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6,もう一人の甘党王子

  恵まれぬ王子の話をしよう。

  彼は生まれながらにして王子だった。

  なにもかも与えられて、幸せな人生が約束されていた。

  けれどある日、炎が何もかもを彼から奪っていった。

  たったひとつ、彼の命だけを残して――。

  何もかも失った彼は、誰よりも不幸になるはずだった。

  でもそこで、愛に飢えることのない世界を、彼は知った。

  幸せだった。誰よりも。王子であった時以上に。

  永遠にこの時が続けばいいと思った。

  けれど、身の内に宿す王族としての力が彼を逃さない。

  その力は誰もが欲する力、大いなる力を解き放つ鍵。

  この力がある限り、危険は常に彼とともにある。

  だから逃げた。逃げて、隠れて、逃げた。

  けれど、彼はついに見つかってしまった――。




 このつまらない話の続きをクラウは知らない。手元にある本は真っ白なままで、捲っても捲っても終わりの文字は出てこない。いつになったらこのページが埋まるのか、それはクラウにも分からない。でも最高の結末で締め括ると誓った。

(待つつもりだったが、そろそろ限界か。いつまでここに留まっていられるか……。わかってるのか、あいつは)

 クラウは基本的にじっとしているのが苦手だ。考えもそろそろ煮詰まってきていた。

 文句を腹の内に叩きつけて、目の前に貼られた譜陣の端を爪で擦った。

 途端に天井から降っていた温かい雨が止んで、秋の冷涼な空気が窓の隙間から流れ込んでくる。水の音が静まると、金属板を弾いて奏でる旋律が扉の隙間から漏れつたってきた。

 この曲、勘に障る――。

 プラチナブロンドの髪から滴る水をタオルに吸わせながら、クラウは洗面所の戸を開けた。クラウとシゼルの部屋には洗面所兼浴室が付いていて、戸を開け放つと同時にむわっと湯気が天井づたいに寝室へと渡っていく。使用人は共同風呂が原則だが当然のこと特別措置だ。

 部屋には二段ベットとチェストが二つに、共用の丸いテーブルが一つ。

 今はシゼルがそのテーブルの上に身を投げ出していた。手元には木彫のオルゴールがあって、先ほどから聞こえるもの淋しい旋律はそれが奏でている。

 シゼルの傍らには譜術用のインク瓶があるから、クラウが身体を洗っている内にオルゴールを譜術で直していたのだろうか――いや、そんなはずなはない。

 無防備に脳天をこちらに向けているので、普段の視線の高さでは気づかない白髪をクラウは見つけた。

「ねえクラウ。クラウってば。その包みってもしかして」

 気配に気づいて上体を起こしたかと思えばこの有り様だ。まとわりつくように問うシゼルに、危うく包みを投げつけるところだった。

「うるさいっ、これはおまえにやるものじゃないんだからなっ」

「ええーーっ、久々にクラウの作ったお菓子食べられると思ったのになぁ」

 残念、とぼやくシゼルの口の中にはすでに唾液が溜まっていた。

 クラウの料理は絶品だ。本気でパティシエを目指していたくらいに、菓子類は群を抜いて美味い。

 クラウは十五だから、一流店の見習いとなるにはもう遅い。パティシエの夢は諦めたのだろうと寂しく思っていたが、趣味の料理は止めていないのだと知ってなんとなくシゼルはホッとしている。

「ねえクラウ、なんで騎士なんて目指してるの?」

 ティーカップを片手に微睡むシゼルは、眉間に皺を寄せたクラウを見上げた。

(笑えば可愛いのに、もったいない)

