第一話 『奈落の底へ』
■SIDE 天川一涙
「予約してた本があるんですが……」
「はい~。あっ畏まりました。少々お待ちください」
田舎の町の書店。2ヶ月ほど前から取っていた予約表を見せ、店員は奥の本棚から目的の本を探す。
店員が戻ってきたときに抱えていたそれを見て、俺は内心興奮していた。
俺の名前は天川一涙、高校二年生。学力は平均より少し上くらいで、体力テストでは反復横とびで10点を取る程度の運動能力を持つ、ごく普通のどこにでもいる学生だ。
漫画で言えば「その他大勢」に数えられるポジション。しかし、その中でも俺はちょっとした個性を放っていた。
簡単にいえば、オタクである。
幸いにも、学校にはそこらへんに理解のある友達がいるにはいるので、俺は自分がオタクであることを隠しては来なかった。
オタクになったキッカケは、ある日友達に勧められていたアニメを見始めたことだ。当時、そのアニメはクソアニメとして世間を騒がせていたが、アニメに疎かった俺はそれを見て面白いと感じてしまった。
突如として異世界に転生され、しかし過去に囚われず、前を向いて充実した人生を歩んでいく主人公。それを見てから、俺はラノベと言うものにハマってしまう。
教科書で埋められていた本棚は、今やその9割ほどがラノベに挿げ替えられていると言えばその変貌ぶりが明らかになるだろう。
親も成績さえ保てば特に何も言うことはないらしく、むしろ憑りつかれたようにラノベを読み漁る俺に影響されてラノベを借りては読んでいるといった始末だ。
そのうち、我が家で唯一オタクを忌避していた妹までもがその輪に入り込むようになった。
「ねーねー。ちょっとこれ読んでみない?楽しみながら読めるし、きっと国語の成績も上がるかもよ?そんな堅苦しい本ばっかり読んでないで、たまにはこういうのも読んでみたら?」
「はぁ?お兄ちゃんのオタクムーヴに私が付き合うわけないでしょ?恥ずかしいからそういうの本当にやめてくれる?」
「ふーん、残念。じゃあ、気が向いたら読んでみてよ。ここに置いとくから」
「……」
反応を見る限り、妹も完全に嫌と言うわけではなさそうだった。俺が没頭している姿を見て、そんなに面白いものなのかと興味を持ったのだろう。
「…………」
「あ、見たの。どうだった?」
「……次の巻が見たいんだけど……貸してくれない?」
「おっけー」
結果的に言おう。我が家のオタク率はついに100%になった。
我が家の本棚には必ず一冊はラノベが置かれており、妹の部屋には二次元美少女のイラストがたくさん並べられている。
とはいえ、俺はもう高校二年生。
そろそろ勉強に勤しむべき時期ではあるのだが……。
そんな俺が書店で購入するものと言えば、何かは決まっている。
「税込みで、1198円になります。スタンプカードはお持ちですか?」
「あっはい。持ってます」
代金は既に準備済みだ。財布からスタンプカードを抜きだし、店員に渡すとスタンプが二つ押された。
あとは店員が代金を徴収してこちらが本を受け取る。それで終わりだった。本を渡す際に店員がこちらに向けてきた冷ややかな視線はプライスレスとだけ受け取っておくことにする。
誰かに見られているというわけでもないのにそそくさと道を歩き、家までの歩道で人がいなくなって我慢できずにその本を取り出した。
「やっ……たぜ……!」
60万部突破の新作ラノベ「絶刻のハーフエルフ」の9巻ドラマCD特装版。
その情報を公式サイトで受け取ってから、俺はすぐさま書店に予約に行った。行きつけである田舎の書店では、特装版は予約しなければ手には入らないのだ。
「ふ、ふふふ……!」
抗いがたい衝動に押し流されるまま、表紙や挿絵を眺めていく。
イラストは丁寧な輪郭を描いており、登場人物の特徴をしっかりと押さえていた。
プロローグ、一章、二章……読み進めていく度に加速していくページ捲り。そろそろ半分に差し掛かるというところで……。
「……って、こういうのはちゃんと家に持って帰って読むべきだよな」
未練を払拭するように本を閉め、前を向く。気が付けば辺りは暗くなっていた。どうもラノベを読むときは過ぎる時間が早い。
時計を見て、げんなりと肩を落とす。
「げっ……もう風呂に入ってる時間じゃん」
早く帰らないと怒られる。焦燥した様子でラノベをビニールに仕舞い、一歩踏み出した。
―――瞬間、地面に大きな穴が開く。
「えっ!? ナニコレッ!?」
地面が崩れて陥没した、といった様子ではない。突如地面が足元を起点として飲み込むように凹んだのだ。暗い時間帯であるせいか、まるで底なしの穴のように見える。
奇妙なのは、俺が重力に従って落ちるのではなく、その奈落に少しづつ吸い込まれるように落ちていくことだ。
身体がその底に叩き付けられることはなく、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいく。
「すっ…………吸い込まれる!?だっ、誰か!誰か助け―――」
穴の底で、仄かに光る外に手を伸ばす。
しかし儚い夢の終わりの如く、地面は何事もなかったかのようにゆっくりと閉じていった。