婚約破棄のその日、私はすでに次の一手を打っていた
婚約破棄を告げるルイ殿下の声は、よく通った。
「クレール・ド・ヴァロワとの婚約を、本日をもって破棄する」
その言葉を聞いても、私はすぐには意味を実感できなかった。
言葉の意味そのものは分かる。予測していなかったわけでもない。けれど、それが現実として自分に向けられたものだと認識するまでには、ほんのわずかな遅れがあった。
広間にざわめきが広がる。その音を聞いて、ようやく現実が追いついてくる。
私はルイ殿下を見た。
淡い金の髪は、夜会の灯りの下でも明るすぎず、静かな艶を返している。華やかな人ではあるが、騒がしい人ではない。むしろ今日は、いつも以上に落ち着いて見えた。だからこそ、これは衝動でも気まぐれでもなく、よく考えた末の決断なのだと分かる。
殿下の隣には、デルフィーヌ嬢が立っていた。濃い色の髪を丁寧に結い上げ、隙のない笑みを浮かべている。新興とはいえ、今や王都の財を動かす家の令嬢だ。装いは上品で、佇まいも整っている。王太子の隣に立つ者として、過不足のない姿だった。
「……何か、弁明はあるか」
そう問われ、私はわずかに首を傾げた。
責め立てるような口調ではない。むしろ確認に近い。自分の決断に区切りをつけるための問いかけのように聞こえた。
「ございません」
私が答えると、広間のざわめきが一段強くなる。泣くでもなく、取り乱すでもなく、反論もしない。そういう反応は、たぶん期待されていなかったのだろう。
けれど、私には何も言うことがなかった。
ルイ殿下は、わずかに目を細めた。失望ではない。困惑とも違う。おそらく、拍子抜けに近い感情だった。
「……あまり、驚いていないようだな」
「驚いてはおります」
それは本当だった。
ただ、まったく予想していなかったわけではない、というだけのこと。
ここしばらく、王城の空気は変わっていた。新興貴族との結びつきを求める声。王家の財政への不安――ここ数年の税収の落ち込みを埋めるための。古い家柄よりも、目に見える力を重んじるささやき。
その流れの中で、デルフィーヌ嬢の家が持つ意味は大きい。王太子であるルイ殿下が、その力を選択肢に入れること自体は不自然ではなかった。
むしろ、私との婚約を終わらせる場として、こうして公の場を選んだことのほうが、殿下らしいと思えた。
曖昧なまま誰かを傷つけることを、きっとこの人は選べない。最後まで、自分の決断に責任を持とうとしている。だから私は、怒りより先に、ほんの少しだけ可笑しくなった。この人は結局、最後まで真面目なのだ。
「クレール」
名を呼ばれ、私は顔を上げた。公の場で呼ばれるときの声音だった。柔らかさを削いだ、王族としての響き。
「君の家の格も、君自身の才も、私が理解していないとでも思うのか」
その一言で、広間の温度がわずかに変わる。
侮辱ではないと、自ら証明するための言葉。私を否定して婚約を破棄するのではなく、価値を認めた上で、それでも別の道を選ぶのだと。
「それは光栄です、殿下」
そう返すと、ルイ殿下は一瞬だけ黙った。おそらく、もう少し乱れた返答を予想していたのだろう。
けれど私は乱れない。
少なくとも、ここでは。
◇◇◇
広間の中心に立ちながら、私の内側は、自分でも不思議なほど静かだった。
誰かに見せるために平静を装っているわけではない。たとえば冬の朝、窓の外に広がる白い光のような。どこまでも澄んでいて、ひどく遠い――そういう静けさだった。
ルイ殿下は、何かを待っているようだった。私の反論か、嘆きか。あるいは、自分の選択を少しでも軽くしてくれる言葉か。
デルフィーヌ嬢は口を挟まない。少なくとも、この場で自分が前に出るべきではないと理解しているらしい。彼女は王太子の新しい婚約者としてそこに立っているのであって、恋に酔った女として場を荒らしに来たわけではない。少なくとも、そう見せるだけの知性はある。
ルイ殿下が彼女を選んだ理由は、よく分かる。彼女の背後には新しい富と勢いがあり、これからの王都を動かす力がある。対してヴァロワ家が持つのは、長い歴史と、王家に仕えてきた信用、そして目に見えにくい格だ。
「父君も、お怒りになるだろう」
