2,真っ白き獣
「ウールだったら、このファーブル社の洗剤がいいんです。柔軟剤が配合されていて洗った後も着心地よく仕上がります。それに縮みを防ぐ効果も高くて」
群がる同僚たちを前に、クラウは洗剤の箱とふわふわ毛糸のセーターを掲げた。
まとう衣装はしっかり馴染んで、どこからどう見ても可愛いメイドさんが、洗剤の解説を懸命に続けている。
(なぜ僕はこんなところでこんなことをしてるんだ!!)
今日はただの洗濯当番だったはずだ。
あまりに洗濯知識のない相方シゼルに業を煮やしてお説教していたのが始まりだった。聞きつけた先輩たちに教えを請われて現在に至っている。
手の空いた者が出たり入ったりし、本邸の裏手にある木造の簡素な洗濯小屋に、少なくとも十人ばかりがひしめき合っている。
クラウは林檎箱の上から同僚たちを見回した。--正確には、立たないと誰の顔も見えない。
(なんなんだ、この人たちは。――どうして僕よりでかい)
邸で働く大部分は女性だというのに、どういうわけか大柄な人が多かった。彼女たちが言うにはクラウが邸中で一番小さく、首位を独走していたリリアの記録を四センチも更新したらしい。
彼女たちの平均身長は百七十二センチというから、道理でシゼルの長身が気にならないわけである。ちなみに、使用人の筆頭であるメイド長は目測百九十に迫る大女だ。
「クラーちゃん、大変よ~!!」
青筋が浮かびそうになったところへ飛び込んできたのはリリアだ。息せき切らしながら、訊いてもいないのに彼女は訴える。
「あたしのリボンに泥が撥ねちゃったのぉ~。ねえ、どれならキレイにできるの?」
握りしめる正絹の白いリボンが、項垂れたようにかすかに揺れた。
いたって真面目に洗剤置き場を探って、クラウは振り返った。
「そういう繊細なものならライナ社が……でも、ここには置いてないですね」
ふと、林檎箱分足すことの四センチ下から見上げるリリアの真剣な瞳が目に留まる。
「まったく、なんで僕が買い出しに」
身動きできないほどの人混みに、クラウの眉間に深い皺が刻まれる。
王都シュゼーブルクの市場街は大公家より西の比較的細い通りを中心に形成されている。王都だけあって平日の昼間だというのに、人の波に容易く呑みこまれそうになるほどの混雑ぶりだ。
『ついでにリドルのパン屋でプレッツェルも買ってきてちょうだいね~~』
お願いという名の命令は、リリアの号令を皮切りにいつのまにか二抱えの買い物袋となって街を歩くクラウの足枷となった。おかげで白鷺の都と謳われる石造りの街並みを楽しむ余裕などなく、ますますクラウの眉間に皺が寄る。
「まあまあ、お姉さんたちの思いやりだよ。きっとクラウに王都を見せたかったんじゃないのかな。クラウは王都、初めてだよね?」
一蓮托生で同行するシゼルに問われて、気づくことがあった。
シゼルに話したことはないが、クラウの生まれはこのシュゼーブルクだ。ひょっとすると、この賑わいある通りもかつて両親に連れられ歩いたことがあったかもしれない。
そう思うと、このうるさい通りもどこか感慨深く思えてくるのだから不思議だ。記憶力に自信のあるクラウでも三歳より前のことは残念ながら虚ろだというのに。
「街で羽を伸ばしてこいと、もう少し素直に言えないのかあの人たちは」
「仕方ないでしょ、仕事中なんだから。堂々と遊んでこいなんて言えないよ」
シゼルはひょいっと肩を竦めてみせる。
「あとは、っと…そうだね、ドットラントで用は足りるかな。あの店なら色々揃ってるし、なにせ売り文句が、えーと……」
「量産型譜術符からオーダーメイドの入れ歯まで、かゆいところに手が届く、だ」
ドットラントはマナカイル全土で商いをしている商家の名だ。
小売業から商品開発、交易に慈善事業、多岐な分野を手掛ける手広さで、その名を知らぬ者はいないだろう。本店は地方中枢都市エルベスにあり、王都には低所得層からセレブ御用達まで幅広い顧客に合わせた小売店がある。
「さっすが、ドットラントの御曹司。よく覚えて」
「元だ、元。もう僕はアイゼンホーク家の者だからな」
クラウの母はドットラント家の一人娘で、父とは今から向かう王都支店で出会ったという。父と別れてからは会社の助役を務め、女だてらに各地で商談戦争を繰り広げている。
クラウもつい数日前まではドットラントを名乗っていて、先ほど見せた販売員魂は家業の手伝いが原因である。洗剤だけでなく、粉ミルクの販売口上だってできる。
「いいの?――…俺にそんなこと言って」
「家の名なら構うものか。どうせおまえは知ってるんだろう。……まさか、僕が気づいてないとでも思っていたのかっ!?」
「あー、うん。かわいくないね、クラウは」
「ひはたたたーッ!! はひふるんだっ、シゼル!!」
頬を思いっきり引っ張られて、クラウは悲鳴を上げた。クラウのぷにぷにほっぺは思いの外柔らかくよく伸び、シゼルの好奇心はもっと引っ張れと勧めてくる。
