8,時には焼き菓子の如く焦がれて
風はたしかな異変をシゼルへと運んでいた。
いつになく重い息を吐き出して、シゼルは視線を遠くへ投げるも、そこにあるのは塞がれた小さな窓。申し訳ない程度に布が貼り付けられ、その奥にあるはずの真っ暗な雑木林も、炎で赤く染まる夜空も瞳には映らない。
「セシファー様、お目覚めになりましたか」
窓とは対角にあり、この部屋にたった一つの扉が開かれる。
特に驚く風もなくシゼルはそちらを見やったが、椅子に括り付けられて身体の自由を奪われているせいで思ったようには動けない。けれどその声はたしかに聞き知ったもので、その人物が誰であるのか間違うことはできなかった。
「――アイリスさん。なんで私、こんな目に……」
目の前に現れた姿はシゼルと同じ大公家のお仕着せで、いつもとは違って短めの髪を後ろで高く括っていた。呼気が触れるほど近く覗き込んできた濃紺の瞳は凪いでいる。
「ご冗談も大概になさってください。私より御自身がよくご存じでしょう、セシファー様」
彼女は何がなんでも自分のことをセシファーとしたいらしい。反論するのも面倒になって、シゼルは小さな溜息をついた。こんな状況になっている以上、反論は無意味だ。
「まさかあなたが陛下の犬だなんてね。俺や大公に気取らせないってことは、それなりの譜術士――陛下の下で、大帝の譜でも研究してた?」
「さすがは敬愛するオース陛下のご令息、ご明察ですわ」
道理で自分が簡単に捕まっているわけだ。
クラウを探しに宿舎を抜け出して、真っ先に向かった書庫にクラウの姿はなく、次に宿舎裏手の雑木林へと足を向けた。
雑木林の奥には白銀の翼の演習場がある。クラウは寝付けないと夜闇に紛れて剣の素振りをする習性があるから、もしかしてと思って行ってみればこの有り様だ。
演習場の踏み固められた大地を見る前に、猛烈な睡魔――どころか唐突に意識を失って、気づけばベット二つも置けない小部屋に閉じこめられていた。
クラウに散々鍛錬不足だと罵られてはいても、唯人相手に後れを取るほど鈍っているつもりはない。けれど気配に気付けぬほど遠くから、譜術により眠らされたのなら話は別だ。
(とはいっても――、一番の敗因は、油断かな)
進む背後に感じた熱――宿舎が燃えているのだと理解したときには、記憶の片隅にある恐怖が足を竦ませていた。シゼルが火事に遭ったのは二歳の時。自分でもまさか覚えているとは思わなかった。木の爆ぜる音が聞こえ、人々のざわめきが轟き、焼け焦げる匂いが鼻をつき、譜術の気配を感じた時にはすでに遅かった。
「それで、アイリスさんはこれから俺をどうするつもり?」
「ご存じのクセに。私は陛下の元にあなた様をお連れします」
普段とは違って丁寧に話し掛けられると、なんだか調子が狂う。
「セシファー様がいらっしゃれば、陛下の悲願は達成される。陛下は、王宮へあなた様がいらっしゃるのを心待ちにしておられます。ですから、」
「断る」
相手の言葉に呑まれないように、シゼルは敢えて短い言葉を選んだ。
「大帝の譜を使って世界を統べる――そんなバカげた目的のために、俺は陛下の片翼になるつもりはないよ。それともなに?それ以上に何か崇高な目的があるとでも言うの」
部屋に点されたわずかな灯りが、アイリスを仄暗く浮かび上がらせる。
「ええ。けれどそれをお伝えするのは私の役目ではありません。ですから王宮にあなた様をお連れするよう、私に命令が、」
「あー。もういいよ。大人しくついていっても、無理矢理連れて行かれても、結局待ってるのは陛下の操り人形にされるってこと。両翼なんて持って生まれるんじゃなかったな。そうすれば悪意ある者に狙われることも、実の親に利用されることもなかった」
「利用だなんてそんな、陛下は心からあなた様のことを心配しておいでです。話を聞けばそんな陛下の真意もおわかりいただけるかと、」
「あーあ、カナルはなんて可哀相なんだ。あんな親の元に十五年、逃げたくなるのもよくわかるよ。そのうえ、こんなわからずやの研究者たちに囲まれて、幼い頃から人体実験の毎日。――考えるだけで、反吐が出る」
吐き捨てた言葉は、ことのほか大きく響いた。そんなシゼルの態度にアイリスは困ったような顔をする。
「人体実験だなんて人聞きの悪い。私たちはただ、カナル様に助力を請うただけで」
