(1)ラブコメの日々
発信者を見ると、恭二だった。
用事なら大抵メールで寄越す奴なのに、どういう風の吹き回しだろう。私はすぐに携帯を耳に当てて、恭二の特徴的なボソボソ声が聞こえてくるのを待った。
「あ、もしもし、美咲?」
……やっぱり、今日も冴えない。しかし話を聞くと、どうやらそんな感想をしみじみ抱いている時間はないようだ。
私は要領の悪い恭二の説明を辛抱強く聞きながら、ハンマースペースから引っ張り出したメモ帳にどうにか道順を書き込んで、息つく間もなく中古車に飛び乗った。ついでにCDとキャンディーの袋もハンマースペースから探し当てて、助手席にまとめて乗せる。運転はいつまで経っても上手くならないけれど、力加減はずいぶん分かるようになってきた。アクセルを踏み込み、道順を再確認する。
一体あいつ、何をやらかしたっていうんだろう。
警察に呼ばれて、事情聴取されたなんて。
「ハンマースペース」……ここ最近で急激に広まった新製品で、またの名前は「四次元ポケット」。正式名称は、「超小型異相空間発生装置」というらしい。その機能はおそらく、四次元ポケットをイメージすれば一番分かりやすいと思う。日用品程度ならほとんど無尽蔵に入る上に全く重くならない鞄、という事で、持ち物の多い学生や会社員を中心に大好評を得た。
形はさすがにポケット型では格好悪いという事なのか、小さな鞄やポーチのようなタイプがほとんどだ。デザインも色々あるが、何でも入るように口がかなり大きくなっている。私が使っているのはカジュアルブランドから出ているウェストバッグ型の物で、教科書からノートパソコンからアルバイト先の制服まで、日常的に持ち運ぶものは全部入っている。あまりにも便利なので、気付いたら今は常に身に着けているように思う。
確か初めて携帯電話を買ったときにもこんな感じで、いつも手元に置いていないと不安になる時期もあった。そんな位置付けのアイテムが、今はハンマースペースに変わって、携帯も大抵はこの万能鞄の中だ。慣れというのは恐ろしいほど素晴らしく、最近は携帯がハンマースペースの中で鳴っているのにも気付くほどになっている。ただし値段は、携帯並みというわけにはいかない……といってもこれも値下げ傾向にあり、私もカーナビを諦めれば高機能品が買えた。
ちなみに「ハンマースペース」という言葉は元々、漫画やアニメを皮肉ったジョーク用語らしい。馬鹿みたいなラブコメディなんかで、ヒロインが自分の気分を害した男を天高く吹っ飛ばすなり地面にめり込ませるなりするために使う、あの特大ハンマーを入れておく空間、の事だそうだ。
警察署の前に、恭二は相変わらずしまりの無い姿勢で立っていた。駐車スペースからはみ出ないようにゆっくりバックする私の車をじっと眺めていたが、私が出てくるのを見て初めて表情を緩める。未だに、私の車を見分ける自信がないらしい。
「……ごめん、急に迎え頼んだりして」
「それは別にいいんだけど。 で、一体何やったの?」
恭二から大切なことを聞き出すときには、前振りなしでストレートに言うのが一番いい。玄関脇の柱に片手をついた私を見ながら、恭二は事情聴取なんて大して深刻な事態ではないかのように苦笑した。
「いや、僕のハンマースペースがちょっと容量オーバーしちゃったみたいで。あれ、空間膨らませすぎるとよくないらしいし、警察も悪用防止でぴりぴりしてて」
「ハンマースペースが……容量オーバー?」
「まぁでもそれだけだったから、中身確かめて整理させられて、それで終わりだったよ」
「そうじゃなくて!」
私はふさがらなくなりそうな口をなんとか動かして、何か前提が間違っている恭二の理屈をストップさせた。
「一体どうやれば、あんな半分無限に近いスペースを溢れさせられるの!」
「……え?」
私が大声を出しても、恭二のテンションは常に一定だ。戸惑ったように首を傾げるので、私は息をついて、言い方を変えてみる。
「その……あんた、ハンマースペースに何入れてたの?」
一瞬の逡巡があったが、それでも恭二の返答はかなり素早かった。
「…………世界?」
恭二は迷わず後部座席に乗った。
なんとなく言葉が思いつかなくて、沈黙が漂う。しばらくして車がスムーズに走り始めてから、恭二は唐突にこう切り出した。
「あのさ、僕が最後に小説書いたのって、いつだった?」
「え?」
そういえば、最近は全然読ませてもらっていないし、書いたという話も聞いていない。
そんな調子だから忘れがちになっていたが、恭二は物語を書くのがそこそこ上手い。私と仲良くなるきっかけもその辺に由来している……高校時代、器楽部の部室から溢れて廊下で練習していた私の前を、隣の文芸部に通っていた恭二が毎日通っていたのである。世間話をしているうちに好きな作家から意気投合して、仲良くなった。その頃はしょっちゅう恭二の小説を読ませてもらっていたように思う。