「わっ、と」
ここが限界かも、と思った瞬間に二人の間に割って入る手があった。――自分の赤毛よりも暗い赤、瞳は赤味の帯びた紫で、睨んでいるように見える。
「……なんで、おまえが」
獣めいた威圧感にシゼルはハッとした。
「あれ、もしかしなくてもクラウの弟のレイガン?」
「レニ!なんで王都にいるんだ。母さんに黙って出てきたんじゃないだろうな」
クラウは弟ことをレニと呼ぶ。シゼルなんてそっちのけで弟を心配そうに見上げる様はやはりお兄ちゃんなんだと、一人っ子のシゼルはしみじみ思った。
たしか歳は二つ下で、でも身長は十センチ以上違う。正しくはクラウの方が十三センチ小さい。
「王立、大学校、に合格、した」
「大学校!?ってレイガンは、えーと今、十三だよね?」
「飛び級だ。大学校ならここは寮舎から近いし、休日に店の視察でもと思って街まで出てきたんだな」
レイガンが頷くのを見て、クラウは普段シゼルには見せない穏やかな笑みを浮かべた。
「遅くなったけどレニ、合格おめでとう。――…それに、丁度いいところに来てくれた。このメモにあるものを買ってきてほしいんだ。おまえならあの行列も顔パスで入れるだろ?」
店がある方は今いる場所より高密度の人塊がある。クラウなら間違いなく窒息する、そうレイガンは悟ったのか素速くメモを受け取って人の波に消えていく。
「なんかレイガン怒ってたような気がするんだけど」
「いつにも増して上機嫌だっただろ」
「あれのどこが?」
無表情な彼を思い返して頭を捻らせる。睨んでいるようにしか見えなかったが。
「あ、わかった」
聞き返すのも面倒になってクラウはあからさまに嫌そうな視線を上げた。そして、シゼルが言うであろう言葉を察して先手を打つことにした。
「シゼル、今まで御曹司として取り仕切っていた人間が、こんなフリフリな恰好で店に乗り込んでみろ、従業員に示しがつかないだろ」
「いや、俺が言おうとしたのはそうじゃなくて。――まあいいや。そんなことないと思うよ、高潔な御曹司が純朴な乙女になっているなんて誰が思う?誰もクラウだって気づかないよ」
たしかに誰も思わない。というかそもそも考えつかないだろう。だが、気づかれないのはそれはそれでなんだか嫌だとクラウは思ってしまう。
「んなわけあるかっ、このバカッ」
完全に八つ当たりだ。――と。
鈍く瞬殺アッパーが放たれる寸前、拳を握りしめたところでクラウの腕は止まった。
遠くから耳を叩くのはトランペットのけたたましい音色だ。
「今日は何かあるのか?」
聞こえてくる方角にあるのは王宮だ。音色を耳にした人々は買い物もそこそこ、足並みはそぞろに同じ方向へ歩き出している。
「あれは王宮騎士の任命式典のファンファーレだよ」
マナカイルでは年に二度、騎士の任命式典が行われる。一つは王宮騎士、つまりは士官学校を卒業した貴族の子弟を、王の近衛として騎士に任ずるもの。もう一つは国守を任とする軍人たちの功績に応じて「騎士」の称号を与えるもの。
どちらも民衆が式典の参列を許されている一大イベントだ。今日執り行われるのは前者の式典らしい。
「折角だから俺たちも行こうか」
シゼルはクラウの腕を取り、ニカッと声を弾ませる。
「誰も行きたいなんて言ってない。第一、僕たちは買い物途中で…」
「あ、ほらレイガンも戻ってきたし。おーいレイガン、こっちこっち、君も広場に行くよね。君のお兄さんが行きたいらしいんだ」
「誰がそんなこと言ったーー!!」
今度こそ鋭い瞬殺アッパーが決まった。シゼルの涙目にコクリと頷くレイガンが映る。それでも、どこか睨まれているような気がするのはシゼルの思い過ごしだろうか。
天にかざした白光の剣が陽を受けて金に閃く。
横に控える楽団の調べに後押しされ、揃いの群青の制服をまとった青年たちが一斉に唱え始める。
「我は剣、想いを貫く嘴。我は盾、心を覆う翼。マナカイルは永遠に大地に降り立つ。我が命を賭して誓う、大空の主よ」
彼らは体勢を落として斜め上を見た。手にする剣は持ち替えて、切っ先を自らの喉元へ、柄を玉座に差し出している。
祭壇の中央に座す国王は椅子から立ち上がり、両腕を羽根のように広げた。
「歓んで迎えよう、我が白き獣たちよ。大地も大空もそならたと共にある」
広場を染める歓声が、今度はファンファーレとなって街に響き渡った――。
「うっわーすごい人だかり。平日なのに混むはずだよ」
広場を見渡し、シゼルは目を輝かせた。
「いいのか、ここ立ち入り禁止なんだろ」
「堅いこと言わない、言わない。この期に及んで下で見るなんて無理なんだから」
クラウたちは広場脇の時計塔のてっぺんにいた。見下ろすセシファー王立広場は乳白色のコロネードに囲まれた楕円の敷地に、人でさざ波が立っている。
王族はじめ国内屈指の有力者が集うこの式典で、天を護るのは軍の役目だ。
