されます。周りからは舐められます。状況は悪化の一途を辿ります。これは確実です。

 私はその体験を踏まえて今の私があると言えますが、全く持ってその経験が必要だったとは思いません。人間関係にずっと恵まれていたと言う友人が、キラキラと瞳を輝かせ友人との思い出話に花を咲かせる様子を、眩しく思った事があります。


 どうか、あなたの価値をあなたが否定しないで下さい。自分を大切に出来るのは自分しかいません。結局人間は利己的でしかないのです。生物の摂理です。

 そして、世界の片隅に、そんな辛い思いをした人が今日も生きていることを、知っていただけると嬉しいです。私のような経験をした者はこの世にごまんといるでしょう。それ以上に辛い思いをした人もいるかもしれません。 側から見るとそんな事で?と言う理由で命を経ってしまう人もいます。ですが、その人にとってそんな事でも、当事者にとってはそんな事が全てなのです。他に世界を持たないのです。人の辛さは比較出来ません。どんな痛みも、その人にとって100の傷なのです。


橋田たちの行動について、私はあれから彼女たちに一度も、一言も言っていません。別に一緒にいる上でわざわざその話を持ち出して嫌な空気にさせる気はありませんし、その出来事を差し引いても一緒にいて気楽な良い友人です。

 私は彼女達のことを親友だと思っています。たった一つのことを除いて、私は彼女達となんら心配する事もなく好き勝手やっています。ただその一つが、唯一と呼ぶには些か深く大きいトゲとして刺さっていることは事実です。そして私はその点では彼女達に、他人というものに諦めています。

 さて、この話に目を通していただいている皆様には感謝してもしきれません。

皆様は『読む』ことで、その記憶を留めることで、私の傷んだ心を救ってくださっています。

 繰り返しますが、私は加害者の気持ちを想像する事があります。気持ちだけは彼らに同調したことがありますから。

 恨みなんて、燻るように残り続けています。彼女だけではない、無関係を装いただただ傍観をするだけの人間に、トゲを刺したいと思っています。思い出す度に痛むだけなんですから、可愛いトゲですよね。


 さぁ、The fact is stranger than the novel。

 

 誘蛾灯に引き寄せられた猫の体に、害のない毒をつけましょう。

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