初めての…
「住所だと、ここら辺なんだよな。」
そうぼやきながら、街から少しばかり外れた道をスマホを片手に歩く。
「ったく、あのくそじじい。いつか絶対見返してやるからな。」
思い浮かべるのは、かつての部長。
突然の人事異動だったので季節は夏の初め。真夏の灼熱とまではいかないまでも、じめじめとまとわり付き、ただでさえ重い歩みをさらに重くする。
「こんな、分かりづらい所だとは思わなかったな。」
今の時間は、仕事が始める10分前。初出勤にしては冷や汗をかくレベルの重役出勤だ。
「まずい、さすがに初日から遅刻はまずい。」
汗を拭いながら、歩みを進めていく。
『目的地周辺になりました。音声案内を終了します。』
スマホからそんな音声が流れ、画面に乗っていた道のりが消える。
「あそこか、いや~、やっとついたわ。」
それっぽい建物を見つけ、一安心。時間はまだあと5分以上残っている。
「あぶね~、何とか間に合いそうだな。」
後は、目の前の信号を渡るのみで、安堵からか一息入れる。
…1分経過。
…2分経過。
あれあれ?おっかしいな?信号が全くかわないぞ。
都内で育った中嶋はなめていた。地方の信号機を。彼らの不動の佇まいを。
どうする?待つか、渡るか。
右を見ても、左を見ても、もう一度右を見ても地平線の端まで車の気配はない。
どうする?今なら安全に渡れるし、何より目撃者がいない!行けるか?いやでも、昔から信号は守るものだって教わってきたし!
中嶋は選択を迫られていた。会社の時間厳守という当たり前のルールを守るか、社会のルールを守って信号を待つか。
そうだ!信号がないところを渡れば…。いやダメだ!それじゃ斜め横断だ!
中嶋にはどうすることもできなかった。自分の力ではどうしようも出来ないことが世の中にはたくさんあるんだと、改めて心に刻んだ。
どんなに、苦悩しても時間は刻々と過ぎていく。信号を待って3分が経とうとしていた。
中嶋は時計を見ながら拳を握りしめる。覚悟が決まったのだ。
中嶋が下した判断は……。
◇ ◇ ◇
時を同じくして、中嶋の新しい勤務先では朝礼が行われようとしていた。
「では諸君。近い者から遠くの者まで、よく来てくれた。」
と言って話始めるのは、白髭を蓄えた60歳くらいの男性。
声、めっちゃかっこいいな。
その場にいる全員がそう思ったであろう。良く通るダンディズムな声だった。
「それでは、早速ではあるが、まずは自己紹介といこうじゃないか。まず私だが…」
バンッ!!
突然、扉が開け放たれた。
「はぁはぁ、ま、間に合ったか…?」
息を切らしながら、入ってきたのは中嶋。額には粒の汗をかいていた。
「はぁはぁ、すみません、、少し、遅れました。」
「おぉ、お疲れさま。とりあえず中に入って水でも飲みなさい。」
「すみません、、失礼、します。」
息はまだ落ち着かないが、何とか時間には間にあったようだ。
中嶋は空いている席に座り、持ってきていた水筒から水分を摂る。
「正直少し遅刻だが、確かに少しばかり分かりにくいところにあるしな。その汗に免じて今回は不問としよう。」
遅刻していた。
「あ、ありがとうございます。今後は気を付けます。」
男性の優しさに思わず涙が出そうになった。
前の部長だったら、1時間は拘束されてたな。
そう思いながら、反省する。
「でもまぁ、理由は聞かねばならんな。教えてもらえるかね?」
「はぁ、実はですね…。」
◇ ◇ ◇
拳を握りしめた中嶋の決断。それは。
どっちも、守ってやんよ!
さすがに3分待ったんだ。いくらなんでももう変わるだろ?てか変われ!変わってくれ!変わってください!
誰もいない道。20代半ばになろうとしてる男は、一心不乱に信号に念を送っていた。
すると、気持ちが通じたのか、歩行者用の信号が点滅を始める。
「っしゃらー!!見たかこのやろー!さっさと変われってんだ!」
誰もいない道。20代半ばになろうとしている男は、一心不乱に叫んでいた。
信号が変わる。どんだけ待ち望んだことか。
時計の長針は信号を、待ってから4回目の針を動かした。同時に信号が青になる。
バッ!
中嶋は走る。恥も外聞もない。ただただ走る。
マジで、誰もいなくてよかった!
心の中で自分にそう言い聞かせて中嶋は走る。
「お疲れさまです。」
警備員とすれ違い挨拶をされる。
警備員はノーカン!あっちも、仕事だからわかってくれる!はず!でもやっぱ恥ずかしい!
大事なものを少し落とした気がした。
でも、中嶋は振り向かない。前だけを見続ける。
べ、別に警備員さんと目が合うのが恥ずかしいとか、そんな理由じゃないんだからね!
謎の言い訳をじぶんに言い聞かせ、ようやく目的の扉を見つける。
バンッ!
勢い良く扉を開ける。
…どうやら朝礼は始まっているようだ。
◇ ◇ ◇
「ということがありまして。」
細かい心情の変化は伏せたが概要を伝える。
「「「あっはっは!!」」」
笑われた。
「バカじゃねえの?んなもん信号無視すりゃ良いだけだろ?」
「まじめで損するタイプね。」
色んな人に色んなことを言われて居たたまれない。
もうやだ。お家帰る!!
恥ずかしくて仕方なかった。
「ふふ、でもまぁ、真面目なのは良く伝わったよ。確かにもう少し融通を効かせてもいいかもしれないが、悪いことではないからな。今回の件は良く分かった。次からは気を付けてくれ。」
ダンディな声の男性のフォローが入り、場は一旦落ち着いた。
初日から悪目立ちしちまった。
初老の男性のフォローはあったが中嶋の心は落ち着いていなかった。
俺ここでやっていくのかよ。