 いつもそうだ、シゼルを見つめるクラウの眦は険しい。

「なら僕はその言葉、そっくりそのまま返してやる。なんで王様になると豪語していたおえが騎士なんだ。もし国を動かそうと思うのなら、王か大公にでもなればいい」

 シゼルは油断すると閉じそうになる目蓋を必死に持ち上げる。

「そんなの子どもの夢物語だよ。それに騎士ってカッコいいよね。クラウだって父さんみたいな騎士になるんだーって剣術習ってたじゃないか。だから俺も騎士になろうって」

「真似するな。第一、僕はカッコいいなんて理由で騎士を目指すような愚かな奴を友にもった覚えはないっ」

「じゃあ俺が王様になるって言ったら、クラウは俺の騎士になってくれるってゆーの?」

 クラウが珍しく目を瞠るので、シゼルはやっぱり、と呟く。

「気にしないで、冗談だよ」

「……ふんっ。僕のほかにおまえを護れる奴がいなかったら、考えてやらないこともない」

 そう言ってクラウは後ろを向いた。慌ててカーテンを閉めているあたり、照れ隠しだ。

「はは、それ、八年前も同じこと言ってたよね。変わんないなー、クラウは」

 後ろ手で投げつけてきた枕が脳天を直撃した。枕に本に、果ては花瓶、次から次へと確実に急所を狙って物が飛んでくる。

 そんなクラウの姿を見ていたら、嬉しすぎて苦笑が止まらない。

「俺が王様になれるわけないよ、騎士になれてもね」

「僕だってあんなのは夢物語だと思ってたよ。現実だなんて誰が思うか」

 ふと、嵐のような攻撃が止んだのでシゼルは構えを解いた。寝間着に着替えるのだろう、クラウがバスローブを床に落としたところだった。

 ――腹の下の方が、きゅうと縮むのをシゼルは感じた。

 首から肩にかけて現れる陶器の肌。剥きだしになった背には左の肩胛骨から右の腹上部にかけて、はっきりと変色した部分がある。

「残っちゃったね」

 振り返って見える腹部にも、無数にツギハギされた痕がある。

 胸部の傷は塞いでから一年と少し、傷口はまだ生々しさを留めたままだ。

「生きているのが不思議なくらいの傷だったんだ、痕が残って当然だろ。認めたくはないが、シゼルがいなかったら僕は今ここにいない」

 夜盗に襲われて致命傷を負い、シゼルの譜術に助けられたのは一年と少し前。シゼルには一度も話していないが、触れてもいないのに傷が疼くことがまだある。

「クラウのキレイな躯、台無しにしちゃったね。ごめん、俺のせいだ――。でもよかった、顔じゃなくて」

「顔だと!?――僕の顔をキレイにとっておいて何の得があるっていうんだ。だいいち、僕はおまえに謝られたいなんて言ったか!?傷なんかより、助けたクセに僕を殴って気絶させた挙げ句、逃走した行為の方が腹立たしいっ」

「あ……。あれ、覚えてた?何も言わないから、てっきり忘れてるのかと」

「僕をバカにしてるのかっ!?一年も音沙汰なしに行方眩ましてたと思えば、大公家でのうのうとメイドやってるなんてどういう了見なんだおまえはっ!!くそっ」

 シャツに袖を通しながら不満を続けるクラウから、シゼルは目を逸らした。

 故郷の村を離れたあの日、自宅で夜盗に襲われた真相をクラウにはまだ話していない。そもそもあの時が今生の別れだろうから殴って逃げたはずなのに、どういうわけか再会を果たしてしまった。――見えない力に動かされているようで、無性に不安になる。

 だからこそクラウには話したくないし、話す覚悟も出来ていない。

「了見、って言われても、それはおいおい話そうかな、って思ってたんだけど。クラウにはこれ以上、っていうか、いや、そうじゃなくて、」

 やっぱり言えない。一瞬芽生えた決意もすぐに朽ちた。

 でも、遅かれ早かれクラウは真実にたどり着く。でなければ書庫に潜り込むなんて意味のない行為だ。こんな時ばかりは友人の聡明さと行動力が憎らしく思える。

「――おいシゼル、これ」

 思い悩んでいると着替え終わったクラウに紙袋を押しつけられた。

「なにこれ?」

「なにって……別におまえのために作ったんじゃないからなっ。頼まれたついでだ」

 シゼルは破るようにして包みを開けた。

 中に入っていたのは、好物のアップルパイだった。シナモンが抜いてあるのはシゼルが苦手だと知ってのこと、口では文句を言いながらもクラウは気配りを忘れない。

 昔からそう、だから巻き込みたくなかったのに。

「ありがとうクラウ、ちょっと勇気出たかも」

 からかわれているのだと思って、口を尖らせようとしたクラウは寸前で止めた。

(ずっと待ってたんだ、この時を――)

