第二話 『王道転移』
■SIDE とある三人組の学生
―――幸福とは、幸福を探すことだ。
お気に入りの本を読みながら、眼鏡をかけた青年は学校帰りの道を歩く。空は茜に染まっている時間で、彼の他に人はほとんど見当たらない。強いて言えば、彼の横切った公園ではサッカーボールが二人の少年の無造作な蹴りによって宙を舞っていた。
(幸福とは、幸福を探すこと······ですか、相変わらず意味が不明ですね)
もう何度目かわからない疑問を脳内で反芻して、彼はクスリ、と笑みを溢す。この著者の意図はわからないが、だからこそ、言葉に深みが出てくる。
この言葉に出会って数ヶ月。彼は、この言葉の意味を考え続け、そしてそれを楽しみに感じていた。
(ふふ、この本を私に薦めてくれた人はなかなかセンスがある。まさか、私がここまで本と言うものに傾倒するようになるとは)
数ヶ月前、図書室で全く無面識の男子生徒からおすすめされた本。この本は勉強ずくめの毎日を送っていた青年に、一つの安息を与えてくれた。
(顔は覚えていますし、今度会ったらお礼と感想でも言っておきましょうか······)
と、少年が考えていると、
「危ないっ!」
「え?」
焦燥に満ちた少年の声が聞こえ、目の前にはちょうど上を見上げる彼の顔の中央にゴールインする形でサッカーボールが超接近していた。彼の顔から10cmほどの位置だ。
(ああ、これは声に反応するべきではありませんでしたね。眼鏡が壊れないことを祈りますか······)
と、半ば諦めの表情で青年は目を閉じる。
「――あっぶねえなっ!」
しかし、彼の顔面にストライクシュートを決めるはずのボールは、軽薄な声と蹴りあげられた足によって弾き返されてしまった。
その足は、眼鏡の青年のものではない。
「ったく、あっぶねーなー。おい、ガク。大丈夫か?」
「······おお、ええ、はい。大丈夫です。ありがとうございます、シュウト」
眼鏡の青年―――境元学の顔を巻き込まずに、彼の目の前に超接近したボールだけを蹴り上げて公園まで弾き返すのはどうみても超人的な光景だが、ガクは驚くことはなかった。
この男なら、それくらいのことはするだろうと納得できるからだ。
「さすがは元サッカー部のキャプテン、『天童』といったところでしょうか?」
「んはは、やめろよ、そんなこっ恥ずかしいあだ名で呼ぶのは」
青年は爽快な笑顔を浮かべ、頭をかく。
『天童』榊原蹴斗。
驚異的な身体能力と、その他を圧倒するほどの運動センスを持つ、元サッカー部キャプテン。
そして学習の成績では、全国的に見てもレベルの高い進学校の中ですら『秀才』と評されるガクに並ぶ学年二位で、生徒会会計担当。
サッカーの現役時代には、彼の元を訪れるスカウトは両手両足でも数えられず、その快活な性格と『現代のダビデ』と評されるほどの端正な容姿から、女子からの人気も高い。
普通であれば男子から陰口の一つでも呟かれていそうなほどに完璧超人な彼だが、言動や行動によって人からの印象をコントロールするクレバーさも兼ね備えている。
纏めて言うと、良い友人ではある――――それがガクのシュウトに対する評価だった。
「おーい少年!ちゃんと気を付けろよ!」
「すみませんでしたー!」
ボールを蹴りあげた張本人である少年にシュウトが手を上げると、少年は勢いよく頭を下げる。その目に憧憬の色が灯っているのは、遠目から見ても間違いようがない。
「サッカーをまたやってみたらどうです?」
「それじゃあ、何のために進学校に来たのかわかんねえだろ。それに、俺が今さらサッカー始めたところでとても追い付けねえよ」
「どの口が言っているのやら······」
実際、もしシュウトが再びサッカーの道に進めば栄光の道は確実だろう。勉学に集中している今ですら、シュウトは強豪校の選手の実力を超えていると確信できる。
「あと、夢もあるしな。サッカーも良いけど、社長ってのも中々良いだろ?」
「おや、起業するつもりで?」
「今のところはな。あ、そうだ。一緒に会社立ち上げねえ?俺とお前ならひゃくぱー一攫千金間違いなしだぜ!」
「丁重にお断りさせていただきます」
