エピローグ②『“魔界”では』
□SIDE “魔界”
北から吹いた生ぬるい風が辺りを縫うように通っていき、紫色の水溜りを儚げに揺らす。その水溜りの一つに、一人の禿頭の老人が映った。
その老人は魔族だった。その肌は灰色で、顎には灰粕のようなひげを蓄え、体は巨人と見紛うほどに大きく、筋骨隆々で大木の如き腕を祈るように組み合わせている。
ここは、【魔王国ネフェタル】と【宗教国ネメンスタール】の国境付近。
「これは……惨いのう……」
そう呟く老人の目の前には、数多の死体が転がっている。“魔王”光臨以前の魔物や、“魔王”自ら生み出す“下級眷属”《剛腕の獣》、“中級眷属”《回角竜》、そしてその指揮官であったダークエルフ。人族の侵入を知らせる結界に反応があった際、派遣された一部隊だ。
胸を貫かれているダークエルフや強固な殻を持っている《回角竜》を除いて、その場の死体はほとんど原形を留めていなかった。例え返り討ちに会い、逃げようとしたにせよ、これは『挑もうとした者』の末路であることを老人は悟っている。
「汝らに、祝福があらんことを……」
故に、老人は平等に死に行った者たちへの冥福を祈った。戦いに身を投じて死ぬのは、老人にとってこれ以上ない敬い所であり、名誉だからだ。
そして同時に、手を離した老人はこうも思っていた。
―――素晴らしい。
老人は単純に、これを為した者に敬意を払っていた。
ここの痕跡を見る限り、敵の人数はせいぜい一人か二人。だというのに、これだけの手勢に対してこれだけの損害を与えている。まさに、物語の英雄のようではないか!
「······くっ、はは、ははは、わはははははははは!! 実に素晴らしい! このような英雄でこそ、戦い甲斐がある!」
老人は両手を掲げて素っ頓狂に笑い、この運命と出逢わせてくれた神に強い感謝の意を示す。老人は強き者が好きだ。ぜひ出会って、戦いたい。ねじ伏せたい。叩き潰したい。自分が敬意を示すほどの強き者を、自分自身の手で葬りたい。それこそが、この老人の行動原理。
―――否、この老人は老人であって老人ではない。
そこに立っているのは、人類側から“番人”と評される魔族そのものの姿。一つの種族を抱える長であり、“魔王”の側近でもある“魔王幹部”の一人。
石眼族族長、オストラス。
「喝ぁぁぁぁあああああ!!」
オストラスは雄たけびをあげ、いつの間にか手に持っていた棍棒を垂直に地面に叩き付ける。瞬間、ドォン! と大砲のような爆音とともに地面が縦に揺れ、荒れ狂った猛烈な暴風が死体共々周囲の木々を吹き飛ばした。地面が割れるかと言わんばかりのその衝撃は、しかし地面すべては砕かずに一部の窪みのみを露わにさせる。
その窪みは点々としていて、かつてダークエルフの骸があった場所に寄ったらしき形跡が見えた後、一直線に続いていた。―――まるで、人の足跡のように。
「……そこか」
その足跡の先を、オストラスは歓喜に満ちた表情で見据えている。
しかし、走り出した途端足のついた水たまりを見て……こんなものあったかと首を傾げ、その赤さにはっと顔を起こした。
「赤い雨……まさか」
周囲を見渡し、遠い空に見えた赤い雲を確認すると、オストラスの目に焦燥が灯る。
瞬間、オストラスは地面を蹴り、尋常ならざる速さで駆けだした。
◆ ◆ ◆
□SIDE 天川一涙
日は既に落ちている。昼の時は赤い雲で覆い隠されていた空だったが、今では真っ黒な全貌を見せ色とりどりの星が瞬いていた。
それらの光に見下ろされた歪な木々の一本の陰、俺の目の前の焚火が、パチパチと音を立てている。ちゃんと火が通っているか確認した後、俺は焼き上がった肉を手掴みで取り、歯で噛み千切った。
「……不味い」
魔物の肉は渋みが強すぎて食えたもんじゃない。とにかくひどい味だ。
噛めば噛むほど美味しくなる。だけど、魔物の肉はあまり食わないようにしよう。少なくとも、ゴリラ魔物の肉は。
そう脳内で反芻しながら、眉間にしわを寄せて咀嚼を続ける。
苦悩しながら何とか完食すると、口に残った渋みを吐き捨てつつ、俺は懐から地図を取り出した。
ダークエルフの躯からいただいたそれは、元の持ち主の血で半分以上が見えなくなっている。しかし、幸いにも俺の目的地までの道のりはきっちりと描かれていた。
即ち、“時の民”の暮らしている場所への道のり。どうやらシズクとここにくるまでに見えた白い雲は【宗教国ネメンスタール】の国境への目印だったようだ。
図らずだったとはいえ、かなり良い収穫を得られた。勿論、ダークエルフとはそもそも出会わなければよかったという思いもある。