 シゼルの真顔を見たのはいつ以来だろう、クラウは自分でも気づかぬうちに背筋を伸ばしたた。

「やっと話す気になったか」

 嘆息しながら前置いて、クラウは胸元に手をやった。

「聞こうじゃないか、セシファー・イル・レニシュトーレ殿下。僕たちが襲われたあの日の真相を」



 『助けたいんだ、どうしても。この人の命だけは、俺が守る』

  絞り出した叫びは掠れてほとんど言葉にならなかった。

  それでも思いの丈は届いたのだろう、直接頭の中に言葉が響く。

 『よろしいでしょう、今上陛下第一の御子。奥へ、いらっしゃい』

  声の主は目が眩むほどの純白の光。

  かの名はマナカイル、聖獣と尊ばれる幻の鳥である。



「マナカイル―――、マナの守護者、大帝の譜――遺跡の門番か」

 シゼルの口から伝説の獣の名が出ても、クラウは大して驚かなかった。

 地下書庫で調べていたのはこのあたりのことだ。書物で知りうることはすべて調べ上げたつもりだ。庶民には昔語りの獣として知られているマナカイルが実は今の世に存在して、遺跡の結界を作っていることも頭の中に入っている。

「やっぱ調べてたんだ」

「当たり前だ。おまえにいくら治癒の才があるといっても、背に深く一太刀、腹を数回刺された重傷患者を治せるはずがない。――…よほど特異な力がなければな。たとえば大帝の譜のような」

 大帝の譜――ここでは楔の譜というほうが正しいかもしれない、その存在は少し前までクラウにとっておとぎ話にすぎなかった。半死半生だった自分が生き延びられたという事実が大帝の譜の存在を裏付けるのだとしても、にわかに信じられる話ではなかったのだ。故郷の村にあった遺跡も、古代文字が描かれたただの巨石だと思っていたほどだ。

 だが、今となってはその頃が懐かしい。大公家に伝わる書物をひもとき、クラウは真実の片鱗を見た。そうして、シゼルと過ごした故郷の村にあった遺跡、あれがどんなものであるのかを知ってしまったのだ。だから、大帝の譜の存在を否定できない。

「文章から書き手の恣意を完全に排除することは出来ない。書物が真実のすべてを語るとは限らない。そんなことは承知の上で調べていたんだが――、おまえのその顔をみるに、あながち間違っていなかったようだな」

 目で更に問い詰めると、シゼルが肩を竦めるのでより一層真実味が増した。

 これだからクラウには参ってしまうと、シゼルは仕方なしに苦笑を浮かべる。

「ああでもマナカイルが門番っていうのはちょっと違うかな、だいたいそんな感じみたいだけど」

「――みたいってどういうことだ」

「あーそれは、俺も詳しいところはよくわからなくてさ。ええと、マナの代弁者っていっってたかな。ほら、俺ってば王宮を長く離れてたでしょ、そのせいで王家とマナカイルのこととか、始祖がマナカイルと交わした契約とか知らなくて。目下勉強中だから、まだうまく説明できないんだよ」

 記憶を必死に手繰り寄せるシゼルは、クラウがどんな顔で見つめているのか気づかない。

「本来は契約を結ばないで大帝の譜を使うのはできないらしいんだけど、俺がちょっと特別で、あの時はマナカイルが恩情をかけてくれたらしいよ。お陰でクラウは」

「――僕のせいか」

「え、何?」

 俯き気味に呟かれて、シゼルは言葉を止めた。

「シゼルがここにいるのは僕のせいかと聞いているんだ。大帝の譜を使った以上、事後であれ契約を遵守するのは必定――契約を結び、守るためにシゼルはシュゼーブルクにいる。そうなんだな?……僕の命を救うのに、大帝の譜を使ったばかりに」

 強い語気は最後に萎んだ。わずかにクラウは唇を噛んで、シゼルを見上げる。

(だからクラウには知って欲しくなかったのに)

 クラウが自身を責めるのは分かっていた。わかっていたことだけど、クラウの沈んだ様子を見るのは耐えられない。打ち消そうと迷わず出た言葉は、自然と低く静かだった。

「それは違う。たしかに俺は、クラウを助けるために大帝の譜を使った。けど、クラウも知っているとおり俺が両翼を背負った、片翼もなしに大帝の譜を使える人間だから、あの日襲われたんだ。クラウのせいじゃない、そもそもは俺のせいなんだ」

 シゼルは一気に吐き出した。息継ぎをすると決意が鈍りそうになる。

 それはダメだ。誰かに明かされるよりも先にクラウには真実を打ち明けたい。けれど。

 ――おまえのせいで

 記憶の中で、レイガンの言葉が胸に突き刺さる。

(本当に、そのとおりだ)

