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7,失った翼の憧憬

 冷たい、かび臭い、カタイ。それに、イタイ。

 濁とした中に在りながら、拾い上げた断片的な事物がクラウの意識を現実へと引き戻した。少しだけ回復した視力が捉えるのは朧気な闇、それと均等に突き立った鉄の筒。

 視界の端に映るのは符の灯りだろう、炎のような暖かさは感じない。だが、そのわずかな灯りのお陰で自分の置かれている状況はおおよそ把握できた。

 ここは、牢屋だ。

 わざとらしく呻いて、クラウは寝返りを打った。

 手荒く石の床に放り投げられたせいか、身体のあちらこちらが小さく悲鳴を上げる。

(起き上がっても、平気か――)

 そこそこ大きな声を出したというのに人の動く気配はなかった。おそらく牢は錠前で閉じられ、入り口に人を配備する必要がないのだ。

 声の反響具合から考えるに、アイゼンホーク邸のような貴族の屋敷によくある私的な牢屋よりもここは幾分か広く、警備の立つ入り口までは距離があるようだ。並ぶ別の牢からも人の気配はなく、ここに捕らえられているのはクラウだけらしい。

(倒れたまま放置、ということは今のところ叩き起こして拷問する気はなさそうだな)

 あくまで、少なくとも今は。

 起き上がって、壁に背を預けてクラウは息をつく。

 それからポケットの中身を確かめて、靴の隠しを探って、スカートの裏を確かめた。

 幸いなことに、持ち物は何一つとして奪われていない。衣装の中に仕込んだ武器も気づかれなかったようだ。

 ポケットに残っていた小さなアップルパイを口にしながら、クラウは熟考する。

(どうやって逃げ出すのが最善だろうか)

 捕まっていながらも、クラウは異様なほど冷静だった。

 限られた情報の中で相手の出方を考え、今ある道具でどうしたら脱出できるのか複数の方法を模索する。――思いつく知略の数々は、父から受け継いだものだ。

 幼い頃から父に聞かされ続けてきた沢山の冒険譚――要はリヴァルのこなした任務の話は、騎士への憧れを掻き立てると同時に様々な知識をクラウに与えてきた。

 縄抜けに、簡単な熊の倒し方や錠前外し、それから集団戦における戦術に指揮の執り方など、今になって思えば騎士となるために必要な知識も詰まっていた。

 昔は作り話だと思えた奇想天外な話の数々も、こんな格好をしている今だからこそわかる。間違いなく大部分は事実だ。大公家なら単身武器も持たずに激戦地に乗り込むような任務も、女化族と呼ばれる女装民族の祭りに潜入する嘘みたいな任務もあるだろう。そしてあの父親なら軽々とやってのけたはずだ。

 そこまで思って、クラウは膝を抱えた。

(また、やってしまった。どうして、僕は、うまくできない)

 父みたいに。

 強く思ってしまったから、できるだけ浅く唇を噛んだ。

 父ならば、きっと地下牢に捕らえられるなんてことはなかったはず。殿下を無事に逃がすどころか見張りに気付かれることなく情報を手に入れ、自らも逃げおおせただろう。

 彼と比べたら自分はなんと無力で愚かなのか、考えれば考えるほど気持ちは沈んだ。

 無力なのはまだ仕方ない、これから積み重ねることで挽回できる可能性はある。

 だが何より、愚かな自分に辟易した。――どうしてあの場で短気を起こしたのか、窮状に追い込まれてこそ冴え渡る頭が、さっきから自分を糾弾し続けている。

 自分にはあの場で出来たはずだ。王家の地下道とは別に、父に教えられた抜け道を使って、彼らの隙を突いて夜陰に乗じて逃げ出すことが。それなのに。

  蹴って、頭突きして、蹴った。

 離宮へ来る前の苛つきが、短気に拍車を掛けた。

 悔やんでも仕方ない、わかっている。けれど、堪らず溜息が溢れた。

 いつも短気で失敗して、二年前にはその短気のせいで取り返しのつかないことをした。だから自分の性格を見つめ直したつもりだった。でもまた、同じ過ちを繰り返した。

(親父だったら騎士たちに媚を売って色香に酔わせて逃げるだろうな。笑顔どころか真っ向勝負、それも怒りで背後の気配に気付かないなんて)

