第十話 『覚醒』
■SIDE ???
ずっと苦しかった。
キミに出会って、俺はたくさんの物を失った。
勿論、キミのせいではない。僕は助けられたんだから、キミを謗る資格は俺にはない。
与えてくれたんだ。そう、与えてくれた。
きっと誰もが羨ましがり、誰もが嫉妬する。そんな何かを、キミはくれた。
ああ、でも違うんだ。みんながあんなに羨ましがってるこの力は、僕の欲しいものの何億分の一の価値もない。キミなら、分かるだろう?
皮肉なもんさ。僕の欲しいものが僕を壊して、僕を助けてくれたものが僕をコワスんだ。これじゃあ、僕はいつか本当に壊れちゃう。まあ、今回はこの程度で済んだからいいけどさ。
人間の身体って不思議だよね。ありがたいよ。僕は、今やボクではなくなってるけど。自分が何なのか、全然分かってないじゃないか。
ほら、でも目覚めそうだ。当然だ。何十回、何百回って繰り返してきたんだ。
頭では忘れても、身体は覚えてるだろ?
忘れるはずがない。忘れていいものじゃない。だから、ソレはきっちりボクの体に残ってる。
それは、僕の記憶。
さあ、早く起きてよ。僕が今まで受けた受難を、ボクが今受けている試練を、倍返しにして運命に返してやるんだ。
僕も、キミも、……アイツも、みんなが待ってる。
……覚醒の時だ。
◇ ◇ ◇
■SIDE “魔界”
「―――《解放せよ》」
その瞬間、イチルを叩き潰していた魔王の下級眷族《豪腕の獣》の頭部が破裂したように消し飛んだ。脳という指令系統を失った体は、崩れ落ちる前に空気を抉るような数度の剛撃を受けて木っ端微塵となる。
目の前で起きた不可解な現象。ダークエルフの顔から愉悦が消える。それどころか、知性を持たないはずの《豪腕の獣》すらも目を見開き、叩きつけられた威圧感に凍りついた。その威圧感の中心に人族の少年―――イチルが佇んでいることも、彼らの混乱に拍車をかけている。
―――瞬間、イチルの中心から禍々しいオーラの奔流が吹き上がった。
煮えたぎるマグマのように揺らめくその色は、闇を煮詰めたような―――煉獄の如き漆黒。
いつしか、イチルの姿は闇に覆い隠されて見えなくなり―――眼窩にはただ、闇の中に蠢く影とダークエルフを射抜く深紅の瞳だけがあった。
「ほ、ほう? まだ生きていたとはな。何の小細工かは知らんが―――」
体の奥底から沸き上がる本能的な恐怖に首をかしげながら、ダークエルフは右手を高く掲げた。
闇色の焔が空中に幾つも出現し、収束して巨大な焔を創る。
腕を振り下ろすと、ただでさえ巨大な焔がさらに肥大化し、イチルの足元に着弾した。迸る奔流を上書きするように、尋常ならざる熱波が周囲を舐める。
焼けつく肉の臭い。
「ク、ハハハハハ!」
その光景を見て、イチルを仕留められたとダークエルフは安心したように哄笑した。だというのに、身に沸き上がる恐怖は一向に消えてくれない。
やがて焔が消え、煙が収まると―――
「―――え?」
その場所には、無傷のイチルの姿があった。多少の火傷はしている。熱せられた地面が彼の足を焼いている。
だが、それだけだ。
それもすぐに再生している。焔に焼かれながら再生したなどと、何故ダークエルフが知ることができるだろうか。
「なぜ······なぜ貴様は生きているのだ!?」
故に、ダークエルフは混乱した。しかし、そんな恐慌状態にありながらも、次の攻撃モーションに入っている。
掲げられた腕の上に生み出される闇の爆炎。腕を振り下ろし、それを発射する。
「―――ク、ハハ。クハハハハハハハ!」
しかし、次の哄笑をあげたのはイチルだった。
理性を無くした紅い瞳を閃かせ、右腕を横凪ぎに振るう。
それだけで、爆炎が風圧で消し飛んだ。
「なっ······!?」
ダークエルフが驚きの声を漏らすよりも先に、イチルが動く。