とても複雑なんだ。あのダークエルフがいなければシズクは死ぬことはなかったかもしれない。でも、あのダークエルフがいなければ俺が思い出すべき過去を思い出せなかったかもしれない。
「……あと少しだけ、待ってくれ」
“時空の指輪”からシズクの錫杖を取り出し、そっと撫でながらそう呟く。
あの黒ゴリラ共のせいか、はたまた俺のせいか。度重なる衝撃で、錫杖はすっかり折れ曲がってしまったようだった。だが、翡翠の魔力流動石にひびすら入っていないのは幸運と言う他ない。
シズクの死体は回収した。最初はその場に埋めようかとも思っていたが、あんな場所に埋葬されたらシズクも心休まらないだろうと思っての配慮だ。旅の目的にもう一つ……シズクの埋葬場所を探す必要も出てくるだろう。できれば、故郷に埋めてあげたいが。
「……」
無言で錫杖を“時空の指輪”にしまい、一つの場所に集めていた枝の一つを取って焚火にくべる。火はとても暖かくて、見ていると気分が落ち着いた。風の運ぶ穏やかな熱波が身体の芯を温め、寒さに震える身体を癒してくれる。
「…………いつだろう」
俺がシズクに償える日が来るのは。少なくとも、数日中には来ない。もしかしたら、数十年たっても来ないかもしれない。
何せ、何もわかっていないんだから。
俺とヒロアキとカリンを一度殺したあの男の出身、居場所、目的の全てに至るまで。もしかしたらあの男は魔術師で、異世界からの来訪者かもしれない。もしかしたら本物の地球人で、超能力者かも知れない。もしかしたら、今は別の世界で暮らしているかもしれない。
どちらにせよ、この異世界にはいないだろう。生き死を繰り返した世界は、あまりにも多すぎた。あの世界の中から一つ、さらにその広い世界からあの男一人だけを見つけ出すのは広大な砂漠の中で小さなコンタクトレンズ一つを探し当てるようなものだ。
「それでも……諦めるつもりはない」
そのために“時の民”と会って、別の世界に渡る方法を教えてもらう。どれだけ世界が多かろうが、あの男は必ず見つけ出し、そして殺す! 握りしめた拳から血が迸る。手を広げ、その傷口が塞がっていくのを眺めていると、俺の隣に翡翠の光が収束した。
ただの球体だったそれは……五つの方向に光を伸ばし、両腕、両足、頭を形作る。そこからさらに伸びた光は神聖なベールに、そして純白のドレスへと姿を変えた。
そこに立っていたのは……穏やかで、優しげで、それでいて心配そうな表情をした少女。
「……イチル」
「……なんだよイデア? 随分無理して出てきたな?」
創生神イデアール……イデアに、俺はからかうように言った。
俺の身体と同一化し、復活のためのエネルギーを吸収……いわば俺に「寄生」していた彼女だが、その能力が戻りつつあるとはいえ、まだ以前の姿に実体化できるほどの余裕はなかったはずだ。
「あんまり無理をすると、復活が遅くなっちまうだろ? さあ、さっさと戻れよ」
「…………」
笑ってイデアに手を差し伸べるが、イデアは無言で佇んでいた。
何か言いたいことでもあるのだろうか? そう思って、声を掛けようとする。だが、先に口を開いたのはイデアだった。
「ごめん……ね」
「…………そっか」
突如の謝罪の言葉に、俺は目を逸らしながら、気の抜けた合槌を打つ。何と答えればいいのか、よく分からない。イデアはきっと、見ていたのだろう。俺の痛みや、絶望を。だからか、短い謝罪には心が籠っていた。
だが、謝られる必要はない。彼女は俺を救ってくれた。だから、俺も彼女を……救っていた、だけだ。
でも……
「確かに、すごく痛かった。俺はあなたを……恨んでいたかも、しれない」
今だからこんな優しいことを言えるだけで、あの時の俺だったらとてつもない罵声を浴びせていたかもしれない。
「だけど、あなたが僕を救ってくれたことには間違いないんだ。感謝しかないよ、だから……謝る必要なんて、ないさ」
これは、本心からの言葉だ。彼女のおかげで、俺は生きられた。彼女のおかげで、俺は今こうしてここにいる。それだけで、本当に感謝してもし切れないと、そう思っている。
だが、イデアは煮え切らない表情のまま―――
「…………そう」
それだけ言って、翡翠色の球体となり俺の身体に入り込んでいった。何か、不満足だったのだろうか。それを見届けた後、空を見上げる。夜空は相変わらず綺麗で、美しくて、この星のどれかに父さんや母さんや妹がいるんじゃないかなとあり得ないことまで考えてしまう。
「…………家に」
思わずそう言いかけて、俺は小さく首を振った。あの時一度切望した願いは、もう二度と叶わないのだから。
焚火の枝が燃え尽きる頃には、俺は顔を俯かせ、静かに瞳を閉じて眠っていた。
◆ ◆ ◆
□SIDE ???