 弟君の先見の明は確かだった。心の内から嗤いが込み上げてくる。つい、底知れぬ微笑が表情を支配する。真顔だけでは、やっていられない。

「言ったでしょ、本当だったら王宮で学んでおくべきことだったって。俺はセシファー・イル・レニシュトーレ、今上陛下の第一子。いくら火事で混乱する離宮から二歳で拉致されたからって、自分が背負っているものを見て見ぬふりしていた俺に非がある。この譜陣がある限り、マナカイルとの契約からは逃れられない!」

 そう言って、シゼルは目から色ガラスを外した。

 澄んだ琥珀色の瞳に紅玉の譜陣が浮かぶ。――これこそが大帝の譜の鍵、マナカイル王家に脈々と受け継がれる鍵の譜だ。

 その瞳の特異さは言葉にならず、人のものとは思えぬ危うい美しさがある。けれど一度瞬きすると紅の輝きはすぐに失せ、琥珀に銀の虹彩を散らした人のものとなる。

 クラウはそこで初めて数日前に出逢った皇太子の瞳を思い出した。やはり二人は兄弟なのだ。秘める閃きは違えど、輝きは等しく気高い。

「だからクラウが気にすることなんてないんだよ、ね」

「……おい待て、シゼル」

「な、何?」

 クラウの勘に障ることばかり言っている自覚はあるので、どれが原因かわからずシゼルはビクついた。ちょっと前まで柔らかな表情だったクラウが、眉間に手を当てている。

「二歳で拉致、ってよく考えたらおまえどうして無事だったんだ。拉致される理由はわかる、だがどうやって二歳児が燃え盛る離宮から逃げ出せたんだ」

「え……、あれ?もしかしてリヴァルから聞いて、ない」

 急にクラウの目が据わったのが答えだ。てっきり自分の素性のこと、セシファーという王子のこと、全てを知っているのだと思っていたがそうではなかったらしい。

 これはこれで気の引ける話だが、言わないわけにもいかないだろう。

「俺を離宮から拉致したの乳母の一人だったんだけど、まあ乳母って情が移りやすいんだってねえ。その人、組織に連れてく途中で気が変わって、俺をセルニード村に匿ったんだ」

 自分で思っていた以上にシゼルの覚悟は固かったらしい。するりと言葉が紡げた。

 黙って聞いていたクラウはまさか、と呟く。

「そう、その乳母がクラウもよく知る俺の母さん。父さんは村に移り住んでから出会った家具職人だったけど、母さんってば実は謎の組織の間諜だったんだよ」

 啞然として言葉が出てこない。

 シゼルの母のことはクラウもよく覚えている――どころの話ではない。クラウがセルニード村に移り住んでから世話になった人の一人だ。それだけに愛着も深い。

 二人で悪戯を仕掛けては、師匠や祖父に怒鳴り倒されていた幼い日々。そんなときいつも庇ってくれたのは彼女だった。どんなことをしても一笑に付して、大らかな人柄でいつもシゼルと自分を包みこんでくれていた。

 シゼルとは血の繋がりがないとは聞いていたが、彼女の愛情は本物で、母と離れて暮らすクラウには羨ましく感じることもあったほどだ。

 そんな彼女も、一年前の事件で他界している。

 追っ手から逃れるためシュゼーブルクに身を潜めていたシゼルは葬儀に参列していない。当然のこと匿われている今の状態では、墓前に参ることも出来ないだろう。

「すごい母親だな、おまえの育ての親は」

「まあね。俺が死んだと見せかけて救い出したんだ、下手な殺し屋よりも肝の据わった女性だよ。なにせ巨大な組織が相手だからね、いつ何時何処で誰に見つかるかなんてわからないのに。……でも、結局見つかっちゃったけどね」