時計塔も封鎖され、この時ばかりは時を打つのを止めるが、どうにか警備の目をかいくぐって忍び込むことができた。まあ、時計塔の主である鳩たちが隣に並ぶことを認めてくれているようなのでよしとしよう。
シゼルはクラウにバレないように笑った。
(いつもだったら力ずくでも止めただろうに)
クラウは文句を言うだけで本気で止めようとはしなかった。今や意識は一心に広場の中央へと注がれて、背から爛々としている顔が容易に想像できた。
「あれが王族か……」
視線の先、祭壇には五つの人影がある。
それらが王国を千年近く支配してきた一族の頂点だ。その一段下からは爵位の順に貴族が並び、末端には特別に招かれた豪商たちが座す。
「中央がマナカイル国王オース・ゼム・レニシュトーレ陛下、その右隣がマーシス妃殿下、次がエルード殿下でその隣がカナル皇太子殿下。陛下の左隣は我らがレナ大公だね」
白い礼服をまとう今上陛下は青灰色の短髪と騎士に劣らぬ優れた体躯の持ち主で、歴代稀なる英知の王と近隣諸国からも賞される名君だ。
並ぶ妃殿下は長子を連れて西方の国から嫁いできた元妾妃で、前妃が亡くなってすぐに正妃となった。西方の民特有の褐色の肌に深く碧い黒髪は蠱惑的で、時計塔まで色香が匂ってくるかと思わせるほどの魅力でその座を勝ち取ったのだと言われている。
彼女の子どもたちにもその流れが見て取れて、唯一国王夫妻の子であるカナル殿下は薄めの褐色の肌に父王から受け継いだ青灰色の髪をたゆたわせて、玉座にも似た立派な椅子に腰掛けている。歳はクラウと同じなのにその堂々たる様は、王家の誇りと彼の器の大きさを否応なしに感じさせる。
一方、その兄エルードは二十歳を超えているというのに、病弱な体質のためか実年齢よりも幼く見える。けれど正妃譲りの美貌はその儚さの中に健在で、妙にエキゾチックで女性的な雰囲気を醸し出している。
「似てない兄弟だな」
王子二人を眺めていたクラウは唐突に呟いた。
「そう?俺は似てると思うよ、どっちも美形だし。女のコがほっとかないよね」
「親が違うってこうも違うものなんだな、これで母親が違ったら…」
クラウが後ろへ向き直ると、シゼルは肩で笑った。
「誰もクラウたち兄弟に言われたくないよ。ほらそれより、あの辺りに固まっているのが皇太子派、であっちにいる白髭老人が親大公派で……」
シゼルの指の先にある親大公派と呼ばれる何人かは父の葬儀で見かけている。
(なんでそんなに詳しいのか、僕には関係ないと思いたいが、大公家にいると貴族の裏の裏までわかるっていうのは本当らしいな)
自然と、視線がレナ大公を探した。騎士たちは誓いの言葉を終えて、陛下から直々に襟の徽章を受け取っている。レナ大公はといえば、そんな騎士たちの姿を穏やかに見守っている。
「ねえ、クラウ。俺たちも昔やったよね、騎士の誓い。セルニード村の祭壇で師匠に隠れてさ。ただの真似事だったかもしれないけど楽しかったよね」
シゼルはちょっと昔のことを思い出して呟いた。
指折り数えられるほど何年か前のことなのに、妙に懐かしくていつのまにか目を細めていた。最近の慌ただしさが懐古の情を強めているということは心の内に伏せておく。
それからニヤリと口の端をつりあげた。
「今思い返せば、あの時の誓いの言葉って間違ってたよね」
「っ!!」
それはクラウにも自覚はあった。一気に赤面して息を吸い込み、拳に力を込める。
「ばっかも~~んっ!!おまいら何しとるっ」
肩すかしを食らったクラウはきょとんと瞬いた。――管理人室の扉が急に開いて、骨も筋も剥きだしな脳天三日月に光る老人が恐ろしい形相で怒鳴りつけてきたのだ。
「げ……」
どうやら管理人だけは入塔を許されていたらしい。老人はモップ片手に近づいてくる。
「逃げろっ」
咄嗟に口から出た言葉はクラウには予想外だったが、ここは素直に従って階段を怒濤に駆け下りた。呆けているレイガンの手を取って、滑るように通りへ続く戸を突き破る。
やっと息がつける、と思った。けれど、
「何だ、貴様ら。ここは立ち入り禁止だっ」
焦るあまり外を確認するのを忘れた。ギクリと身を縮めて声の主を仰ぎ見る。
深い緑の制服に襟元の白の徽章は騎士の称号を持つ軍人だ。広場で任命されていた王宮騎士より格が下でも相手は軍人、簡単に逃げ出せそうにない威圧感がある。
どうしたらいいんだ、そうクラウが思ったときだった。
「やだー、ごめんなさい。私たち間違って入り込んでしまってたみたい」
吃驚して後ろを振り返った――そこには妙なシナを作り、困惑気味な笑顔で艶っぽく応じるシゼルの姿がある。こいつの女装が許されるのはその中性的な声音だけだと決めつけていたクラウは、騎士と比べて十二分に乙女に見える友人に啞然とした。
「ほら、あなたも謝って」
シゼルに不満を言おうとした矢先、耳元で囁かれる。
クラウは自棄になって、苛立ちに湧く血潮を抑えてシゼルの助言に従うことにした。
「……ごめんなさい?」
そっと見上げる先にある騎士は、一瞬だけ目を点にしてすぐさま視線を逸らした。