 騎士として致命的だ。もし主君の命が掛かっていたらどうするつもりだったのか。

 悔やんでも悔やみきれず、己を責めては自分の愚かさが身に染みた。

(殿下は無事に逃げられただろうか……)

 主君ではないからといって王子を危険に晒していいわけはない。

 あの場で地下道へ落とせたことがせめてもの幸い、もし一瞬でも判断が遅れていたらカナルの命はなかっただろう。それだけ騎士たちの放つ殺気は本物だった。

 王宮騎士がカナルの命を狙う理由はわからない。

 その謎を解くにはクラウは王都に来て日が浅く、情報不足だ。

 白銀の騎士の一員として認められていたのなら、ティアは彼らの持つありとあらゆる情報をクラウに与えていたのだろう。だが、所詮は見習いだ。意図的に情報は遮断され、その上アイゼンホーク家の情報網を未だ使いこなせずにいるクラウにとって、一人で探れる限界は低く、わからないことが多すぎて歯がゆい。

 くそ、と口汚くクラウは言い捨てた。

(弱いな、僕は。こんなところ、シゼルには見られたくない)

 本人を前にするどころか口に出してもいないのに、シゼルを意識しているだけでめらめらと闘志が湧き起こってきた。闘志と同時に、シゼルへの苛立ちも募ってくる。

(…………っ、シゼルのやつッ)

 思い返してみれば、宿舎を出たときにした言い争いに決着がついていない。気を失ったせいか遠い昔のことのように思えるが、たった数時間前の出来事だ。

 言うだけ言って――、言い負かされてしまった。勝ち逃げなんて許せない。

 こんなところで落ち込んでいる場合じゃないのだ。今は一刻も早くここから逃げ出すべきだ。悩む暇さえもクラウには惜しい。自分には時間がない、わかっていたことだ。

 自らを叱責したクラウは立ち上がろうとして――、やめた。

 鉄格子の先にある廊下、更にその先にある入り口の辺りに人の気配がする。

 クラウは音を立てないように気を付けて、冷たい石床の上に倒れ込んで静かに目を閉じた。ここは気を失っているフリをして機会を覗うべきだ。

 重そうな鉄扉の開く音が響き、一歩、二歩と足音が近付いてくる。――男性、それもしっかりとした体躯の持ち主、そして無駄のない足取りは武の心得を感じさせる。

 錠の外れる音が聞こえ、さほど強くない光がクラウを照らす。

「はーん、マジで捕まってるとはねえ。お兄さん、ちょっと泣けてきたわ」

 聞き覚えのある美声に、クラウはガバリと起き上がった。

 眩しさに目を凝らして見た先にあるのは、短く切り揃った銀髪の鈍い輝きと銀縁眼鏡の妖しい閃き――。そこにはエルメタリカ・ファウト、かの大佐の姿がある。今日は白衣ではなく黒っぽい装いで、その精悍さは彼が軍人であることを否応なしに思い起こさせる。

「まあでもさすがリヴァルの息子ってとこか、こんなところで狸寝入りとは恐れ入ったよ」

 睨め付けるようにして彼を見上げるクラウにエルメタリカは苦笑を一つ落とす。

「けどなー、いきなり起き上がるのはどうかと思うぜ。俺が敵だったらどうする。そんな不審な行動すれば間違いなく拷問部屋直行だろ。もう少し駆け引きってものを学ぶべきだな、しょーねん。まったくがっかりさせんなよ。……ん?なんだ、その顔」