「アハハハハハハハ!」
哄笑しながらダークエルフの配していた《豪腕の獣》に肉迫したイチルは、薄く開いた右手を握って引き絞り。
無造作に、《豪腕の獣》の頭部を殴り飛ばす。
薄い皮膚、固い頭蓋骨に覆われた頭部が、ありふれた少年の右腕に貫かれ、衝撃に晒された空気の余波で粉々に粉砕された。
飛び散る血と肉片。
肉体の限界を超えた打撃の反動でイチルの腕の骨も粉砕され、あらぬ方向にねじ曲がっていたが、それも瞬時に再生される。
続けてその腕から放たれた拳の数撃で、《豪腕の獣》の体が消し飛んだ。
「な―――!?」
それを目にしたダークエルフが二度目の驚愕に顔を歪める。
無理もない。たかが人間の素手が、その強度を軽く上回る《豪腕の獣》の体を嘘のように消し飛ばしているのだ。
明らかに、世の理を無視したあり得ない事象。
分かりやすく例えるならば、マシュマロで石を破壊するに等しい。しかしその『あり得ない』が今、『肉体の限界を超えた身体強化』という一つの要因によって、ダークエルフの目の前で起こっている―――!!
「ア―――ハハ」
一呼吸の笑みを経て、その体が疾駆する。
殺意を乗せた丸太のような豪腕の悉くが空を切った事実に《豪腕の獣》たちが激昂したように闇雲に拳を振り回すが、それすらも当たる気配が全くない。
「WO―――」「GOG······!」
亡者の行進の如き漆黒のオーラが通り抜けた、そう認識した瞬間には誰もが粉砕されていた。黒い影を追いかけるように連続して上がる黒い血飛沫。
目の遠くなるような巨体を縫うようにして高速で駆け抜けるイチルはただの一瞬も止まることはなく、四肢の全てを使って縦横無尽に空間を跳躍し、拳の一撃で空間を抉りながら《豪腕の獣》を屠っていく。
「······馬鹿な」
その猛攻を見てダークエルフは悟る。―――この少年の武器は、少年の体以外にない。この少年が振るうには、今ダークエルフが背負っている大剣どころか世に名高い魔剣聖剣すら脆すぎる。
ただ己の拳を、脚を以て。
振るう武器や、身を守るための防具など元から必要ない。まるでこれがイチルの“最善の姿”とでも言うように。
「く―――フフ」
千切り取った《豪腕の獣》の頭を握り潰し―――その拍子に指の骨を折りながら―――イチルは空白な笑みを浮かべた。その周囲には、黒い血や肉片が散乱している。
どうやら、粗方の獲物は片付けたようだ。イチルの目は、既にその奥を見据えていた。
「――――ひ、ひぃっ!!かっ、《回角竜》よっ!」
もはや恐れも隠さず、血の気の失せた青い顔でダークエルフは後ろに控える《回角竜》を呼び寄せる。仮初めの主の命令を受け、《回角竜》は空気を揺らすほどの咆哮を上げた。ねじ曲がった巨大な角で、散乱した肉片ごと地面を削るようにイチルに突進する。
直後、一瞬で距離を詰めたイチルの拳と《回角竜》の角が激突した。小細工の余地もない完全なる正面衝突。《豪腕の獣》を蹂躙した俊敏性はこれではなんら意味を為さないはずであり、それはつまり《回角竜》の勝利が、
「―――ハ」
故に、真正面から《回角竜》の突進を受け止めて拮抗する少年の姿がダークエルフにはとても信じられなかった。《回角竜》は彼の切り札であり、魔王の生み出す中級眷族。膂力も硬度も体躯も《豪腕の獣》を遥かに上回る。
―――だというのに、この少年の力はそれに匹敵するというのか。
「なっ、嘘だ······!」
驚愕を通り越し、直後ダークエルフは戦慄した。―――押し返されている。人間とは能力的に遥かに上回るはずの《回角竜》が、ただの少年に押し返されて後退している。
地面を踏みしめる少年の脚も圧し掛かる負荷に耐えきれずあらぬ方向にねじ曲がっているが、少年はなおも歩を進めていた。
「―――アアァァアアアアア!」
