必ずもらえる
1
北澤秀平は一日の終わりに、このファミレスにくるのが日課だった。
練馬の駅から少し離れた幹線道路沿いにたつこの店は、深夜帯も若者の溜まり場になることはなく、静かに過ごすことができた。
もう二年になるだろうか。
ここで働く店員のほとんどよりも、北澤の方が長くここを知っている。
人がまばらな店内で、北澤はいつものように道路際の角の四人席に陣取る。
スポーツバッグを向かいのイスに置き、ビジネスバッグからノートパソコンとタバコを取り出しテーブルに拡げた。
いかにも昼間の残りの仕事を片付けるサラリーマンだ。
でも実際には、当てのないネットサーフィンを繰り返しているだけなのだが。
北澤がこのファミレスにくるようになったのは、クレーム対応を主とするサービス室に配属になってからだ。
クレームといっても、会社側に責任がある案件は極まれで、殆どは客の言い掛かりだ。しかも電話のみの対応で、実際に会うことになった場合は窓口はまた異なる。だから同じようなクレーム対応のなかでも、比較的楽な部類なのだろうが、それでも一言一言に全神経を使う。入電時はこちらの方が上でも、うっかり変な事を言ってしまえば、立場は逆転する。
それでも仕事は楽しかった。客を言葉でうまくやり込めた時の達成感は大きく、やりがいもあった。
けれど困ったのは、仕事が終わった後は興奮状態にあり、クールダウンをしないと眠れないことだった。
耳に目に口に全神経を注ぐので、充実感があっても、神経が高ぶったままになってしまうのだ。同僚は毎日のように飲みに繰り出していたが、酒の飲めない北澤にとっては苦痛の時間でしかなかった。
そうしていつしか仕事が終わるとジムに直行し、シャワーを浴びたあと、このファミレスで遅い夕食をとるようになったのだった。
2
「ブルーライトメガネって知ってる?」
注文したオムライスとサラダをテーブルに並べながら、店員が馴れ馴れしく北澤に話しかけてくる。不自然な黒色に染めた髪に、赤毛がのぞいている。
週末ライブハウスでベースをひくバンドマンであるこの店員は、平日深夜だけこのファミレスで働いていた。
尖った顎に、線のように細く整えられた眉毛。対象的に女性のようなふっくらした唇。北澤がもしこんな顔で生まれてきたら、間違いなく彼と同じく、バンドマンを目指したかも知れない。そんな顔だ。
「知ってるよ。会社の子に一度借りたことがあるからね」
イヤフォンを片耳だけ外し、パソコンの画面を見たまま、そう答える。
「使わないの? 」
「なんかね、違和感あってね。そもそもメガネが苦手でコンタクトにしてるくらいだから、面倒なんだよね」
店内は、その日も人はまばらだった。
「そっか使えばいいのに」
面白くなさそうに赤髪をスプレーで隠しきれていない店員『エージ』は、そう呟いてレジに戻っていった。
ーーそれにしても定職に就かず自由気ままに生きている29歳と、毎日スーツで仕事してきた29歳とでは、こうも違うものだろうか。
まだ火をつけたばかりのタバコを、早いスピードで吸いながら北澤はおもう。
『エージ』こと清水栄二郎は高校の頃からずっとそうだった。
ふと気まぐれに何か思い出したように聞いてくる。
馴れ馴れしいその態度にイラっとくることもあったが、時折見せるはにかんだような笑顔がどこか憎めなかった。
仕事が軌道に乗り始めた頃に、初めての一人暮らしに練馬駅の近くのマンションを借りた。そしてほどなくして、このファミレスをみつけてからすぐに『エージ』と再会した。
売れないバンドをしているとは他の同級生から聞いていたが、見た瞬間にすぐ『エージ』とわかった。
『エージ』は北澤をみとめると、はにかんだ笑顔を向けてきたが、客と店員の手前すぐに話しかけてはこなかった。
そして人が少なくなった時間を見計らって、「北澤だよね? 久しぶりだね」と声をかけてきたのだ。
『エージ』は学校でも目立つ存在だったから、名前を覚えていてくれたことは、北澤にとっては嬉しかった。
彼女と別れたばかりで、仕事とジムと自宅の往復だった北澤は、どこかで人との繋がりを求めていたのかもしれない。
こんなにもファミレスによって帰るようになったのは『エージ』がいたからかもしれない。