 クラウがあまりに引きつった顔をしていたからだろう、エルメタリカは眉根を寄せた。

 けれどそれは仕方ないことだとクラウは思う。なぜ彼が自分を助けに来たのか、そもそも彼のことを信用していいのか、まったく判断がつかない。

 だって怪しいではないか。王宮騎士の管轄である離宮に軍属の彼が、複製しにくそうな離宮の牢の鍵を持ってクラウを助けに来たのだ。

「そう勘ぐるなよ。いろいろ言いたいことがあるのはわかるが、今はともかくここを出ることが先決だろ。動けるな」

「バカにしないで下さい、そんな柔な鍛え方してませんから」

 助けを手放しで喜べるほど楽観的な思考はしていない。あくまでここから脱出するために彼に従うのだ。そう自分に言い聞かせて不自由な身体を動かした。

 念のために譜術でクラウの偽物を作って、二人は地下牢を後にする。不思議なことに彼に誘導された道すじには警備が一人としておらず、誰かに見咎められることはなかった。

 彼が警備を倒したのか、それとも警備の穴をかいくぐっての道すじなのかはまったく不明、彼の素性を苦々しく語ったティアの顔がふと思い浮かんだ。

 誘導される道々、いくつかの部屋を通り抜けた。使われ方に差はあるものの、どの部屋も譜術の研究室だ。その成果を掠め見ながら、湧き起こる嫌な予感にクラウは吐き気を覚えていた。堪らなくなって息を吐き出して、どうにか先を急いだ。

「なークラウ」

 唐突に振り返られて、驚きながらも彼の声がしっかりと届く範囲に近付く。

「もし死んだ父親に会えるとしたら、真っ先に何言いたい?」

「は?」

 進む速度は落ちなかったが、呆気にとられるあまり間抜けな返事をしてしまった。

 おそらく彼は、自分がリヴァルの息子だということを知っていてそう言っているのだろう。それにしても、あまり問われたくない内容だった。

「なんで家族残して死んだんだー、とか。それとも、名家の面倒を押しつけんなーとか?いっそ、おまえのせいで人生めちゃくちゃだーとか?それとも、んー、そーだなぁ」

「少佐の目から見て、父はどんな人物でしたか」

「へ?」

 今度はエルメタリカが間抜けな返事をする番だった。

「今思えば、少佐の太刀筋は父に似ていた。父のこと、ご存じなのでしょう?」

「あー、うん。よく気付いたな。バレないようにわざわざ槍で相手したのに」

「僕だって酔狂で剣を習ってたわけじゃないですから」

 クラウの剣術の師匠はリヴァルではない。だからこそ、たまにリヴァルと手合わせするうちに、彼の剣のクセを把握できた。あの時は冷静でなかったからわからなかったが、今になって思えばエルメタリカの太刀筋はリヴァルに酷似していた。

 一呼吸置いて、エルメタリカはそうだなぁと切り出した。

「オレにとってリヴァルは特別だからなー。言葉には尽くしがたい。なんだろ、雲のように掴めない男?飄々としていて、時に嵐を巻き起こして、それでも常にオレたちを見守ってて、そんな感じだなー。で、そういうおまえは父親のことどう評価してるわけ」

 その問いに関しては、すぐに応えられた。

「最っ低な男です。ですから、文句がありすぎて一番に何を言うかなんてその時になってみないとわかりません。――でも」

「でも?」

「僕は父に言われたから騎士になるんじゃない、それだけは言ってやりたい」

 クラウが硬く言うと、エルメタリカは「そっか」とだけ言って速度を上げた。

 彼の速度は尋常ではない。さすが父の弟子をやっていただけのことはある、クラウの小さな身体では追いつくのがやっとだった。かといって、追いつけない速さではない。

「あ。そうそう、忘れるとこだった」

 拍子抜けするほど何気なく、けれど速度を緩めることなくエルメタリカは呟いた。

 途端に投げられた金色の何かが、クラウの目の前に現れる。咄嗟のことに取り落としそうになって慌てながらも、クラウはどうにかそれを受け止めた。――懐中時計だ。

「なんです、これ……」

「おまえの親父からの預かりもん。おまえに返すよ。首に下げときゃいいことあるかもな」

 むしろ呪われる……とは思っても、牢から助けてくれた恩人を無下に出来ず、クラウは大人しく従った。首に下げてみると、手で感じていたよりも懐中時計は思いのほか軽く、着けていることを忘れてしまいそうなほどだ。細工もなければ彫りもない、けれど丁寧に磨き上げられた姿は毛足の長い猫を思わせる。