「その結果が、あの子のボロボロな身体でしょ?あんなにもマナのバランスを欠いた状態じゃ、バランスを取り戻すまで片翼を務めることはできない。だからって、いるとも知れない長子を探し始めるなんて、陛下も相当焦ってるとみえる」
「……っ、それは……」
ようやく本当に顔色を変えたアイリスに、シゼルは密かに安堵の息を漏らす。
「俺を攫うのだってもう少しあとだっていい。――そうだな、例えば西の大陸の軍艦が、マナカイルの港に着く前まで、とか?」
「ご存じなら、なぜ陛下にっ」
今度はアイリスの声が部屋中に大きく響いた。
もうすでに、外の騒ぎは納まりつつあるようだ。引き際の静けさが、肌を伝う。
「大帝の譜は災いを呼ぶ――なんて、研究者であるあなたこそよく知っているよね。国防のためとはいえ、大帝の譜を乱用すれば世界からマナが枯渇する。そうすれば世界は生命なんて一つも存在しない死の世界になる。それがわかっていて陛下に従えるわけがない」
ますます顔色の青冷めるアイリスは、すっかりシゼルの言葉に囚われている。
あと一歩。確かな手応えを感じたシゼルは、畳みかけるように呼び掛ける。
「ところでさあ、アイリスさん」
「――なんです?」
「陛下の願いが、本当に世界掌握だとでも思ってる?」
質問の意図がわからない、といった呈でアイリスは言葉を止める。
彼女の束ねていた髪の毛が、はらりと垂れた。
シゼルは静かに微笑する。
「ああなんだ、知らないのか。世界掌握なんてのは大義名分、あの人は私利私欲のために大帝の譜を使うつもりだ。――俺もあなたも、みんな、利用されているだけなんだよ」
ひとつふたつと、十分すぎる静寂が続いた。
そこへ届いた鋭いノックに、顔を上げる。
音もなく現れた気配に、アイリスは笑みを取り戻した。
「やっと仲間が来たみたいです。セシファー様、もう一度眠っていただかないと……」
明らかにホッとした様子で振り返る彼女の姿を眺めながら、シゼルは小さな溜息をついた。あと少しで彼女をうまく操れるところだったのに――、と咄嗟に出た翳い考えを頭の片隅に追いやって、無感動に古びたドアが軋む音を聞く。
「ほお――。そいつが本物だったとはな」
自分の命運を決めるかもしれない瞬間にあっても、シゼルの心は冷めていた。思えば村で襲われたときもそうだった。――が、今は違う。
割って入った声と扉の先から現れた人影に、縛られているのも忘れて、立ち上がりそうになるほど動揺した。
なんで、どうして――などと、簡単なことが言葉にならない。
「陛下の犬がこそこそと、俺より先に兄上に接触しようなど図々しいにも程がある。身をわきまえろ、下衆が」
尊大に吐き捨てたカナルは、じっとこちらに視線を据えている。そしてその隣には――。
「クラウ!無事だったんだね」
「それは僕の台詞だっ」
すかさず吠えたクラウは、王宮メイドの短すぎるスカートを靡かせて仁王立ちしている。二人が共に行動している理由なんて考えたくもないが、簡単に想像がつくからシゼルは少しだけ息を吐いた。
でも何より、クラウが無事であることがシゼルに安堵の息を落とさせた。
「怪我は、ないようだな。ったく、僕がいない間に捕まるなんて、なんてザマだ。これで僕のありがたみがわかっただろ」
クラウはアイリスの脇をすり抜けると、シゼルの後ろに回って縄を切った。途端に自由になった手足の状態を、シゼルは呑気に確かめる。
「シゼル、おまえ――」
「おまえが、シゼル。――なるほど、そういうことか」
茫然自失のアイリスを無視して近寄ってきたカナルは、クラウを押し退けて泰然とシゼルを見下ろす。
「初めまして、かな?」
自然と差し出された手を取って立ち上がった兄は、そこそこに育った弟の頭を、幼い子にするようにくしゃりと撫でた。
カナルは抵抗せずに、されるがまま兄を見返している。
「セシファー兄上が大公家に潜んでいると、少し前に陛下の宮で聞いた。――たまには立ち聞きしてみるものだな。陛下自身が仰っていたから本当だろうと、いざ大公家に来てみれば期待どおりに兄上にお会いできた」
「期待どおりって言っても、こんな兄貴でがっかりしたでしょ。自分でもわかってるつもりだから文句あっても言わないでね」
思わず優雅にスカートを持ち上げてしまったのは、ここ最近の淑女としての日々がなせる技だ。一度でも足を踏み入れたらとことん追求してしまう自分の性質が憎い。
「がっかりはしていない」
「じゃあ俺のこと、憎かったりするのかな?」