「そ、そ…」
この様子だと何かしくじったのかもしれない。「そ?」と瞳に不安な色を浮かべて、クラウは小首を傾げた。
「そのっ制服はぁっ、たっ大公殿下のところのっ。よろっしい、通りなさい」
その言葉にクラウは二の句を告げられなかった。作り物めいた陶器の顔は冷淡に、さっさとその場を立ち去る。――去り際に見た彼の顔を、クラウは一生忘れないだろう。
「ねえ、クラウ。いいかげん機嫌なおしてよ」
「うるさいっ」
さすがのシゼルも、憤然と歩を進めるクラウに手を振り払われて肩を落とした。
頼まれた荷物を配り終えて、邸裏手にある宿舎へ向かおうと二人きりになった途端この有様なのだ。宥める言葉が徒となっていることにシゼルは全く気づいていない。
向かう使用人の宿舎は本邸と違って木造で、歳月を経た木の温もりがある。そこでクラウと同じ部屋を宛がわれているシゼルは、怒りが納まるまで四六時中この調子のクラウと顔を付き合わせるのかと思って密かに苦笑いした。
邸に着く頃には夕闇が迫ってきていた。この時間ならばと、昼間に使用人が立ち入りを禁じられている裏庭を横切る。裏には主が好んで植えたという竹林があって、今は秋を告げる風によって涼しくさざめいている。
「なーにーが、上目遣いに涙を溜めて、しおらしく謝れだっ!!」
先ほどの騎士の様子を思い浮かべて、クラウは改めて怒りに奮い立った。シゼルの言うとおりに首を傾げたら、騎士は鼻の下を伸ばして目尻は地に着くほど垂れ下がった。
「大成功だったよね。男の純情を利用するなんてさ、クラウってば恐ろしい子っ。レイガンだって『……シルは、かわい、すぎる、から』って言ってたし」
「あーーもっ、何の褒め言葉だ、なんの。ったくあの騎士、堕落してやがる。それにシゼル、レニの口真似ぜんっぜん似てないからなっ」
怒りの矛先を何処へ向けていいのやら、シゼルを睨んだ。――と、彼は妙に薄く笑う。
「ねえクラウ、ずっと気になってたんだけど、レイガンって本当にクラウの弟?」
よく問われる質問に、今度は落胆した。そして、何度目とも知れぬ溜息をつく。
「僕は母に、レニは父に似たんだ」
「アイゼンの茜鷹ねえ、短い付き合いだった俺から見ても面白い人だったよ」
クラウの父はその容貌から〈茜色の鷹〉と呼ばれていた。沈む陽にも負けぬ鮮やかな赤毛、鷹のように鋭く理知的な眼差し、国王の許しを得て大公殿下からその号を拝した。
王国では師団に獣に準じた号を与えることがあるが、個人に与えるのは稀だという。アイゼンの茜鷹の名は、リヴァルが名実共に誉れある騎士だという証だ。
「でも弟くんより、父親の方が不思議かなー」
容姿をおいて、とかく性格が違う。初めて会ったとき。クラウの父親だとは思わなかった。それは今とて同じ。神経質で繊細なクラウと比べると、リヴァルは無骨で屈強で野性味溢れすぎる男だった。美形なのに騎士よりも破落戸に近く、一見すると近寄りがたい。けれど話しかけると存外に気さくで、常に人が周りを取り巻いていた。
考えに耽っていると、突然のクラウの笑い声に現実に引き戻される。――その自嘲気味な様は、誰もが焦がれる美少女面を儚くも蝕んでいる。
「リヴァラート・アイゼンホークは紛れもなく血の繋がった僕の父親だ。――…だがっ、これ以上のことは言いたくない。我が家であれは最大のタブーなんだ。特に、レニは自分を捨てた父親を恨んでる――レニの前では父に関するすべてのことが禁句なのはシゼルも知っているだろう?」
同意を求めるクラウの横顔が、これ以上の追求を許さない。
クラウのこの、悩んでいるような、気まずいような何とも言えない苦々しい顔を以前に一度だけ見たことがある。――あれはレイガンと初めて会った時。離れて暮らすクラウとレイガン、半年ぶりの兄弟の再会に居合わせてしまったときのことだ。
あの時もレイガンは表情静かにシゼルを睨んでいたし、クラウはクラウで今のような何とも言えない微妙な表情をしていた。
「初めまして。俺はイルシーゼル・コナー。君のことはお兄さんからよく聞いているよ、レニガヌクーフェくん」
口にした途端、クラウの微妙な表情が掻き乱れる。その顔を視界に納めるや否や、
ドカッ
開口数秒にして十歳の少年に殴り飛ばされた。クラウよりも幼い身の丈ながら、肉を抉るような重い一撃は、クラウのそれに近しい感触がした。
兄弟揃って容赦ない。飛び立とうとする意識の端をどうにか捉えて、シゼルは悩んでみたが彼に殴られるようなことをした覚えはない。きっと何か誤解があったのだ。
弁解しようと顔を上げると、そこはシゼルの知る世界とは何もかもが異なっていた。
まず宙を舞うのは花瓶、次に分厚い譜術の本、椅子に机に本棚にベット、部屋中のありとあらゆる物が投げ飛ばされた。最後に、止めに入ったクラウまで内壁目掛けて叩きつけられて、ようやく事態が収束する。……大変な惨状だ。