 エルメタリカは再びクラウの方へ振り返る。

「ああ、そうそう。言い忘れるとこだった。それ、弟には内緒にしとけよ!」

「はあ?」

 まったくなんなんだろう、この人は。

 けれど、ただ少しだけ、この人が自分を助けに来た理由がわかった気がした。




 離宮を抜け出してからは、ただひたすら大公家に続く地下道へと急いだ。

 近衛でもないエルメタリカがなぜこの道を知っているのかやはり謎だったが、父にでも聞いたのだろうとクラウは百万ある疑問を呑み込んだ。

 だが、こんな機密情報をいくら弟子とはいえ父が他人に教えるだろうか――。

 改めてぶち当たった疑問は、ある人物の登場によって遮られた。

「カナル殿下っ!」

「随分と無挨拶だな。おれに敬意を払っても損はないはずだが。――まあいい、無事で何よりだ。おれのせいで殺されたとあっては、目覚めが悪い」

 さすが皇太子殿下、仰ることが不遜である。

 そんな態度にささやかな憤りを覚えながらも、クラウは文句の全てを仕舞い込んだ。

 どんなことを言っても、エルメタリカを助けに寄越したのは彼なのだ。大公家のメイドの一人くらい見殺しにしたって、カナルには痛くも痒くもないだろうに。

 クラウは少しだけ、この王子様の評価を見直した。

「では殿下、オレはこれで。約束通り、貸しは返したってことでいいんですね」

「ああ、それでいい」

 鷹揚に頷くカナルに満足して、エルメタリカは立ち去ろうとする――が、地下道の奥に消える寸前でなぜか踵を返した。闇色の視線は、クラウを捉えていた。

「――クラウ。おまえ、もう二度と捕まんなよ」

 じゃあな、と軽く手を振って今度こそエルメタリカは去っていった。

 軽々とした彼の足取りとは真逆に、クラウの心はドンと重くなる。

 そして、しばらくの無声の後――。

「僕は野性の獣なんかじゃないッ」

 ここは地下通路だ。姿こそ遠いが、間違いなく叫びは彼の耳にも届いただろう。

 普段子ども扱いされることの多いクラウも、動物扱いされたのは初めてだった。

 あの大佐はなかなかどうしてクラウの神経を逆撫でる。それこそ相手に聞こえないことをいいことに、クラウはぐちぐちと悪態を言い連ねていた。

 何度目になるか、まったくあの大佐はと口にする。そのとき。

「――え」

 腕を掴まれる。肩口を掴まれる。

 そして、ゆっくりと彼の体重が掛かったと思ったら、背中は壁に押しつけられていた。

 身が引き締まるような冷たい壁、熱のこもった手、頬に掛かる吐息、琥珀色の輝き。

 近接して見つめられると、相手が誰であろうとサッと頬に朱が走った。

「――な、なに、を」

 上擦りながら問いかけてもカナルは微動だにせず見つめ続けるだけだ。

 何か怒らせるようなことをしただろうか――、思ってクラウはカナルを見つめ返した。

「殿下、あ、あの。助けてくださって、ありがとうござい、ました」

 助けたのに御礼もなしじゃ、相手の機嫌が悪くて当然だ。それでも素直に御礼を言うのはなんだか恥ずかしくて、言葉の最後は尻つぼみに、俯き加減で言ってしまった。

 それを聞いたカナルは、一瞬呆気にとられたような顔をして、突然、笑いだす。

 いつものクツクツという意味深な笑い方ではなく、クスクスといった形容の似合う、思わず笑ってしまったといった風の笑い方。そんな彼が不思議で、クラウは見上げた。

 ――初めて、笑った。

 こうやって見ると彼も同い年の少年だ。ただ少し、自分より背が高いだけで。

 書庫での出会い以来、カナルのことを不気味で不吉な人物だと思って止まなかったが、彼の自然な笑顔は不幸どころか見ているこちらの幸福さえ呼び込みそうだ。

