君を忘れる優しい魔法
「あの人と、付き合うの。」
そういった君は、笑顔だった。
「あの人と、別れたの。」
そういった君は、泣いていた。
それを何度も繰り返して、君はいつからか笑わなくなったし、泣かなくなった。
「また浮気されたんだって?」
いつもの喫茶店、いつもと同じ奥の席、今日も変わらずコーヒーを二つ頼んで、もう何度目になるかわからないおんなじ言葉。
返されるのもいつもと同じ、困ったような笑顔。
ため息を一つ零して、苦いコーヒーを流し込む。
「だからもうやめろって。あいつの浮気性は何年経ったて治んねーよ。晴香だってわかってんだろ?」
「でも、今度こそって、すごい泣くんだよ。一番は私だって、行かないでくれ、って。」
「毎回そう言ってんじゃん。それで何回も泣かされてんのはお前だろ?」
「でも、今度は大丈夫かもしれないって期待しちゃうんだよ。」
「…無理だって気付いてるくせに。」
そう言えば、辛そうに俯いて、泣くのを堪える様にギュッと膝の上で手を握り締めるから。
俺は、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
また零れそうになったため息を飲み込んで、晴香の頭を乱暴に撫でる。
「…悪かった。言いすぎた。」
「…ううん。悪いのは私、だから。毎回毎回迷惑かけてごめん。」
「いいよ。何かあったら話せって言ってるのは俺だし。」
「とりあえず、これで本当に最後にする。次は、ちゃんと別れる。」
それが出来てたら俺も晴香もここにはいないだろ、なんて浮かんだ言葉は口には出さない。
次は、次こそは、今度こそ。
そんな言葉に意味がないのなんて、二人ともとうの昔に気付いてる。
きっと、何度浮気されても、傷つけられても、晴香はあいつと別れない。別れられない。
それぐらい、あいつのことが好きなのも、もうずっと前から知っている。
「ごめん、私帰らないと。そろそろあの人が帰ってきちゃう。」
「そう、じゃあ、また。」
「うん。…ごめんね。」
「気にすんなって。…無理すんなよ。」
「…ありがと。」
おう、なんて返して、晴香が店から出るのを見送る。
こらえきれずに、今日一番大きなため息を吐く。
「…疲れたなぁ。」
ぽつり、と口からこぼれた言葉に自嘲する。
なんて、勝手なことを。
元はといえば俺が言い出したことなのに。
最初に晴香が浮気をされたとき、相談に乗ってからずっと続くこの関係。
わざわざ休暇をとって、電車を乗り継いで会いに来るなんて、自分でも馬鹿だと思う。
こんなめんどくさい事さっさとやめればいいのに。
最初の何回かでやめてしまえば、ずるずると続くこともなかっただろうに。
さっき、晴香に言った言葉が頭を巡る。
「無理だって気付いてるくせに。」
まったく、その通りだ。
はやく、こんな辛い恋なんてやめてしまえばいい。
早くあいつのことなんて忘れて、…俺を好きになってくれればいいのに。
そんな、くだらない考えなんて、消してしまえば。
弱みにつけ込もうとして、でも出来なくて、そんな自分を毎回嫌いになっていく。
それでも晴香の泣きそうな笑顔が頭に浮かんで、気がついたら毎回電車に乗っている。
くだらない話をして、晴香が笑ってくれたら。
一瞬でも、あいつのことを忘れてくれたら。
それだけで今は十分だ、なんて思ってしまう俺もきっと、この関係から抜け出せないのだ。
すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干して、店を出て、駅へ向かってゆっくりと歩き出す。
太陽が沈みはじめて、空が赤くなりはじめて。
高校生たちが楽しそうに笑い合いながら、足早に横を通り過ぎてゆく。
その背中に、昔の、…まだこんな思いを知らなかった頃の二人に重なって、泣きそうになった。