同じ大学に入ってから、一緒に行動することは更に多くなったが、気付けば小説からは二人ともどんどん遠ざかっていた。
「最後に書いたのが、合格発表の後の春休みで」
私が考えている間に、恭二は話を進めた。
「それっきり、まるで書けなくなったんだ……大学入って、一人暮らし始めてから」
「それって、環境が変わったからとか?」
「多分」
言って、恭二は後部座席に横になった。
「例えばさ……授業が終わって、帰ってくるじゃん」
「うん」
「部屋に入ると、すぐに台所があって、左は風呂場で」
恭二は今アパート暮らしだ。
「で……、分かるんだよ」
「何が?」
「流し台の下に何があって、洗濯機の上に何が置いてて、冷蔵庫の中身はどうか、……大体」
そりゃそうだ。引っ越してからそんなに経っていないし、それに恭二はそこそこ整頓も上手い。
「散らかってても、その辺にあるのは僕が買ったものだけだし。……」
「……で、書けなくなった」
「うん」
なんとなく、分からなくはない。
高校時代の恭二はむしろびっくりするくらいの多作家で、私は羨ましがってよく話の作り方を聞いたりしていたのだが……その、よく分からない説明によれば、物語は例えば「家族の話し声を聞きつつ部屋で昼寝をしていたら、箪笥の引き出しから弟が出て来たとき」に思いつくのだそうだ。別に恭二は児童向けファンタジーなんか書いていたわけじゃないし、だいいち恭二は末っ子なのだけれど、ともかくそういう事らしい。
もちろん今の恭二は一人暮らしだし、部屋にそんな重い家具は一つもない。
「町も妙に綺麗だし、道は広いし、家も大きいし、木もまっすぐだし虫はやたら元気だし……平らすぎる」
「まあ、同感かな」
私と恭二の故郷は、もっと暖かくて、もっと田舎の、もっと古めかしい町だった。イメージとしてはこことは正反対。ごみごみしていて、城下町らしく入り組んでいて、神社の林はうねうね歪んだ松の木ばかり。湿気も多くて、生き物は暑さに悲鳴を上げているようで、おまけに海のそばで、道の八割は坂道だった。よく目立つのは四階建ての小学校だけで、あとはどこも古い二階建ての住宅が続いていた。
「なんていうか、……ぐちゃぐちゃで、底が見えなくて、いつ何が起こってもおかしくないような世界観じゃないと、……書けない、みたいなんだ」
確かに、市街地は都会で一歩出ると田んぼだけ、というこの町で、それを期待するのは難しいかもしれない。広いし、綺麗で、分かりやすくて。
そして恭二は児童向けファンタジーなんか書かないが、シュールで不条理な出来事が起こる話はよく作っていた。電線の筋から空がひび割れる話とか、雑草を抜いたら地面が全部めくれ上がってしまった話とか、水溜りが底なし沼になる話とか。中でも私が一番好きだったのは……いや、今はそんな事どうでもいい。
確かに、ハンマースペースというのは見事にぐちゃぐちゃした空間だ。欲しいものはすぐ取り出せるけれど、底は全く見えない。取り出さなければ、入れたものは得体の知れない異次元に漂うばかり、というわけだ。そこなら、何が起こってもおかしくない……少なくとも、おかしくないような気にさせられる。おまけに、あれに実は容量制限がある、なんていうことは、一般にほとんど認識されていないわけで。
そんな事を恭二に言うと、起き上がった恭二が軽く頷くのがバックミラーに映った。
「手当たり次第に放り込んだら、意外とすぐ複雑になってくれたんだけどね……実家帰ったときに私物全部入れてきたり、それから……蟻とか忍び込ませたり、色々やった」
「で? なんか書けそう?」
「……いや、まだ……」
「だろうね」
書けていれば、容量オーバーになんかならないはずだ。
「で……その話、警察にしたの?」
「うん」
「呆れられたでしょ」
「まあね。こっちが申し訳なかった」
恭二は今日初めて、楽しそうに笑い声を上げた。私もやっとほっとして、一緒に笑う。
「でも一応、僕の方は一生懸命だったんだよ? 書けないくせに、すごく書きたかったから」
「うんうん」
「美咲にもまた読んでもらいたかったし、ね」
突然の先制攻撃。
耳の周りが急激に熱くなってきて、私は慌ててキャンディーを口に入れた。
私のハンマースペースには、これより役立つものは入っていない。
実はまだ続くかどうか分かりませんが、大学で発表したときに「続編が見たい」とのお声を頂いたので、ちょっと頑張ってみます。
美咲ちゃんは大好きなので、まだ使いたいな……