 そんなところまでシゼルに似ているようで、クラウはなんだか複雑な気持ちになった。

「可笑しな奴だな。おれに従わなければあんなことにはならなかったっていうのに、そんなおれに礼を言うか。それどころかおまえを置いて逃げたのにな」

「関係ありません。助けていただいたのは事実ですから。それより、どうして殿下が追われたんですか――、あの騎士たちは、いったい」

 それが一番の謎だった。

 騎士が王族を襲うなど考えられない。だとすると彼らは偽物、あるいは――。

「そうだな、おまえになら一つ話をしてやってもいい」

 ふっと、掛かっていた重みが消えた。カナルが隣に移動したのだ。

「おまえ、おれの兄を知っているか」

 何を唐突に――いや、一瞬だけ心臓が跳ね踊ったことは、カナルには秘密だ。

「エルード殿下なら、宮殿にいらっしゃるんじゃ――」

「ああ、たしかに。あれも兄だ。だが、――もう一人」

 再び温もりが、近付く。

「おまえが本物か――?」

「うわぁあぁああっ」

 また耳朶を通り過ぎた呼気に、思わず悲鳴を上げた。

 今度はひらりと避けられていまったので、突き飛ばすことには失敗した。ゼイゼイと肩で息をして涙目でカナルを睨み上げると、そこにあるのは彼特有の嘲笑だった。

「女ならもう少し可愛く反応したらどうだ、まあおまえが男だというなら話は別だが」

 困惑に任せて口を開閉するクラウを見て、カナルは口の端をわずかに釣り上げる。

「男だな、どう見ても。やはりおまえ、白銀の翼か?」

 カナルが凝視するのは乙女の羨む、蕩けるような白皙の肌――。

 けれど、はだけたブラウスの下から現れるのは線の細い少年らしい躰つきだ。

「い、いつ、いつの間にっ」

 留め具を失い項垂れるブラウスと露わな自分の胸部――。

 いったいいつボタンを外されたのか。クラウの心の中を吹雪が渡った。

 つと、訝しむように目を細めるカナルが目に留まる。

「誰に痕をつけられた」

 蔦のような指が追うのは左胸の刀傷だ。いくつもある傷の内、それだけはシゼルが残した痕だった。一年以上経っても、触れられるといまだに小さく疼く。

「殿下には、関係のないことです」

 疼いたのは本当に傷だったのか、弾かれたように心臓がコツンと鳴った。

「こんなものより、どういうことですか本物というのは!」

「地下書庫の肖像画を覚えているな」

「肖像画――?それってあの、薄桃色の髪の。あれがどうしたんですか」

 何を突然言い出したのだと訝るクラウの横で、カナルはさも当然とばかりに頷く。

「あれは父の前妃、リア様の肖像だ」

「あの方が、リア様――?」

 口の中で復唱して、クラウは事実を確認する。

「リア様は今から十七年前、男の御子をお産みになった。それがおれのもう一人の兄、セシファー皇太子殿下だ」

「け、けれど、今の皇太子はカナル殿下で、たしか、セシファー殿下は」

「よく知っているな。セシファー兄上はリア様ともども十五年前の離宮の火事で亡くなられている。だがな、兄上は生き存えて今もどこかで隠遁なさっているという者がいる」

「そんな根拠のないこと、誰が……」

 血の気が引いていくことを確かに感じながら、クラウは取り繕うのに必死だった。

 なぜ今になってそんな話が持ち出されるのだ。

「根拠がないわけでもない。火事のあとで、兄上の御遺骸だけが見つかっていなくてな。お陰で何度もセシファー兄上の名を語る不届き者が現れた。――おまえもその一人、いや、今度こそ本物かとさえ思ったんだが、」