あとで聞いた話によると、「レニガヌクーフェ」という異国の愛の女神の名――リヴァルが付けたレイガンの真名は禁句中の禁句だったらしい。それも禁句を耳にしたレイガンは我を忘れて暴走するのだというから、そういうことは前もって教えてほしかった。
後に残ったのは荒れ果てた部屋と、気絶したクラウの憐れな姿――ガラスか陶片かはたまた木片か、直接的な原因は不明だが至るところに傷を負っている。
「クラウ、しっかりして!!いますぐ治すからっ」
こんな時のためにいつもポケットに忍ばせている万年筆を取り出して、治癒の譜陣を手に描きながらシゼルは慌ててクラウに駆け寄った――が、駆け寄ってはみたものの、行く手を阻まれて思わず目をしばたたいた。
「えーっと。……それは何かな。クラウに触れるなってこと?」
クラウを抱きかかえたまま声もなく肯かれて、さすがのシゼルも兄の怪我はおまえのせいだろっ、と声を荒げたくなった。けれどそれを言うより先に呟かれたレイガンの言葉に、シゼルは考えていた反論のすべてを呑み込んでしまった。
「……ぼく、とクラウをバラバラ、にしたの、はアイツ。みんなリ、ヴァルとかいう、のがママを捨てた、せい。ぼく、からクラウ、を取り上げたアイツ、が憎い。そのくせ、のこのこクラウ、の前に現れる……。ぼく、は年に数回、しか会えな、いのに。……おまえもぼく、からクラウを取り上げ、ようとしてる、んだろ。おまえ、がいな、ければクラウ、があいつと同じ、騎士、になるなんて言わ、なかった。おまえのせいで、クラウは……」
この当時クラウは、セルニード村の祖父母の元に預けられていた。レイガンはというと、離婚時に乳飲み子であったためにそのまま母親と暮らしていて、この兄弟がこうして直接会うことはほとんどなかったらしい。
だからなのか、クラウは今も弟の狂乱理由を誤解しているとシゼルは思う。
レイガンにとって自分から兄を奪う全てのものが敵、ただそれだけのことなのだ。どうやらシゼルはリヴァルと同等の害虫として、レイガンに認識されているらしい。
(君から兄さんを奪うつもりはないっ――なんて否定できないのはちょっと悔しいかな)
クラウと日がな丸一日共に過ごすことの多いシゼルはレイガンにとって目下最大の敵だ。そもそもそんな自分が何を諭そうともレイガンには虚言に聞こえるだろう。
シゼルは重苦しく息を吐き出した。
クラウがどこまで弟に話したかはわからないが、少なくとも騎士を志していることは伝わっている。正直、自分の存在や行動が親友の弟に嫌われる原因になるとは思わなかった。
と、まあレイガンとの接点はそれきりなのだが、やはり彼はシゼルを睨んでいた。
――おまえのせいで――
瞳が物申していた。今さらながら思い出した言葉が胸に重くのしかかる。
自分さえいなければ、クラウはここにいなかったかもしれない。
友人の人生を曲げてしまったのでは、と不安が首をもたげて足枷を嵌めさせる。
クラウが傍にいる限りシゼルは思うようには動けない。少しでも行動に出れば、きっとレイガンの不安は真実になる。――選択を迫られたとき、クラウはきっと弟を悲しませても、シゼルに差し伸べた手を引っ込めるなんてことはしないだろう。
ときどき、この真っ直ぐな親友のことが厭になる。
「おいシゼル、またくだらないこと考えてるだろ」
問われてつい生返事をしたシゼルは後悔した。――その口調はかなり不機嫌だ。
「ごめん、ちょっと考えごと。考えごとっていうのはね、」
「その話は後で聞く。それより、何とも思わないのかおまえは」
「いやー、思わない訳じゃないけど。それにしても殺気出し過ぎだよクラウは」
「だけどこれはおかしいだろ、明らかに」
クラウの視線は宿舎の前庭に向いた。――昼間干した洗濯物は、真っ白な流れを作ったまま取り込まれていない。日は傾き、いつもなら本邸や迎賓邸から仕事を終えた者が帰寮し、灯りの一つも点いている時間のはずなのに、宿舎は完全に沈黙している。
「何かあったのか……まさか、ここを拠点に殿下を狙って!?」
シゼルは押し黙った。アイゼンの茜鷹が亡くなってからそう時は経っていない。もし大公の命を再度狙うなら、警備の穴のある今を置いて他ない。
黙していると突然、クラウはスカートの裾に手を伸ばした。勢いよく捲りあげて、陶器のように滑る肌も露わに、黒のベルトで太腿に括り付けられた銀の棒がお目見えする。
「これでも無いよりはマシだろ」
手に取った棒は瞬時に腕くらいの長さに伸びた。金属特有の光沢が白く瞬き、闇夜ならば剣にも見えただろう。だが何と言ってもただの棒、殺傷能力はイマイチ低い。
「へえ、護身棒そこまで進化したんだ。さすがドットラントだね、小型軽量かつ丈夫さはそのまま。クラウってば昔から危ないオジサンたちに目を付けられてお持ち帰りにっ」
シゼルは口を噤んだ――棒の先端が喉元に突きつけられていた。
「反応が鈍い。鍛錬を怠っていたんだろ」