イチルの叫びに呼応し、漆黒のオーラが一気に膨れ上がる。比例するように増していく圧力。イチルの骨のそれに、《回角竜》の角が軋む音が加わる。
「KYU······WA!」
それに恐怖したように、《回角竜》はついに翼を広げ飛び上がった。―――恐れることはない。いくら力を持とうが所詮は蜥蜴。翼を持たぬ者は翼を持つ者に届かない。
《回角竜》の行動は普通であれば、正しい。しかし、例外に模範解答を与えてもなんら意味はない。イチルは既に、懐に潜り込んでいたからだ。
「―――ハ」
本能に従った時点で、『普通』に当てはめた時点で《回角竜》の負けだった。《豪腕の獣》の集団に飛び込んでかすりもさせなかった『肉体の限界を超えた身体強化』。それを低く見積もっていた。
空高く跳躍したイチルは翼を広げる《回角竜》の脚を掴み、宙で駒のように回る。その回転は徐々に速まっていき、地面に黒い竜巻が伸びていった。
その中から離れ、落ちる黒い弾丸―――《回角竜》はその堅牢な殻により、高速で地面に叩きつけられた衝撃のみを感じて呻き声を上げる。
「―――G······」
「―――ァァァァァアア!!」
《回角竜》が黒い線を仰ぎ見た直後、それは生涯を終えていた。
宙を踏みしめ、地面に倒れる《回角竜》に向けて『落下した』イチルは《回角竜》の殻を破り、内蔵をかき回し、反対側の殻へと達したところでようやく止まる。
《回角竜》の体の一点からポコポコと音を立てて、沸き上がる血の中から死神が顔を出す。イチルは《回角竜》の内蔵と血で、全身が黒く染まっていた。
その姿は、まるで影のようだ。
ただ、それを直に見たダークエルフには解る。少年はまだ満足していない。あれだけの血肉を振り撒きながら、血色に全身を染めながら、その紅い瞳は破壊衝動にまみれていた。
その瞳が、グルリとこちらを向く。それは、完全なる《狩る側》の目。
「ひっ、ひぃ!? こっち、こっちに来るなぁ!?」
戦意を喪失したダークエルフは、ありったけの魔法をイチルに打ち込む。イチルは腕の風圧でそれを打ち消し、弾き返した。深紅の線がダークエルフにぐんぐんと迫る。視界が赤い瞳で満たされていくことに恐怖を覚えながらも、ダークエルフは目を離せなかった。
「イィギアアァァアァァアアアア―――」
響き渡るダークエルフの絶叫。
―――瞬間、その腹をイチルの手刀が貫いた。
◇ ◇ ◇
■SIDE 天川一涙
目を覚ますと、俺の身体にダークエルフの身体がもたれ掛かっていた。
「……ぃっ!?」
突き込んだ抜き手を、反射的に力を込めて引き抜く。
すると、瓶を抜いたワインのように紫色の血が辺りをビュッと舞い、黒い巨体が地に頽れる。
死屍累々。
この場を表すならば、この言葉が最も当てはまるだろう。
踏みしめる大地には紫と赤の血が入り混じり、筋骨隆々の身体に風穴を開けた魔物が散乱している。
無論、その中で息をしているものなどいない。辺りには、口から洩れるか細い息だけが小さく聞こえていた。
「何が、あったんだ……?」
俺の顔は、きっとひどく薄汚れひどく歪んでいるだろう。
目の前の光景を夢だと思いたい。放り出して目から逸らしたい。
激痛の後の虚無感と鼻を刺すような血の匂いがそれを現実だと示し続けているが、頭がそれを理解したくないからなのか妙に現実感を感じなかった。
何がここで起こったのか、全くわからなかった。
行き所のない感情を解放しようと口を開いたが、出てきたのは叫びとは程遠い掠れ声と、消化しきれていない胃の中の汚物。
地面に手をついて、喉からこみ上げる生命の混合物を必死に吐き出す。吐き出したものもその場の空気と混じり合って、喉はご開帳状態だった。
頭が真っ白に染まって、視界は真っ黒に染まる。