 再び息が掛かるほど距離を縮め、カナルの強い視線が降ってくる。

「その誘うような輝きを放つスミレの瞳はおまえのもの。マナカイル王家の、悪しきを看破する琥珀のそれではない」

 獣のような強い光を放つ双眸が、ついと細められる。

「それに、おれの兄上がこんなに儚いわけがない」

 それはどうだろう、とクラウは考え込みながら話を整理して、疑問を口にした。

「でもなぜ僕を疑ったんですか。もし僕が兄君に成り代わるのなら、殿下に姿を似せて謁見します。だいいち僕は十五ですよ、殿下の兄君と言うには歳が足りない」

 本当に足りないのは歳というより身長なのだが、それは敢えて口にしない。

「なるほど、だてに白銀の翼に籍を置いていないか。頭は悪くないようだな、表情がバカみたいに素直なだけで」

「なっ――!」

「おまえと会った頃に大公家で見たという話を聞いた。――セシファー兄上」

 言葉を切って、カナルは表情を改めた。

「の幽霊を」

「ゆ、ゆー、れ、い……ぃ!」

 その言葉だけで十分に昏倒しそうだったが、どうにか持ち堪えた。

 だってそんなはずはないのだ。セシファー殿下の幽霊なんて、この世にいない。

「以前に幽霊話で兄上の存在を煽るだけ煽っておいて、そこへ本物が現れるなんてあほらしい筋書きを使ったバカどもがいたんだ。またその手口かと思っておまえを疑った。だいいち、女装だなんて怪しすぎる」

「で、でも、だからといって僕を本物だと疑いますか?不届き者だというならまだしも!」

「おれが理由なく疑うと思うか?幽霊の噂と一緒に、大公家に兄上が匿われているという話を聞いた。あの離宮の連中が言っていたんだから本当なんだろう。かといって兄上がいま正体を明かすとは思えない。身を潜めるならそれこそわからないような工夫を――」

「だ、だからって、そんな、女装なんてふざけた真似」

「そのふざけた真似をおまえもしているんだろうが」

 今度こそ、ぐぅの音も出ない。それどころか事実、カナルの兄上とやらは女装して大公家に潜んでいる。

「離宮の連中は、なんとしても片翼を得ようとしている。大帝の譜を発動させるためにな。おれか大公、あるいはセシファー兄上。大帝の譜を扱うには複数のマナに愛されし者が必要だということ、王家や大帝の譜について書庫で調べていたおまえなら知っているだろ」

「殿下、ご存じで――!?」

「さしもの大公も、書庫の深層まで掃除が行き届いていないようだな。本を動かした痕跡を見れば、おまえが何を調べていたのかなんて見当がつく」

 詰めの甘さが後悔となって胸に突き刺さる。痕跡は慎重に消した、はずだった。

 バレないというのはただの高慢――、浅はかさが動揺を生んでクラウの表情を歪ませる。

「そんな顔をするな。おまえがその情報をどうしようと構わない。だが忠告はする。おまえは引き返せないところまで来ている。白銀の翼に潜んでいる以上、それなりの覚悟はあるようだが、このまま進めば間違いなくおまえの命はない。覚悟が定まらないのなら、すぐに大公家から去るがいい。それがおまえのためだ」

 自分の持っている情報とカナルの話をつなげていくと、いくつかの真実が見えてくる。

 見えてしまったから――、クラウはどうしても引き下がるわけにはいかなかった。

「僕は自分の意志でここにいるんです。この先何があっても退きません」

「おまえ――…」

「それより、いいんですか。国家に関わる重要なことを、僕みたいな人間に話して。セシファー殿下の御遺骸が見つかっていないことだって、庶民には公表されていないのに」

 王宮に関わることを父から多く聞かされているクラウにとっても初耳だった。もしクラウが他国の間諜だったらどうするつもりだったのか。

「構うものか。おれがいいといったらいい、それだけだ。おれはおまえが気に入った。だからいろいろと話す気になったし、あの悪鬼渦巻く離宮へも案内した」

「え、気に入った?いったい、僕の何に」

(女装姿に、なんて言われたらどうしよう……)

 ぼんやりと浮かんだ不安は真摯な琥珀色の眼差しが、すぐに打ち消す。

「おれを前に堂々と嘯くその目が気に入った。おまえがこの世界にいる覚悟を決めたというならおれの傍にいろ。望むなら地位も名誉もくれてやる。おれの第一騎士に任じてもいい。それともなにか。このまま大公家に潜んでアイゼンの茜鷹のように犬死にするか?」