クラウの瞳から冗談めいたものが失せた。いや、もともと冗談めいたものなんて微々たるもので、それがすべて消し飛んだ。
どこからか、かすかにピアノの澄んだ音が響いてくる。
さすがに違和感を覚えて、辺りを見渡すシゼルの瞳からも光が落ちる。――金の虹彩が捉えるのは一瞬の鈍い煌めき、あれは宿舎一階の一番東にある食堂だ。
「な、んだ、これは……」
漂う異臭に二人は口許を手で覆った。眉間に皺が刻まれ、凝らした先には目を逸らしたくなる光景が広がっている。
「なんで、こんなことに」
厨房から宿舎に侵入し、たどり着いた食堂。天井まで届く窓ガラスから月明かりが落ちる――机や椅子は砕け散り、室内を飾る花瓶や日除も繊細な細工の面影をわずかに残して方々に散らばっている。床には赤黒い水滴が続き、厭な鉄臭さが鼻を刺激する。
クラウは息を殺した。氷が肝を撫でている。――部屋の闇に沈むのはくすんだシルバーブロンドと眼鏡の銀縁。まとう白い衣も凍えるように冴え、足が竦んだ。
「――待ちくたびれたなあ」
妙に身体を震わす、気怠そうな若い男の声。それも、女性が聞いたら陶酔しそうな柔らかい響き――この声に乗る殺気は、凄味を増して輪唱のように伝ってくる。
「たまにはガキと遊ぶのもいいか。まあ、頼まれ事だし、ちょっと付き合ってくれよ」
刹那、男は槍を振り上げ斬りかかってきた。
刀身がぶれるだろうに腰を軸にして支え、半透明の手袋をした片手で眼鏡を押し上げながら余裕の笑みをこちらに投げつけてくる。
シゼルは宙に浮いた。
咄嗟にクラウに突き飛ばされ、持ち上がるようにして尻餅をついたのだ。ひどい仕打ちだと向ける視線の先では、クラウと男が息も継げぬ斬撃戦を繰り広げている。
「ほう。こちらを攻めると、こう出てくると」
斬りかかる男の表情は嵐の前に吹き抜ける風にも似た涼しさがある。単に男の青白い素肌がそう見えさせるのかもしれないが、汗一つ掻いていないのは事実だ。
瞳孔開くクラウと違って、見開かれた双眸に咲く闇色の瞳は常に静かだ。
視線が絡むたびに、ひどくゾクリとしたものが背を這い上った。
「太刀筋も攻防の切り替えも悪くない。多少、隙もあるがそこいらの雑兵相手なら問題ないか。だが、残念なことに俺は一兵卒じゃない。だからそう簡単にはオトセない、と」
受ける刃はひどく重い、弾き返される刃は数倍の重さにもなる。言い返す余裕すらない自分に腹が立った。一撃一撃を放ち、受ける間にも確実に壁際に追い込まれていく。
(くそっバケモノかッ、親父や師匠じゃあるまいしっ)
心の内でつく悪態も貧弱になる。それを知って知らぬか、男はせせら笑った。
「逃げ出さないだけ褒めてやるよ。だが、誰かを庇って戦えるほど強くはない、な」
耳に届くや否や、押し込まれて辛くも後ろへたたらを踏んだ。この体勢では次の攻撃を防げるほど踏ん張れない。避けるにも場が悪く、足元に折り重なった椅子が邪魔をする。
万事休す、そう思って襲いかかるであろう痛みに耐えようと腹に力を込めた。――だが、待てども白刃は振り下ろされず、見下げる切っ先はあらぬ方を目指していた。
兇刃は今、シゼルを的に収めている。
「畜生っ、間に合えッ!!」
蹴り上げた椅子の残骸を護身棒で叩き打った。考えるよりも速く身体が動き、欠片がどうにか槍の飾りに当たって一撃目の的は逸れた。
安堵が腹の内で生まれてくる、けれど息をつく間などない。
次の斬撃が放たれるまであと、数瞬――。
クラウは迷わず得物を放り出した。
一歩、二歩と、滑るようにシゼルと男の間に飛び込み、その勢いでシゼルの巨体を伏せさせ、自分の身体すべてで抱きかかえる。――ただ綿で織られただけのメイド服を身に着けるクラウ、今その背にあるのは磨き上げられた牙と肝を冷やす嘲笑だ。
今度こそやられるっ――。
「身を挺しても主君を護る、それこそ騎士だ。おめでとー、残念だけどこの試験は合格だな」
覚悟を決めた心に、予想外の乾いた拍手が届く。
クラウは思い切り振り返った。
男は不服そうに槍を投げ捨て、苦笑しながらも淡々と拍手をこちらに送り続けている。
「君は試験を無事パスしたんだ。よってこれから、白銀の翼の一員だ」
「は? ――…えぇっ!?」
クラウが声を上げた瞬間、人の気配が唐突に周囲を取り囲んだ。
手を打ち鳴らす音は大きくなり、指笛が空を切り、室内を歓喜の色に染め上げる。
誰かが発動させた灯りの譜陣で一気に室内が照らされると、そこにはすでに邸内で働く二十名ほどが集まっていた。
「本当にわかってなかったのか。なら、構えを解いて状況を把握したらどうだ」
男はおそらく親切心で言っているのに、クラウは鵜呑みに出来ずにいた。
灯りの下で見ても、彼の瞳は暗闇よりなお静かに冷たく閃いているのだ。そんな彼に構えを解けと言われて、解けるはずもない。
「クラウは試されてたんだよ」
友人が必死に爆笑を堪えているのを知って、とりあえず殴っておいた。同僚と思しき人たちから失笑と野次が交錯する。