耐えられない、信じられない、これは夢だと、そう思いたくなる。
ほんの数時間前と現在の状況の差異。
必死に立ち上がるも、目の前の惨状が変わるわけもなく、また膝をついてしまいそうだった。
さっきまで息をしていた生き物が、今は歪に息を引き取っている。それを見た瞬間、やっと理解した。
「……俺だ……き、ぉこった……」
俺だけが、生き残ったんだ。
理解した瞬間、世界が遠のいていく。
同時に、意識が覚醒していく。これは変えようのない現実なのだと、いまさらになって。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
頭を押さえ、逃げるように目をつぶる。
これは、夢だ。たちの悪い悪夢なんだ。きっと目を覚ませばふかふかのベッドの上で冷汗をかきながら起き上がっている。
そんな思考を置いてけぼりに、無我夢中で足を動かす。
「ぐぅ……ァァア!」
しかし、体が動かない。辺りに充満する死体の怨念に引っ張られるようにその場を動けない。
いや、違う。俺をそこに留めているのは死体の怨念なんかじゃない。
彼女が無事かどうか――それを確認するのが怖いだけだ。
――イチル君?
「―――――っ!?」
鈴の音を転がすような声が聞こえた気がする。
きっとこれは幻聴だったのだろう。記憶の奥に染みついた彼女の声。
だからこそ、振り向いてはいけなかったのだ。
「―――ぁ」
ポツリ、と口から零れるような声が漏れた。
血の絨毯に誘われ、そして沈んでしまった体を見てしまったから。
目を逸らそうとしても、視線は磁石で固定されてしまったかのように動かない。
体―――とも言えない肉塊に歩み寄り、跪き、その手をしっかりと握った。
きっと、自分ではどうしようもなかっただろう。
冷え切った手が、もう握り返してくれることはない。
その冷気が広がるように、意識も冷え切っていく感覚があった。
臭いも歪さも、今となっては吐き気を催すだけの苛立ちに過ぎない。
だけど、それでも――――
「――――俺は、無力だ」
―――涙を流したかった。
ガクやシュウトになんと言えば良い? 長年の友達でもない俺がシズクのやさしさに甘えたせいで、シズクは死んだんだ。黒ゴリラのあの巨腕に、何度も押しつぶされて。俺が殺したといってもいい。そんな罪悪感だけが、凍った脳内を揺らし続けている。アルクやノリトの言うとおりだったんだ。俺は、存在しているだけでシズクやガクやシュウトの安全を脅かす。
「……ごめん……ごめん……!」
―――その程度で、お前の罪は晴れるのか?
いくら謝罪しようが、シズクは戻ってこない。じゃあ、どうすればいいのだと問うてみるが、返ってくるのはどうしようと償いようはないという答えだけだ。自分自身の答えに絶望し、叫び声を上げながら両手を頭に抱えて髪の毛を毟り取る、指をくわえて噛み千切る。
その痛みは、酷く業務的だった。
嘲笑うように瞬時に再生する身体。健康的な肌色がちらつく度、頭を掻き毟り目を潰してしまいたいという衝動に駆られる。
「ぐっ、あああぁぁぁあああ! ぐぞっ、ぐぞぉぉおぉぉおお!!」
いつしかそれは終わっていた。俺は、痛みを知りすぎたんだ。包丁で胸を突き刺す―――不正解。超高圧の稲妻に晒される―――不正解。痙攣するただの肉塊になるまで叩き潰される―――不正解。
どんな痛みも俺を絶望させるには足りない。どんな痛みも俺を発狂させるに及ばない。
「……はぁ、はぁ……どうすれば……いいんだよっ……!」
魔物の血で満たされた池に倒れ込む。その拍子に地面の突起が頭蓋骨に突き刺さったが、何も感じなかった。
この罪は、償いようがない―――――
そんな時だ。
「―――いやー素晴らしいっすね。その再生能力」
誰もいないはずの『墓地』に、喝采を送るような拍手が響いたのは。