 いきなり父の名を出されて、急所を突かれた気になった。

(こういうときだな、あのどうしようもない父親の偉大さを知るのは)

 一介の騎士では皇太子の口から名が出るはずもない。

 カナルの言葉は騎士を目指す人間にとって、とてつもなく魅力的な誘いだ。

 皇太子から絶対の信頼を寄せられ、それも第一騎士になるという名誉までついてくる。

 けれど、クラウはそれを受けるわけにはいかなかった。

「申し訳ありません、殿下。折角のお誘い誠に恐縮ですが、謹んで辞退いたします」

 父の名を聞いたからだろうか、甦った思い出が口を動かした。

(考えておきます、と答えた方が無難だったか)

 そうは思っても、適当に誤魔化してはいけない気がしたのだ。簡単に納得しない相手であっても、この王子には真っ向から臨まねば、自分の真意を信じてもらえない。

「理由は?――おれに不満があるか」

「違います。僕にはもう心に決めた方がいる。ただそれだけです」

 考えてみれば皇太子相手に不敬な態度だ。斬り掛かられても仕方ない――そう身構えていると、薄闇にのびる影が離れていく。

「ふ、そうか。今はそれで構わない。だが、いつまでもそう囀っていられると思うなよ。おまえの今の主が誰であろうと、いずれおれが捨てさせてやる」

 心臓を射抜くのは琥珀色の輝き――、その支配者然とした様に堪らなく傅きそうになる衝動を抑えて、クラウは表情を引き絞った。

「ところでおまえ、名をクラウといったか」

「はい、今まで名乗らずに失礼いたしました」

 素性を暴かれることのないように名乗らずにいたのだが、エルメタリカの呼びかけをカナルはしっかり覚えていたらしい。

「ではクラウ」

「はい」

 名を呼ばれるとついつい畏まってしまうのはクラウの良癖だ。

「その姿、似合うからやめろとは言わないが、女に扮するという意味では失敗だな」

「そ、そんなにも僕の、その……女装は、不自然でしたか?」

 突き刺さる言葉にクラウの両頬は大きく引き攣る。

「そうだな……初見はともかく、わりとすぐに女装だと気づいたな。あんな態度で隠してるつもりだったのか?」

 逆に問われて、クラウは絶句した。

「おれは宮に戻る。おまえも大公家へ戻るがいい。――こんな時刻に地下道を彷徨っていては、いつ何時、兄上の幽霊に出くわすとも限らないからな。早々に立ち去る方が得策だぞ……どうした?震えるほど幽霊が怖いか」

「そんな、ゆーれい、なんているわけ、い、いない、そんなものは」

 嬉々としたカナルの声音に、からかわれているのだと知りながら、クラウは例によって例の如し、譫言のような反論を続けている。

 だが、はたと青冷めた顔を上げた。人の気配が、こちらへ近づいている。

「誰だ。まさか、本当にゆーれ」

「うわぁあぁあぁああぁぁ」

 目の覚めるような過剰な反応に、喉を鳴らして笑うカナルは、近づいてきた人物が誰かわかっていたらしい。慌てる様子もなく、無言で相手に言葉を譲った。

「こりゃまた派手な歓迎だなぁ、おい。なぁ、クラウ」

「少、佐……」

 狂気錯乱一歩手前で踏み留まったクラウは、ようやく彼の言葉で覚醒する。

「どうされたんです。何か、ありましたか」

「おうおう、察しが良くて助かるよ。悪い報せだ」

 緩慢な瞬きをするカナルの無表情の中にも、険呑とした色が浮かぶ。

「大公家で火事だ。たぶん譜術の炎だったんだろ、かなりの火の手で消火が追いつかねぇ。おれもすぐに戻って手伝うつもりだが、一人でも多く人手が欲しい。だからクラウはすぐに来い。それと殿下には、信頼のおける部下を何人か貸していただきたい。何があっても、口を割らないような凄腕の騎士を」