親の病院を継ぐという義務がガクにはあるのだ。シュウトの提案に心引かれないわけでもないが、幼い頃からその道しか示されてこなかったガクからすれば、その世界は余りに未知過ぎた。
「ふっ、そうかよ。まあ気が変わったらいつでも言えよ。お前ぐらい頭が良かったら、きっと何でも成功するぜ?社長に株主に総理大臣、ああ~うらやましいな~才能に恵まれてるってのは」
大げさに空を仰ぐシュウトを見て、ガクはふっと顔を綻ばせる。ガクの置かれている家庭の状況、ガクの気持ち。それらをすべて承知の上でこう言っているのだから、シュウトも意地が悪い。
「まあ、考えておきますよ」
「とか言って、どうせまたバックレるんだろうが」
「さあ、どうでしょう?」
拗ねたような様子のシュウトを見て、ガクは肩を竦めた。
「———くーん!ガクくん、シュウトくーん!」
「……来ましたね」
「生徒会終わって俺はすぐに走ってきたしな。そろそろ来る頃だろうとは思ってた」
後ろから聞こえてくる声の正体に確信をもって、ガクとシュウトは会話を交わしながら、割り込んでくる影を待った。
「はぁ~つっかれた~。生徒会の仕事は長いし、終わらせて追いつくのに時間がかかっちゃった」
「俺は足にも自信あるからガクには追いつけるとは思ってたけどよ。そんな無理してくる必要あったか?」
「あったよ。だって、私ガクくんたちと話すのとっても楽しいし」
「っ、光栄です……」
ガクとシュウトの間に割り込んできた女子生徒から花の咲くような笑みを向けられ、ガクは赤面して俯く。眼鏡を人差し指で押し上げ、高ぶる心を落ち着かせるように一つ息を吐いた。ガクの緊張したり、照れた時の癖だ。
彼女の名は一之宮雫。
ガクやシュウトと同じ学校に通う女子生徒であり、二人の友達でもある生徒会書記。その発育のいい体つきや、可憐な容姿から一部の男子学生からは『今世紀のヴィーナス』『現実版二次元少女』として知られており、彼女を好く男子からの告白は絶えない。その全ての告白を断っていることから、『鉄壁の美少女』としても学校内では有名である女子生徒だ。
シズクがガクとシュウトに出会ったのは二年前。
話が合ったのが切っ掛けでガク、シュウト、シズクは旧知の友人のように打ち解け、今や三人はセットで数えられるほどに仲が良くなっている。
とはいえ、それ以上の関係には未だなっていないのだが。三角関係などと囁かれている学校の噂とはいささか実情が異なっていた。
「全く……文化祭が近いからって先生もこき使いすぎだよぉ」
「まーまー。生徒会って、そんなもんだろ?」
「それでも頑張れるのは、素晴らしいことだと思いますよ」
「おーおー。やっぱりガクはシズクには優しいねぇ。な?シズク?」
「ど、どういう意味ですか……」
「そうだよ。ガク君は皆にやさしいじゃない」
「シズク……」
愚痴を漏らすシズクをシュウトが宥め、シズクを励ますガクをからかうも、シズクの鈍感さにシュウトはがっくりと肩を落とす。ガクはと言えばシズクに優しいと言われ照れていた。
今日もありふれた一日は終わりを告げる――――
「あ、もうこんなところまで来たか。そろそろ別れねえとな」
「うん。じゃあね、シュウト、ガク君!」
「ええ、シズクさん、シュウトまた明日!」
―――――はずだった。
三人の足元に、幾何学模様の異様な光が浮かばなければ。
「!?これは?」
「っ!?何、これ······!」
「くっ······!」
驚きの声をあげる三人。シュウトは持ち前の身体能力を生かし、ガクとシズクの襟元を掴んで、その円から逃れようと反射的にバックステップを踏むが、足元を漂っていた解読不能な文字列は三人に覆い被さり、一人一人を縛り上げた。
「っ、っ!······くそっ、誰かー!誰かいませんかー!」
各々が中に浮かぶ光の鎖を引きちぎろうと体に力を入れるが、それが不可能だと悟るや否や、シュウトは助けを呼ぼうと声をあげた。
しかしただでさえ人通りの少ない道で、この時間に周囲を歩く人も見当たらない。
「シュウト、シズクさん!何が起こるかわからない、まずは冷静に······!」
突如歪む視界。ガクのその言葉を皮切りに、二人の顔がグニャリと曲がる。異常な光景に高鳴る鼓動を感じながら、ガクの視界はそこで暗転した。