「おいおい、さっきまで守っておいてそれはないだろ、おチビちゃん」
いつもだったら成長途中だと反論に出る舌も思うように回らない。ただ呆けていると、一団の中から鬼のような叱責が響いて、クラウは釣られるように意識を取り戻した。
「歯ぁ食いしばれっ貴様らっ!!それで説明したつもりか、この脳みそ筋肉族がッ!!」
か細いのにドスの利いた勇ましさ。眼鏡の男以外は一斉に縮み上がって姿勢を正し、右手を胸に当てている。――彼らの身振りは紛れもなく騎士の、上官に対する敬礼姿勢だ。
「協力感謝します、エリー先生。私たちでは面が割れていたものですから」
鬼の声の主が眼鏡の男に声を掛ける。クラウの目も耳も、その瞬間おかしくなった。
「気にすんなって。オレもいいデータがとれたよ、フェルニー中尉。――ああ、今はフェルニー隊長と呼んだ方がよかったか。わりぃ」
「構いません、私も少佐とお呼びすべきでしたね。なにせ軍籍の上で私は中尉ですから」
最後にホホホと付け足して、高貴な会話のように聞こえるが単なる嫌味の言い合いだ。
クラウは口が半開きになるのをどうにか抑えて、男でない方を見つめた――焦げ茶の制服はクラウと同じメイド服。淡い金の髪を少しだけ後ろに括り、いつもニコニコ朗らかな笑みを浮かべる使用人、その名はティア。透き通る素肌と繊細そうな顔の作りながらも、夏の日差しとひまわりが似合う健康的な女性だと思っていたのだが――。
「こぉルらぁッ貴様らあっ、突っ立ってないでとっとと片付けやがれ、このウスノロがっ」
吐く言葉は鬼のように厳しい。回りくどくない分シゼルより悪意は感じられないといっても、直接心を砕くダメージはこちらの方が大きい。なにせ見た目は天より舞い降りた女神なのだ、紡ぐ言葉は絹糸のようであって欲しい。
「立てますか、シルトクラート」
カードの表裏が返ったかのごとく穏やかな笑み。恐る恐る差し出された手を取って「お気遣いありがとうございます」と口から出た言葉は平謝りにしか聞こえない。
「このバカどもったら気が利かなくて、ごめんなさいね」
などと丁寧に言いつつ、片付ける人たちには「反省しろッ、明日から基礎訓練十割増だッ」などと怒鳴っている。なお、ひとたび返事が遅れた者にはドカッと鈍い音の制裁が加えられている。――認めたくないが、騒々しい室内を一喝でシメたのはこの人なのだ。
「まさかティアさんは……」
「さすがに気づきましたね。では改めて。私は〈白銀の翼〉と呼ばれる大公近衛騎士隊隊長のティアソーマ・フェルニー、要はあなたのお父様の後ガマです。このメイド姿は世を忍ぶ仮の姿――大公殿下の近衛である以上、私は歴とした騎士です。証拠にほら」
といって裏返された襟には白く輝く徽章が留められている。大公の騎士の徽章は〈白銀の翼〉の名から、銀の台座に白い貝殻で羽根が象られたものだ。クラウは幼い頃、父にその徽章をねだったことがあったが「やらねーよ」と痛いほど頭を撫でられたことがある。
父の徽章と寸分違わない細工を認めて、張り詰めていた心が解けていくのを感じた。
だが、次の瞬間には身体も心も凍り付いた。
「ちなみに性別はこれでも男だったりしますけど、これも証拠をお見せしましょう」
躊躇いも、恥じらいもなく捲りあげられたスカート――見たくなかった、否、頭が真実を否定する。
「ひどいですね、その反応は。でも今日のところは私の変装術を褒めてくれたのだと受け取っておきますよ、あなたの後ろで同じような態度をとっているバカどもたちの分もね?」
クラウの口は至極ひねくれているが、いたって表情は素直だ。冷ややかな隊長の視線の先、部屋にいる全員は更に固まった。
「ついでにこのバカどもたちを紹介すると、半分くらい仮装パーティーに見えますけど、エリー先生を除いた全員が白銀の翼の隊員、一応いわゆる精鋭ってヤツです」
団員からは一応はないと不満の声があがる。中には邸内の警備にあたる騎士を始め、庭師やコック果ては楽師までいるが、数人のメイドには目を背けたくなった。
けれど一方で納得もする。政治にはいち早い情報が不可欠だ、それを得るために大公の騎士たちは潜入活動も行うという。そのためのスキルといったところだろう。ただの武芸の達人でないことが、昼間の式典を飾る王宮騎士たちと白銀の翼との大きな違いだ。
「私たちは、今日みたいに本邸にいる方が稀なんですけど、お客様を迎えるときは準備にも積極的に参加するんですよ。大公家のお客人はついうっかり家人に面白いことを話して下さるので、前準備はしっかりしないといけませんから」
そう言ってからティアは一瞬笑顔を曇らせて、よく聞いてくださいと前置いた。
「白銀の翼はあなたの志を叶えるよう大公殿下から命を受けています。本来、殿下の御権限ならば独断で殿下付きの騎士の位を授けられるのですが、私たちは王宮騎士なんて生ぬるい輩と比べたら死と直結した集団、もし職務に適さないようなら士官学校へ送る心づもりを殿下はなさっていたようです。ですから、あなたを試していました」