「ねえ、知ってる?」
オムライスを食べ終えたのを見計らって、また『エージ』が話しかけてくる。
「何?」
店内は更に人が減っていた。
片耳にイヤフォンをしたまま、今度はパソコンから目を離して北澤は『エージ』を見上げる。
そうすると彼は人懐こい笑顔を嬉しそうに浮かべた。
「あれ、何だと思う? 」
彼が指したのは、ファミレスから見える古びた民家の前に立てかけられた看板だった。
<必ずもらえる>
そこにはそう書いてある。
「何だろうね」
素っ気なくそう答える。
どうせ、もらえるとしてもティッシュペーパーかボールペンぐらいのレベルのものだろう。もしくは、その必ずもらえる何かと引き換えに何か高価なものを契約されるかもしれない。それか宗教勧誘か。
けれど興味がそそられなくもない。
普通の一軒家に立てかけられた不思議な看板。
どういう意図があるのかはわからないが、あんなものを置いていたら、興味本位の子供や浮浪者が立ち寄るだろう。
「俺、今月金無いんだ」
『エージ』が気だるげに言う。
「やめとけよ」
どこまで本気なのかはわからないが、普通の神経なら絶対に近づかないであろうに、でも彼なら行ってしまうのではないかと不安になる。
「海行きたいんだよね」
尚も続ける『エージ』に、北澤は呆れる。
「怪しい宗教とかだよ。逆に高価なものを買わされるかもしれないぞ」
冗談かもしれないが、本当にいってしまいそうで、北澤は強めの口調で注意する。
「でも俺、取られるような金なんて最初からないし」
「違うよ。手持ちの金なんかなくても、高金利のローン組まされるとかさ」
「大丈夫。変だと思ったら逃げればいいし」
あっけらかんとした口調に、本気で心配になる。
これだと今日にでも行ってしまいそうだ。
「どうすんだよ、それでボールペン1本とかだったらさ」
「それならそれでいいじゃん。危ないか?」
彼は仕事を忘れて今にも、目の前の席に座りそうな勢いだった。
ーーこいつもいきなりあの民家に行かず相談をしているぐらいなだから、不安もあるのだろう。
いつも自由奔放な『エージ』に頼られるのは、北澤も嫌な気分はしない。
「わかった、ネットで調べてやるよ」
そう伝えると「さすが! その手があるか」そう『エージ』は言って、人懐こい笑顔で笑う。
そしてポケットから紙の切れ端を取り出して、北澤に手渡した。
北澤がそれを受け取りテーブルの上に拡げてみると、そこには可愛らしい丸文字でアルファベットと数字の羅列があった。
「これ、この間行ってた、ファンの子のラインのID。僕、今週末はライブないから、彼女暇してると思うよ」
「なんだよ。もっと早く、渡してくれよ」
北澤はぶっきらぼうに言ったが、その顔はにやけていた。
「『エージ』の紹介と言えば、わかるんで」
そう言って、オムライスをさげていった。
北澤は自分に女の子を紹介してくれた『エージ』のためと、自分の興味本位で調べ始める。
手始めにファミレスの住所を調べ、グーグルマップで民家を見る。
看板まではボヤけて見えないが、確かにこの民家だ。
特に事業登録などもされていない。
次にその民家の住所と、必ずもえらえるの看板ということから情報を探そうとしたが見つからない。
そしてそういう看板を出した宗教勧誘なども探ったが、やはり該当はなかった。
3
気付くと深夜1時を回っていた。
さすがに明日の仕事に差し障る。
ドリンクバーのもとなど全く取れていなかったが、北澤はパソコンをしまい帰ることにした。
「1560円になります」
深夜料金の加算されたこの時間、独り身の夕食にはそこそこの値段だが、ストレスの発散に毎夜飲み歩いてる人に比べればずっとマシだ。
「それで、どうだった?」
レジ近くのドリンクバーで、他の店員が片付けをしている手前『エージ』が遠慮がちに聞いてくる。
「ああ、何も出なかったよ、情報。あの看板や民家のこと、ネットのどこにもなかったんだ」
「そっか……」
『エージ』の顔が曇ったので、北澤は「諦めろよな」と笑いながら言って慰める。
それでも懲りずに「でも悪い評判もないってことだ……」と呟くものだから、呆れた顔をするしかなかった。
ーーもし良かったら少し金貸すよ。
