魔王ハーデス
明かりは壁際に等間隔で置いてある、ゆらゆらと揺れるロウソクの小さな火だけ。ひんやりとした冷たさだけ伝わってくる灰色の石壁には場違いな鎧がいくつか置いてある。
そんな無機質な通路にはタッタッタと勇者が走る足音が響くだけ。
数十メートルも続くそんな通路を抜けると、そこは広い広い空間だった。天井は山のように高く、円状に広がる空間は湖のように広い。
勇者は広い空間に入ってすぐに気持ちで負けないように、威嚇のような言葉を放つ。
「人々を苦しめる悪の魔王よ! 今すぐこの勇者が貴様を倒して…みせ…よ…う……?」
勇者が放った言葉は何故か誰も聞く者がおらずに、ただ勇者の言葉がだだっ広い空間に響いただけだった。
少し恥ずかしくなったのか、顔を赤くしてから小さな声で今度は声のボリュームを抑えて言う。
「あのー…勇者ですけど、魔王はいませんか…? 倒しに来たんですけど」
まるで宅配便のような口調になってしまった勇者の言葉につられてか、部屋の奥にあるドアから誰か出てくる。
眠たげにあくびをしながら出てきたのは、真っ黒の腰まである髪をした女性だった。ぱっちりとした大きな釣り目でその奥には紅の瞳。鼻は高く桜色の柔らかそうな唇、耳は魔族特有の先の尖った長い耳。
豊満な胸に綺麗なくびれとプリッとしたヒップ。服装は全体的に黒いビキニのようなものを着ていて、下はその上から革ベルトのようなものを器用に何重にも巻いている。そしてすらっと伸びた綺麗な足にはホルダーがついており、右にナイフの柄らしきものが見える。そして左は何かよくわからないオレンジ色の棒が入っている
「ふあ~あ、お客さん? もしかして魔王に用事があるの?」
全くを持って緊張感のない魔族の女性の言葉に、気合い十分で入ってきた勇者の気合いが抜けてしまう。
「キューちゃーん! 紙がないんだけど持ってきてくれる?」
するとドアの向こう側からさらに緊張感の抜けてしまう声が聞こえてきた。
キューちゃんと呼ばれた魔族の女性はドアの向こうに消えて行った。
十分程してキューちゃんと呼ばれた女性と高身長の同じく魔族の男性がいた。その男性の肩まであるシルバーの髪の間からは、左右に一本づつ漆黒の鋭い角が生えている。
魔族の中でも角が生えているのは魔界を統治する魔王の一族だけ。つまり今勇者の目の前には魔王がいるのだ。
鋭く切れ長な目からは翡翠の瞳が覗いていて、先のとがった耳と高い鼻。そして黒くてひらひらとしたマントを羽織った長身の魔族の男性。
「えっと…どちら?」
さっき紙が無いと叫んでいた声と同じ声で魔王は先ほどの女性に話しかける。
魔族の女性は魔王にひそひそと耳打ちをする。魔王は話を聞き終わると「えぇ!?」と声を上げて驚くと、わざとらしく「ゴホン」と咳をした。
「よく来たな勇者よ、我は魔王ハーデス。ここまで来れたということはその力はだてではあるまい、ならばその力を我に示してみよ! 」
お決まりとも言えるセリフを放った魔王は、正に悪に手足をつけたような姿だ。
一度は抜けてしまった勇者の気合いが再び入り、緊張が空間に張りつめる。
「う…ウォォォォォォォォォォ!!!」
剣を構えて勇者は魔王に向かっていく。
「フ…フハハハハハハ!」
勇者の咆哮に答えるように不気味に笑う魔王。
ブォンと風を切る音がして勇者の剣が振り下ろされる。魔王は紙一重でそれを避ける。
「う…うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
頭から二本の角が生えた魔族は情けない声をあげ、情けない顔をして目元には涙を浮かべている。
勇者が一度入れなおした気合いも一瞬にして抜けてしまい、振り上げようとした剣を振り上げられずにあっけらかんとした表情になってしまった。
魔王ハーデスは一瞬目を泳がせる。
「あ、あのさ、俺武器持ってないじゃん? お前剣もってるじゃん? それってフェアじゃないじゃん。だからさお互い素手でいこうよ」
勇者は何もいう事はできずに、持っていた剣を地面に置く。
「じゃあいいですか?」「あ、はい」という緊張感の全くないやり取りが魔王と勇者の間で行われる。
魔族の女性の「ファイト!」という合図で二人の闘いは始まった。が、決着は一瞬で着いた。勇者の先制攻撃である右ストレートが魔王の頬にヒットし、魔王は大きく後方に吹っ飛んだ。
「魔王が今のでやられるわけないよな、次は本気で行くぞ」と勇者がかっこつけたけど、魔王は今の一撃でやられてしまったのだ。鼻血をたらし目を回してしまっている魔王は、起きる気配すらない。
「おめでとうございまーす、貴方様は見事魔王ハーデスを倒したのでその証拠としてこのバッジを差し上げまーす」
魔族の女性は慣れた口調でそう言って勇者に手のひらサイズのバッジを手渡す。丸い形から一つの尖った突起物が生えていて、真ん中には魔王ハーデスの象徴であるケルベロスのマークが彫ってある。
ポカンとしながら状況を理解することが出来ない勇者は言われるがままにバッジを受け取り、そして言われるがままに来た道を歩いて戻っていく。
「起きて下さい、ハーデス様」
キューちゃんと呼ばれていた魔族の女性が目を回している魔王の体をゆすって声をかける。
それでも起きる気配のない魔王ハーデスに、キューちゃんは痺れを切らしたのか、助走をつけてから魔王のみぞおち目がけてエルボードロップをくりだした。
ハーデスは一瞬目を開けてから声にならない声をあげて手足をジタバタさせ、泡を吹いて白目をむいてしまった。どうやらキューちゃんの攻撃がトドメになってしまったようだ。
そしてそのままハーデスは目を覚ますことはなく………なんてことはなくて、二時間程で目を覚ました。
「……ここはどこ!? 私は誰!?」
そんなお決まりのセリフを放って起き上がったハーデスの傍では、キューちゃんが深いため息をつく。
「ここは魔王城、貴方は魔界を治める魔王三人衆の一人のハーデス様」
キューちゃんに手を引っ張ってもらい起き上がるハーデスはいまだに少しよろけている。
キョロキョロとあたりを見回すハーデスの考えを読んだのか、「勇者はもう帰りましたよ」とキューちゃんは呆れたように言った。
これで何人目だろうか、彼を倒して帰っていった勇者は…と考えるキューちゃんはもう一度深く溜息をついた。
この魔王ハーデスは魔王なのに弱い。そしてビビりでヘタレでチキンなのだ。趣味はマラソンで特技は特にナシ。魔術も使える事には使えるが特別強いわけではなく並の魔族と大差はない。むしろ並の魔族よりも弱かったりする。それに体だって強くない。故にマラソンをして鍛えているのだが、一向に成果が表れない。だから勇者の本気じゃないパンチで気絶してしまう。そんな魔王に驚いてしまい、勇者たちは毎回言われるがままに帰ってしまう。因みに毎回来るのは自称勇者の者だ。
自称なんてのは正式に勇者と名乗れない力不足の者達ばかり、そんな彼らにもワンパンで倒されてしまう弱い弱い魔王様が主人公です。