「それが僕たちが襲われた真相か」

 一瞬泣き笑いのような顔をして、シゼルは肯いた。

「ねえクラウ」

 嫌な予感がして――でも、つられてシゼルの表情を覗いてしまう。

「俺は自分の好きでここにいるんだよ。もう、俺の無知や我が儘のせいで誰かが理不尽に傷つくのはご免だからね。だから、クラウが俺に付き合う理由なんてない」

 突き放すように言われると、いつもよりも深く眉間に皺が寄った。

 湧き起こるのは憤りだ。なんてバカなことを言うんだ、と怒鳴る衝動は抑えられない。

「自惚れるなっ!誰がおまえのためにここにいるなんて言った。僕は自分の意志でここにいるんだ、おまえのためじゃないっ!!」

 クラウは一歩も下がらずに、シゼルの琥珀の玉を真っ向から見つめた。

 どんな想いでクラウがここにいるのか、シゼルは少しもわかっていない。

 どうにか伝えようとして見つめていると、シゼルの瞳が仄暗く揺れた。

「ねえクラウ。調べてたなら、俺があの時クラウに何の譜を使ったか知ってるよね」

 突然の問い掛けに、クラウは言葉を忘れた。

 シゼルが大帝の譜を発動させたあの時、虚ろながらクラウには意識があった。

 それゆえシゼルがマナカイルと交わした会話も、シゼルがかの獣に言われて自分に何をしたのかも、クラウは断片的に知っている。

 だから、シゼルが言わんとしていることをすぐに察した。――察して、心が揺れた。

 出来ることなら言いたくない。でも何か言わねば、またシゼルは真実を閉ざすかもしれない。それはクラウの本意ではない、とはいえ。

「それ、は……知らない」

 絞り出した答えは我ながら空々しく聞こえた。長年付き合ってきたシゼルのことだ、バレないとは思っていない。だが、

「ほらクラウ、嘘つかないの。目が嘘だって言ってるから」

 指摘されると、改めて後悔が込み上げてくる。

「クラウは嘘つくとき、瞳から感情が失せるんだよ。前に言ったことあると思うけど、初対面の人だってすぐに気づくと思うよ」

 そういえばこの瞳のせいで、師匠に悪巧みがばれてどやされたこともあったか――、と甦る記憶に心が塞ぐ。

(つくづく、僕は嘘をつくのが下手だな)

 表情だけはどうにかと、平静さを装ったつもりだったのに。

 肩を落とそうにも、問い詰めるシゼルの視線が痛い。

「あれは――、死者を、甦らせる譜陣、だ」

 ようやく観念して吐き出した答えには、自らの耳を塞ぎたくなった。

 書物もあの時のマナカイルも、寸分違わずそう語ったのだ。

 あれは、死んだ者を生き返らせる譜陣だと。



 ――この者を…救いたいのですか………

 人よりも大きな白い鳥は、背丈の倍ほど長い白銀の尾をなびかせて、感情の見えない銀色の瞳孔でこちらを見下ろしていた。

 眩しい。

 目はすでに、そこにある輪郭を捉えるだけになっていた。何も、見えない。

 ――いいでしょう…ただし、代償を………………

 あまりの痛みに、意識が飛んだ。

 仕方ない、あれだけの傷を受けたのだ。痛みを感じられるだけマシに思えた。

 ――それに、うまく……これは…甦らせる譜………

 残された力で呻くたびに、ごぼりと口から苦く苦しい液体が溢れ出た。

 ――この者は…息が……殺さねば…使うことは……今すぐ…………

 しばしの無音が続いた。

 意識を失ったのだと思った。

 思ってその直後に、鋭い痛みが全身を貫いた。

 そうして一呼吸もおかずに、ひどく真っ白な世界にクラウは突き落とされた。



「僕は……、一度、死んだん、だな」

 確かめるように、ゆっくりとクラウは言葉を発した。

 死んだことを認めたくないのか、それとも生き返ったことを認めたくないのか、口に出した途端に身体がぐらりと傾いだ。これは決して、クラウの意志ではない。

「そうだよ。――俺が、クラウを殺した」

 倒れ込む寸前で軽々とクラウを支え、シゼルは微笑を溢す。

 ぞっとするほど冷たい響きが混じった声音に、クラウは肩を震わせた。

「そんな、顔をするな。おまえは僕を助けた、その事実は何があっても変わらないんだ」

 いつもなら真摯に見返してくるクラウの顔が、ふいと背けられる。

「それはただ俺が自分の不始末を片付けただけじゃないか。――だからクラウ、もし子どもの時の約束だから俺の騎士になるなんて、そんなのダメだよ。あっさり友達を刺せる人間に、クラウが仕える価値なんてないんだから」