その様子を、とある少女は眺めていた。
少女がいるのは、イチルから遠く離れた森の奥にある一つの屋敷。その最奥の椅子に座り、肘を突く少女の瞳は、千里眼の如く木の陰で眠りこけるイチルの姿を映し出している。
「どうやら、結界を抜け出してきた人族ってのはこの子みたいね」
そう呟いた後、少女の瞳にはイチルの姿は消えていた。代わりに、朱色の鈍い輝きがその中を満たす。
少女はその赤い瞳で……自らの前に跪く従者たちを睥睨した。従者の数は、どうみても20は超えている。だというのに、その中に健康的な肌色の持ち主は極僅かしかいない。ほとんどの従者の肌色は生気を持たず、未熟な果実のように青かった。
すると従者の一人……古典的なメイド服を着、頭にヘッドドレスを取り付けた巻き毛茶髪の少女が一歩前に踏み出し、椅子に座す少女に深く首を垂れる。
そしてふと顔を上げて、椅子に座る少女の姿に見惚れたようにほぅ、っと吐息を漏らした。
見た目で言えば少女は15歳ほどにしか見えない。飲み込まれそうなほどに暗く赤い瞳、紫に濡れるウェーブのかかったセミロングの髪、白の布地に赤い線の入ったドレス、可愛らしさと美しさが織り交ざった端正な顔立ち、威圧を隠した穏やかな微笑みは、宝石で表すならばルビーのような印象を見る者に抱かせる。
紛う事なき超美少女。そんな少女が夜空に光る星々と月を背にすれば、どれほど映えることだろう。実際、メイド少女は感動のあまり涙をこぼしていた。それを見られないよう再び顔を俯かせながら、メイド少女は言う。
「先遣隊が壊滅したという報告を先ほど受けました……先遣隊には暗黒騎士のダークエルフだけでなく、《回角竜》……“中級眷属”もいたとか。敵手の戦力は“番人”によると少なくとも“上級眷属”級、下手すれば《神域到達者級》だと」
「ふむ……だったら、あなたには難しいかもしれないわね」
紅い少女の呟きに、メイド少女は主の意を察したかのように首を振った。
「“下僕”の吸血鬼どもを使って追い込めば、あとはどうにでもなるでしょう。幸い、“番人”は戦闘好きです。人族の彼をここまで追い込んでいただくことには十分だと思われます」
「そう……じゃあ、頼んでいいかしら?」
「御意に」
その瞬間、青白い肌の従者十数人を引き連れて、メイド少女の姿は影に沈む。
それを一瞥し赤い少女はフッと口元を綻ばせた。少女が立ち上がると、その姿は急に大きくなる。
否、少女の身体が実際に肥大化したわけではない。大きくなったのは、少女のシルエット。
少女の背中から伸びた二本の漆黒の瘴気が翼のように形を変え、風をまき散らして大きく広げられる。少女の微笑みは、途端に不敵なものに変わっていた。
「久しぶりね……マトモに人間の血を味わえるのは」
鋭い犬歯を覗かせながら、赤い少女は獰猛に、同時に穏やかに笑う。
“食事”の時は近いと…………そう確信しながら。