思わず喉まで出かかった言葉を、北澤はすんでのところで飲み込んだ。
以前同じように金に困っている『エージ』に、軽い気持ちで金を渡そうとしたことが一度ある。
その時に真顔で北澤の手を振り払った彼が忘れられない。
それもそうだ。
高校の同級生に、上から金を貸すと言われて、良い気分などするものではない。
ーーもし、逆の立場だったら、殴っていたかもしれない。
そう北澤は反省したのだった。
帰り際、何気無い仕草で看板を見る。
そこには<深夜2時から。先着1名>と小さく書かれていた。
ーーバカバカしい。こんな怪しいものに引き寄せられるやつがいるだろうか。
遠くで落雷が聞こえる。もうすぐ雨が降りそうな気配がした。いや、地面が少し濡れているから、気づかないうちにスコールが通り過ぎたのかも知れない。
週末、北澤は久々に良い思いをした。
連絡先を受け取った北澤は早速連絡をし、土曜日は一日中ラインでやり取りをし、日曜2人きりで会う約束を取り付けた。
『エージ』が紹介した彼のファンの『ルミ』は、26歳で美人とは言えないが、少し肉のついた体型を露出した女の子らしい服が似合う女性だった。
26歳で売れないバンドの追っかけをしてるぐらいだから、世間慣れしてなく、フワフワした掴み所のない不思議な子だった。
バンドにカンパしてるらしく、少しオシャレな個室の居酒屋に連れて行くだけで彼女は喜んだ。
2軒梯子した後、カラオケで密着する。
イケると思ったが北澤はあえてキスまでにとどめ終電前に返した。
失敗覚悟でその場で強引に迫るより、一週開けた方がお持ち帰りの成功確率が上がるのは、これまでの恋愛経験でよくわかっていた。
けれど確信は3日目で終わった。
月曜は珍しく早く自宅に帰り、何度もラインでやり取りをした。
けれど火曜日に送ったラインがいつまでたっても既読にならなかったのだ。
水曜の夜、久々に立ち寄ったファミレスで『エージ』に恋愛指南でも受けようと北澤は考えた。
しかしその日の夜も次の日の夜も彼はいなかった。
4
「ねえ、清水くんはどうしたの? 」
金曜の夜、女性との今週末のデートを諦めた北澤は『エージ』と同じようなシフトで働く大学生らしき店員に話しかける。
「ああ、お兄さんと仲良かった『エージ』ですか?」
「そう、『エージ』」
「なんか、月曜から来てないんですよ。本業がうまくいってるんですかね?」
「連絡ないんだ? 」
「さあ。まあ、暇だし、僕だけで回せるからいいんですけど」
北澤に嫌な気分が巻き起こる。
『エージ』は、週末はライブハウスで過ごすから、シフトは月〜金が基本なはずだ。
それなら連絡が取れないのは、北澤が最後にあった金曜の深夜からでないのか。
「僕もお兄さんに聞こうと思ったんです。でもお客さんに自分からいうのは、ちょっと気が引けたんで……。何か知ってますか?」
「いや……」
<必ずもらえる>の看板の事を言おうと思って、止めた。
同い年なのに、若く擦れていない彼の人懐こい笑顔が頭をよぎった。
そういえば、『エージ』の連絡先をしらない。
ここにくれば必ず会えたからだ。
「彼って、いつも朝方まで働いているのかな?」
「違いますよ。26時、深夜2時までで、後は僕1人です」
「そっか、ありがとうね」
北澤の嫌な思いは現実になりそうだった。
いつもより遅い深夜2時、北澤はファミレスをでる。
夏の深夜2時は明るかった。
心地よい空気が北澤を纏う。
北澤は、あの<必ずもらえる>の看板の民家をのぞいてみるつもりだった。
週末に、予定があればこんな危険なことはしなかったが、生憎北澤に週末の予定はなかった。いつものように、ジムに行くか、同僚に誘われているゴルフに参加するかだ。
ーーチクショウこんなことなら、あの女性を無理にでも自宅に連れて帰れば良かった。
いつの間にか噛み締めた唇に気づきながら北澤は思う。
民家の入口は閉まっていた。
呼び鈴は壊れているようで、音がしない。
深夜2時からとうたっているのに、入口は閉められ、呼び鈴はならない。
北澤は、チッと舌打ちし、庭に回る。
今日は大きなクレームを受けたことを思い出す。
けして怒鳴り立てるわけではなく、チクチクと刺さるような言葉を並べながら人の揚げ足を取り、いつまでも電話を切らない嫌な客だった。