口振りからすると邸に来たあの日からクラウの適正を測っていたのだろう。
まだ邸中の使用人を覚え切れていないのに、この場にいる隊員の顔と名は面白いほどよく一致する。彼らはさり気なく近づいて、クラウの様子を探っていたのだ。
「では、適正判断は」
覗い見るとティアは少し困ったように笑んでいる。まさか、
「不合格」
「え」
「でもないので見習いとすることにしました。従って徽章も制服もまだあげられません。けれど代わりにこの白銀のリボンを差しあげましょう。シゼルくんとお揃いですよ」
ティアは子どもに諭すように言った。
これで友人が笑っている理由がよぉく判った。彼のリボンは妙に輝色を放つシルクだと訝しんでいたのだが、ただの〈白〉ではなかったのだ。コイツはグル、だからあの場から逃げ出さずに座り込んでいたのだ。今思えばシゼルの言動ははじめから不自然だった。
それに気づかないなんて――、クラウは悔しさで唇を噛む寸前、で止めた。
「フェルニー隊長、二つほど聞いてもよろしいですか」
「今まで通りティアで構いませんよ。その方が混乱しなくていいでしょう。それで何か?」
「白衣の方はどなたですか。御礼を言おうと思ったのですが」
騒々しい片付けに紛れて男の姿は忽然と消えていた。あの闇色の瞳を思い出すたびに内臓を掴まれている――そんな嫌な感覚を覚えるのだが、入隊試験をしてもらった相手に礼をしないなんてアイゼンホークの名が廃る、そうクラウは考えている。
「ああ、エリー先生…ええと、なんて言ったらいいでしょうか……本名はエルメタリカ・ファウト、そうですね、軍医なのに位階は少佐で、十代で王立学校を首席で卒業して、三十前ですが医学分野の前線で活躍する天才、といえば聞こえはいいでしょうか。ただ天才だからこそなのか性格には難アリで、ほんっとーーにどうしようもない人、ですけど医術系の譜術士としてもこの国で右に出る者はいない、そういう人です。まあ王都にいる限りはこれから会うこともあるでしょう。だからわざわざ訪ねて御礼とか、そういうことは気にしなくていいですよ。むしろ気にしない方がいいかもしれません」
彼とは仲が悪そうだったのに、ティアはやけに詳しく答えた。
それにしても、なぜそんな人物に武術の試験をわざわざ頼んだのかクラウは理解に苦しむ。実際、彼は半端なく強かったし、クラウではまったく歯が立たなかったのだが、聞く限り彼は医者、武よりも文を問うべきではないだろうか。
そうは思っても、妙に釈然としないティアを見ると追求できなくなる。
「それで、もう一つというのは?」
「あの、見習いというのは――僕の、何がいけなかったのでしょうか」
途端にティアは遠い目を止めて、軽く微笑みながら左の人差し指をクラウの額に当てた。
「あらあら、これは聞くものじゃありませんよ。これから自分で気づくこと、そのために見習いとしたんですから。ここは減点対象ですが今日は大目に見ておきましょう」
忸怩たる思いで下を俯くクラウの耳に、ティアの爽やかな声が届く。
「ほら、主役がそんな顔をしたらいけませんよ、顔を上げて。わかってくれればそれでいいんです。さあみなさん、宴の準備は整っていますね」
片付けに奔走していた室内がドッと沸いた。扉の先からは出汁の利いた温かな匂いが流れ込み、それを吸い込んだ途端に盛大にお腹が鳴った。恥ずかしさのあまり俯いた先に、薄く残った血痕が見える。――これがなければ、クラウもあれほど警戒しなかった。
「何だったんだ、この血は。ここまでやることないだろっ」
「おいおい、かわいいメイドが眉間に皺寄せるなって。その血はこいつが原因なんだ」
苛立ちを押さえないクラウの疑問に応える声がある。コック姿の彼の名はジェラルド。そんな彼が差し出したのは白いスープ皿だ。
「ここに入る猪がよ、捌いてる途中で逃げ出しやがって。おかげで厨房もメチャクチャだ」
忌々しげにジェラルドは深い銅鍋を叩いた。馬鈴薯、人参、玉葱、ただの野菜スープだ。
「くっそー、猪肉は脂質が少なくていい蛋白源だからクラウの糧になると思って、わざわざ山で獲ってきたってゆーのにさー」
「大きなお世話ですっ、誰がミニチュアですか、誰がっ」
「察しがいいな、よぉーし、褒美に大盛りにしてやろう。なんなら牛乳もつけとくぜ」
「結構ですっ!!」
ジェラルドに頭をワシワシと撫でられた。――完全に遊ばれている。
それでもいつの間にやら隊のみんなと仲良くなっているのはクラウの性格によるところだろう。口下手なところはあるが、真っ直ぐなクラウは昔から友だちは多かった。
(それにしても…白銀の翼から逃げる猪って一体……まさか、山の神?)
白銀の翼は騎士の中でも一、二を争う精鋭揃いだ。その中でも剛腕を誇るジェラルドを破るなど、考えるだけでもゾッとする。
こうして騎士を夢見る少年は、騎士見習いになったのである。