 鷹揚に頷くカナルは、やはり上に立つ者だ。危急時にあってこそその精彩さが際だつ。

 上着の内ポケットから取り出した紙片を指先で軽く弾くと、そこから瞳の赤い鳥が現れた。そして、走り書きした紙片を鳥の足に結びつけて、放つ。

 鳥は迷いなく地下道の闇を縫っていく。

 クラウたちが大公家に戻る頃には、この急使はカナル直下の騎士の元に着くだろう。そうすれば走り書いた指示に従って、部下が人手や物資を手配するはずだ。

「火の手は、どこから。シゼルは――、シゼルは無事ですか!?」

 すべきを終えたカナルの目に留まったのは、小さい身体で精一杯エルメタリカに詰め寄るクラウの姿だった。

 何をそんなに必死になっているのか、視線は射殺さんばかりに鋭い。

「初めに火の手が上がったのは使用人の宿舎だったらしい。本邸はまだ無事だ」

「宿舎っ!?それで、シゼルは!?」

「おまえら二人揃って見当たらないってティアが血相変えてたぜ。おまえなら相方の居場所を知ってるかとも思って戻ってきたんだが――その様子じゃ、知らないらしいな」

 エルメタリカが試すように見下ろすクラウの表情から、音を立てて血の気が引いていく。

「シゼル――?だれだ、それは」

 訝るカナルをよそに、今にも飛び出さんばかりのクラウをエルメタリカは両肩を押さえて、押し留める。

「いいから落ちつけって。大丈夫だ。シゼルは火事には巻き込まれてねえよ。避難しろっておまえらの部屋に行ったメイドの話じゃ、部屋には誰もいなかったらしい。どこにいるかはわからねえけど、火事に巻き込まれてないのは確かだ。それに」

「ですが、今すぐにでも――」

 なおも言い募ろうとするエルメタリカに苛立ちを覚えて口答えしようとするクラウを、エルメタリカは片手で制した。

「とにかく落ち着け、いいな。おまえが冷静でなくてどうする。あの邸であいつを一番よくわかってるのはおまえだ。あいつの行きそうなところ、しそうなこと、それを知ってる奴が探した方が効率がいい。けどな、おまえが冷静さを欠いてるっつうなら、大人しくしてろ。そんなんじゃ万が一なにかあっても、いくら俺でもおまえの面倒はみきれねえよ」

 鋭い美声で言い渡されて、押し黙るクラウの表情はみるみるうちに引き締まっていく。

 宿舎で言い争ったことが、もう何日も前のことに思えた。

 大丈夫。シゼルは、無事だ。――でも。

 大公邸を襲っている炎が譜術によるものだというなら、誰かが放火したということになる。それも、火が放たれたのは大公のおわす本邸ではなく宿舎だという。

 考えはいやな方へと向くばかりだ。――だから。

 シゼルを探し出せるのは、自分しかいない。シゼルを探し出すのは、自分だ。

 自身の存在の危うさなど忘れて、純粋な想いだけが磨かれていく。

「ご忠言感謝します、少佐。もう、大丈夫です。頭は冷えました」

「ん。なら、俺についてこい。とりあえずティアのところに行って、状況を整理するぞ。少しばかりとばすが、ついてこられるな」

「はい――!」

 菫色の瞳は、すっかり元の輝きを取り戻している。その姿に満足したエルメタリカは、すぐさま地下道の奥へと飛び込もうとした――が。

「おれに頼み事をした挙げ句に無視とは、いい度胸だな」

 その文句でようやく、二人はカナルの存在を思い出した。冷静さを取り戻したクラウは、それこそ身体が凍えていく。――けれど、ここは譲れない。

「申し訳ありません、殿下。危急時ですのでご容赦を。咎はあとでいくらでも受けます。ですから――」

「誰がおまえたちを責めるといった」

「え――?」

「おまえたちは、これから大公家へ向かうおれを護衛してくれるのだろ?そんな奴を責める理由などおれにはない」

 クラウとエルメタリカは、揃って返す言葉を失った。

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