しまいには、上司に代われ、というのだ。上司に代われ、という言葉は北澤にとって屈辱的な言葉だった。
自分の所で収めたいという気持ちが巻き起こり、北澤は上から相手を押さえつけるような応対にあえてでた。
失敗すれば大事になるが、うまく行けば相手は怯んで電話を切る。
そしてそれは今回うまくいった。
もういいよ、お前と話していても埒が明かない、客ははそう捨て台詞を残して電話を切った。
北澤の勝ちだった。でも達成感と同時に、虚脱感が全身を揺すったのも事実だ。
こちらは全く悪くない、客の言いがかりだ。そう思っても、自分がとてつもなく嫌な人間に感じた。
庭に面した所には、大きな窓が風を取り込むために少しだけ開けられ、カーテンから漏れた光が足元を照らす。
耳をすますと、低い人の唸り声のようなものが聞こえる気がした。
そしてカーテンの隙間から、赤い髪が見えた気がした。
北澤は、手に重いノートパソコンと、ヘッドフォンのコードを手に巻きつけると、そっと中を覗いた。
「君は」
そこにいたのは、北澤の知る女性だった。
5
「毎晩のように来てました」
押し寄せた報道陣に、赤い髪を不自然な黒のスプレーで隠したのがわかる年齢不詳の店員が答える。
「ああ、いつも暇そうにノートパソコンで、動画を見てましたよ」
彼に多くのフラッシュがたかれ、全面には各局のテレビカメラ、頭の上にまでマイクが向けられた。
「女の子紹介しろってウルサイから、ファンの子紹介してしまったんです。高校の同級生だから、よく知ってたし。その後は僕が体調悪くて店を一週間ほど休んでいたから、何も知らなくて……」
細く整えられた眉毛を神妙に歪ませ、答える。
「まさか、こんな事するなんて。こんな事になるなんて。せめて、彼女の住んでる場所だけでも、内緒にしておくべきでした」
その夜、各局のニュースである事件の話題が持ちきりになった。
大手企業で働く29歳の北澤秀平という男が、交際を断られた女性の自宅に侵入し、抵抗した女性に頭を殴られ死亡したのだ。
毎夜夕食を食べていたファミレスで働く高校時代の同級生でインディーズバンドのベーシストである店員に、彼のファンの26歳の女性を紹介してもらった。
デートをしたが、交際に発展しなかった事で、北澤は女性の家に忍び込んだ。つきまとわれていた北澤が突如自宅に侵入し、驚いた女性は北澤の頭部を、灰皿で殴った。
すぐに警察と遅れて救急車がついたが、犯人の北澤は搬送途中に死亡した。
押収した北澤秀平のノートパソコンからは、ある不思議な言葉を調べる履歴が見つけられた。
閲覧履歴のほとんどは、アダルトサイトや『ルミ』とのデートに使った店の下調べばかりだった。
けれど丁度、北澤が『ルミ』の自宅に侵入する一週間前。『エージ』に『ルミ』を紹介された当日の夜に、北澤はファミレスである言葉を執拗に調べていた。
<必ずもらえる>
しかし、それが何のことかわからなかった。
北澤秀平は大手企業で29歳にしては充分過ぎるほど稼いでいたし、ギャンブルにはまって借金をしているということもなかった。
念のためサーバー会社に過去のログを問い合わせたが、似たような言葉を調べている形跡もなかった。
『ルミ』はずっと錯乱状態だった。
数年前に病気で両親を亡くし、一軒家に1人で住んでいたが、自宅隣のファミレスで出会ったバンドマンの『エージ』にはまり、ライブハウスに通い詰めていた。
北澤と二人きりで会うつもりはなかったが、大ファンの『エージ』からの紹介で仕方なく会ったという。
彼女は最初のデートの夜に、北澤に強引に迫られ怖くて逃げて連絡を絶ったと、泣きながら話しているという。
モザイクなしで放送された『エージ』の顔は、全国に流れ、彼の所属するバンドの公式ホームページやライブハウスのページにアクセスが殺到した。
テレビでもネットでも、『エージ』に関して擁護も批判も聞かれたが、売れない『エージ』のバンドが一夜にして有名になったのは間違いなかった。
<必ずもらえる>
マジックテープでそう書かれた、その看板は確かに存在していた。
けれど、今はファミレスの裏に流れる川の底に沈んでいる。
それを知っているのは『エージ』だけだ。