「関係ないっ、僕はっ……!!」

 背けられた視線がかち合ったとき、クラウの表情が時を止めた。

 不思議そうに目を眇めて、それでもシゼルは言葉を続けた。

「だめだよ。ぜったいに、ダメ」

 これ以上の言は許さない。

 もし許したら――、絶対、クラウに押し切られる。そうシゼルには確信があった。

 とはいえ、クラウが大人しく黙っていてくれる保証なんてどこにもない。

 さて次はどう説得しようかなどと思案していると、静かに喉が下がる音が聞こえた。

「わかった」

「――え?」

 何を言われたのかわからず、いや、聞き間違えかと思ってシゼルは聞き返す。

「わかった、と言っているんだ。ちゃんと僕の言葉を聞いてるのか、おまえは!」

「う、うん」

 こんなにもあっさり諾と返されては、拍子抜けにもほどがある。

 まさか何か企んでいるのではないかと瞳を覗き込んだが、菫の瞳には決然とした光が浮かんでいる。どうやら嘘はついていない。けれど――。

「だが、騎士になることを止めるつもりはない」

 支えられた手を突き放して、クラウはメイド姿のまま力強く両脚を踏ん張っている。

 大公家のメイドとしてその雄々しさは些か問題だろう、とシゼルは笑った。

「なんだよ、騎士になるって。クラウはパティシエになるのが夢だったんじゃないの?まさかカナルの騎士にでもなるつもりじゃないよね」

「騎士がメイドやってる世の中だぞ、騎士がパティシエになってなんの問題がある」

 口にしながら込み上げてくるものにシゼルが閉口していると、クラウは鼻で嗤った。

 その様があまりに自信に満ちて、呆気にとられたシゼルは目を丸くする。

「その理屈ってないと思うんだけど……」

「そんなことはない。騎士兼パティシエ、いいじゃないか。おまえだって好きにやってるんだ。僕だって僕の好きにするからなっ」

 憤然と宣言するクラウは、吃驚するくらい大真面目だ。

 クラウの性格からして冗談を言っているわけではないと分かっているが――いや、分かっているからこそシゼルはあのことを言わねばならないのだと悟った。

 シゼルの騎士になる云々以前に、どうしてもクラウを騎士にすることはできない。そもそも、大公家にいてもらっては困るのだ。

 手の届く範囲にいるクラウを、頼らないでいる自信が今のシゼルにはない。

 もう二度と、クラウを巻き込みたくない。だから――。

「クラウは騎士になれないよ」

 唐突に投げられた一手に、クラウは目を剥いた。

「――なんだと、おまえ、僕をバカにして……!」

「バカになんてしてない。ただの事実だよ。クラウのことだからわかってるよね、自分で。そんな身体で、真っ当に騎士を務められると思ってるの?」

「――……ッ」

「大帝の譜の発動は不完全だった。なんとかクラウの命を取り戻すことはできたけど、もしクラウが無茶をすればいつその命が消えてなくなるかわからない。そんな状態で忠誠を誓う主を守り続けられると思ってるの?――無理だよね」

 いっそ凄惨に言うシゼルに、クラウは何も言い返せない。

 クラウが大公家に来たあの日、シゼルがクラウに譜陣を描かせたあの時、鍵の譜を宿したシゼルの瞳には、クラウの身体から剥離していくマナの光がはっきり映った。符に吸い込まれていくのではなく空中に霧散していくマナは、明らかにクラウの異常を訴えていた。

 マナカイルに言われていた通りだった。

 片翼もない、契約を成さぬ自分が大帝の譜を発動させても、おそらく術の発動は不完全なものとなる。仮に命を取り戻せたとしても、その命つなぎとめるマナの構成はひどく不安定で、衝撃や負担を重ねれば壊れてしまうだろう、と。