カナルは一瞬だけ眉を寄せると、つぶさに口の端を釣り上げる。カナルからすればシゼルは皇太子の地位を危ぶむ存在だ。快く思われていないと、シゼルは思っていた。
「ああ、そうだな」
弟があまりにあっさりと頷くので、シゼルの笑顔は凍る。――やっぱそうだよね、と努めて出した明るい声は裏返った。
「兄上、おれに愛想は無用だ。たしかに憎くは思っているが、それは兄上があれの主だから憎いのであって、兄上御自身を憎いなどとは思っていない」
え?と顔を上げて視線だけでクラウを追うカナルの姿を見やった。
「ずっと――。ずっと、会えることを望んでいた。唯一、陛下に対抗できる兄上に。おれは今ここで皇太子の座を返上し、真の忠誠とおれの翼をあなたに捧げよう。――お許し下さいますか」
抜いた短刀の切っ先を喉元に、柄をシゼルに向け、カナルは跪いた。
騎士に倣った誓いの仕草と、手にする短剣の清麗さがこの場を厳粛な雰囲気に変える。
柄に嵌め込まれた蘇芳の玉が月光に照らされて繊々に瞬き、シゼルは表情を改めた。さり気なく外した色ガラスの下からは、悪しきを看破する琥珀の瞳が現れる。
「認めよう、カナル」
一言だけ王の眼差しで呟いて、緩んだ頬はそのままに手を差し伸べる。
「ありがとう。俺もずっと会いたかったんだ、俺の片翼に――かわいい、弟に」
クラウがずっと羨ましかった。離れていても弟と心が通い合っていて。
自分にも弟がいるはずなのに、でも会えなくて。もし会えたら何て声を掛けようか、想像したこともあった。でもそれはきっと叶わなくて、現実になるなんて思いもしなかった。
「これで国を支える両翼が揃ったわけだ。兄上は王に、おれは大公となれる」
「うん、そうだね。――でもね、なれるじゃなくてなるんだよ。俺と君が、王と大公に」
今度は逆に兄の手を取り立ち上がりながら、カナルはいつもの不遜な笑みを浮かべようとして、不意に失敗した。――自分を引き上げる力強い腕、降りそそぐ真っ直ぐな眼差し。目に映る兄のすべてがカナルの策略に固められた仮面を引き剥がす。
この兄には敵わない。いや、この兄こそが国の頂にあるべき者。
その彼の前では頑丈に作った心の檻でさえ無きに等しい。
カナルは戸惑いながらも彼らしからぬ柔らかい笑みを浮かべた。
「そんなことしてる場合じゃないだろっ!」
じりじりと、声を掛けるタイミングを探っていたクラウは、ようやくアホな兄弟を怒鳴りとばして、息せき切った。アイリスは変わらず放心したままのようだが、いつ彼女の仲間が来るとも知れない。完全に危機を脱したわけではないのだ。
とはいえ、兄弟の感動を邪魔するほどクラウも野暮ではない。
シゼルの気持ちも嫌なほどわかるから、やっとの思いで言い切った。
「すぐに本邸へ戻ってください、あそこなら隊長はじめ白銀の翼が揃ってる。そこなら安全ですから、はやくっ」
小部屋にある唯一の出入り口にはアイリスが立っている。クラウは彼女の動きを抑えようとシゼルを捕らえていた縄を拾い上げて、一気に踏み込んだ。――と。
ザクリ、と鈍い音が響いて、金臭さが漂ってきたかと思うと、途端にアイリスが後ろに倒れ込んできた。
咄嗟に避けたクラウは後ろ手に縄を隠し、シゼルとカナルの前に敢えて立った。
どさり、と仰向けに倒れたアイリスは、胸に短剣を突き刺し絶命している。
「なにが起きたっ」
カナルが叫ぶのと同時に、目を灼く白い閃光が小部屋を埋め尽くす。
クラウのすぐ脇を人が通り抜けようとして、反射的に身を乗り出せば、冷たく硬いものがクラウの腹を抉る。追いかける痛みと熱さは思考の隅にやって、がむしゃらに行動を起こせば、何人かを打ち落とす手応えがあった。
再び目前に、硬質な鋭い気配が迫る。
意識が削られる。息が、途切れる。
どうにか後方へ下がったが、自分の身に着けている何かが刃物に絡んで飛び跳ねた。それはカラーンと床の上を滑り、やがて壁に当たって止まる。
それが何であったか思い出している内に、クラウの意識は途端に止まった。
「クラウッ!」
ようやく視界の開けた小部屋に、クラウは不自然に倒れ込んでいた。
カナルは渋い顔をし、目の前に並ぶ男たちを睨め付ける。
「貴様ら、父の手の者ではないな――」
「さすがは皇太子殿下、聡明でいらっしゃる。――十五年ぶりですね、セシファー殿下。お迎えにあがりました」
頭目らしき男の、その言葉だけで十二分だった。
懐中時計のオルゴールが、過去を告げるように虚しく鳴いた。