 そのことを確かめるためにシゼルはあの時クラウに譜陣を描かせたのだ。譜陣を描くことで体内のマナを消費させ、その負担がクラウの身体にどう影響するか見定めるために。

 結果は、予想どおりだった。

 クラウの体内にあるマナが符へ移ろうとする度に、別の部分が脆く崩れ、剥離していく。

 符を描かせたからその異様さがいやにはっきりと映ったが、あの不安定な状態では激しい運動やわずかな疲労でも度重なれば、マナの構成を壊しかねないとシゼルは考えている。

 普通に、大人しく生活するしかクラウの命を長らえさせることはできない。そんなクラウに、体力も精神力もすり減らす騎士になんてならせるわけにはいかなかった。

「いつ消えるともしれない臣下に命を預けろと、クラウは主に言うの?」

 クラウのことだ、自らの命よりも主君を第一に考えているに違いない。より効果的に言葉を選んで、シゼルはクラウの言葉を奪っていく。

 このまま、騎士への意欲を潰してしまうしかない――。

 そう決意したところへ、声を取り戻したらしいクラウの糾弾めいた言葉が響く。

「シゼル、おまえはなぜここにいる。王になるため、違うか!?」

 シゼルは肯定も否定もしない。

「王となったおまえは、騎士を欲しないのか!おまえこそ、譜術が使えなくなっているくせに、騎士もなくどうするつもりだっ!!」

 後半は図星だったので、シゼルは少しだけ目を瞠る。まさかそこまで気づいているとは思わなかった。それとも、ただの直感だろうか。

 クラウの指摘どおり、今のシゼルは譜術が使えない。描くことだけでなく、発動させることもできない。譜術士たる彼が唯人以下に成り下がっているのは、一年前、大帝の譜を発動させたことに原因がある。

 譜術は発動時に起爆剤として人間の体内にあるマナを一部消費する。その消費量は譜術の難易度によって異なり、大帝の譜ともなればその消費量は尋常ではない。

 あの時は無理に発動させたこともあり、一年以上経った今でも体内のマナは完全に回復されずに、シゼルは思うように譜術を扱えずにいるのだ。

「使えないのは今だけだよ、もう少しすれば完全に回復する」

「なら、回復したらすぐにおまえは玉座を狙うのか。そのための手筈は整っているのだろ。それなのにおまえが何もせず大公家に留まっているのは――」

「クラウには関係ないよ」

「関係ないだと――!?僕だって貴族の端くれだ、関係ないわけ――っ」

「関係ない。それに俺は、俺だけの騎士は要らない。だからクラウ」

 呼び掛けると、怯えたように後退るクラウの表情が凝る。

「騎士になったクラウは、俺に必要ない」

明確な拒絶の意志に、息を呑む。

 シゼルは嘘をつくのが上手い。――これは本音じゃない。

 狼狽えているクラウには、言うべき言葉が見つからない。何を言っても打ち砕かれる気がして、紡ごうとする度に喉の奥から出るのは空気だけだ。

 しばらくそうしていて、ふと気づいたことがある。

 頭ごなしに、シゼルに拒絶されたのは初めてのことだった。

 クラウは自分が狼狽えていることにさえ、気づいていない。

「………シ、ゼル、」

「ほらクラウ、行かなくていいの?そのアップルパイ、誰かに頼まれたんでしょ」

 押しつけられた紙袋をきつく握りしめて、クラウは色をなくす。

 話すことはもうない、という合図。

 叫びだしたい衝動を抑えて、唇を強く噛み、シゼルを睨み上げてくる。

 悩む素振りも、青冷める肌も、憂いを帯びていて愛らしい。

「―――くそっ」

 大きな音を立てて閉められた扉は、クラウがいた余韻を残して軋む。

 けれどその先の廊下からは、人の気配が完全に掻き消えている。

 シゼルさえいなければ、あの事件に巻き込まれさえしなければ、クラウはリヴァルに勝る騎士になっただろう。

 そう思ってしまうから、シゼルはクラウを突き放した。

 自分と在れば、間違いなくクラウの命はない。

 それだけは、嫌だった。



「本当に嫌だなんだよ、クラウ。――君はちっともわかってくれないけど」

 窓の外は、変わらず夜闇で塗りつぶされている。

 それがいっそう濃くなったようで、首筋を冷たさが這った。

 冬はもう目前だ。だから、陽が落ちれば、背が凝るまで気温が下がるのは必定。けれど、この寒さは異常に思えた。

 やはり、虫の知らせなのか。

 気安めに鳴らしたオルゴールの調べはもの哀しく、冷たさを助長する。けれどその内にある確かな熱に、心救われる。

 この曲の名は「レニガヌクーフェ」。

 異国の女神の名を俗称に冠するこの夜想曲は、その副題を「黄昏を知らぬ暁の激情」という。その幽艶な曲調とは裏腹に、中天を染める太陽よりも情熱的な想いを秘めている。

 湧き起こった焦燥に突き動かされて、シゼルは外套を羽織る。

 ランプの炎を消すと、一気に闇に突き落とされて寒さが際立つ。

 行かなければ。

 誰もいなくなった部屋には澄んだ旋律が響き――そして、止まった。

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