ルイ殿下は、ひどく穏やかにそう言った。気遣いのようにも聞こえるし、先回りにも聞こえる。
「おそらく」
「だが、これは国のためだ」
国のため。実に便利で、実に重い言葉だった。
私は、わずかに微笑む。
「そうお考えなのですね」
その返しに、ルイ殿下の眉がわずかに寄った。自分の決断を、どこか他人事のように扱われたと感じたのかもしれない。
「……まるで、私が間違った理由で選んだと言いたげだな」
「いえ。殿下がそうお決めになったのでしたら、それが答えなのでしょう」
私は静かに裾を整え、わずかに膝を折って頭を下げた。王太子として下された判断に、臣下である私が返すべき礼だった。
顔を上げる。
そのとき、ふとルイ殿下と目が合った。
昔、庭園で何度も交わした視線と同じ色の瞳だった。
あの頃の殿下は、まだ今より若く、真っ直ぐで、王子としての立場よりも、一人の人間として私を見る時間が多かった。
その記憶を、私は美しいと思う。
嘘ではなく。
「クレール」
もう一度、名を呼ばれる。今度は先ほどよりも少し低く、個人的な響きが混じっていた。
「……君は、本当にそれでいいのか」
私は思わず瞬きをした。
こんな場で、何を今さらと思う。けれど、そう思った瞬間、自分の内側に、ごく小さな痛みが走ったのも事実だった。
この人は、自分で手放しておきながら、最後の最後で私の意志を知りたがる。
――それは、私にとっては残酷だった。
「よろしいも何も」
言いかけて、そこでやめる。代わりに、静かに言葉を整えた。
「殿下がお決めになったことですもの」
ルイ殿下は、それ以上何も返さなかった。ただ、目の奥がわずかに揺れる。後悔ほど露骨ではなく、諦めほど静かでもない。名前をつけるには半端な揺れだった。
そのとき、広間の入口付近で空気が変わった。ざわめきが波のように割れ、道をあけるように人が退く。
……予定よりも、少しだけ早い。
◇◇◇
姿を見せたのは、私の父アルマン――ヴァロワ公爵である。
普段は一歩引いた場所にいる。けれど、本当に必要な時だけ、誰よりも早く前に出てくれる。私にとっては爵位を背負う父というより、幼い頃から変わらず、静かに私を見守ってくれる人だった。
銀をわずかに含んだ暗い髪。年齢を重ねても崩れない端正な顔立ち。
怒りを露わにする人ではない。だからこそ、ただ一歩踏み入れただけで、広間の空気が張り詰める。
父は私の隣まで来ると、一礼して、ルイ殿下へ向き直った。
「殿下」
声は低く、よく通った。大きくはないのに、誰一人聞き逃さない。
「このたびのご決断、承りました」
あまりにも静かな言い方に、何人かがかえって身を強ばらせたのが分かる。ルイ殿下もまた、背筋を伸ばした。
「ヴァロワ公爵。説明は──」
「不要にございます」
父は穏やかに遮った。
その一言だけで、場の主導権がすべるように移る。
「殿下が何をお考えになってこの場に至ったのか、わが家としても理解はしております。国の安定、王都の均衡、新たな結びつきの必要性。いずれも軽んじるべきではございません」
デルフィーヌ嬢のまなざしが、ほんのわずかに動いた。自分の家がその“新たな結びつき”として言及されたことに、誇りを覚えたのか。あるいは、警戒したのか。
「ですが」
父はそこで一拍置いた。
私は黙って、その横顔を見ていた。
「わが娘をそのように扱われるのであれば、ヴァロワ家としても、今後の立場を改めて考えねばなりません」
広間が静まり返る。
誰もが意味を測っている。これは怒りの表明ではない。脅しでもない。だからこそ、重い。
ルイ殿下は父を真っ直ぐ見返した。
「それは、第二王子派に与するという意味か」
そう問う声音にも、感情は抑えられていた。けれど、その一言で広間全体に緊張が走る。
父は少しも動じなかった。
「与する、という表現は適切ではありませんな」
静かすぎるほど静かな言葉。
それから父は、私を一瞥した。私は何も言わない。止めもしない。そのやり取りだけで、事情を察した者もいたはずだ。
「もとより、話は進んでおりますので」
その一言で、ざわめきが爆ぜた。
ルイ殿下の表情は大きくは変わらなかった。けれど、視線がほんのわずかに私へ向く。その一瞬に込められた意味は、複雑だった。驚き、理解、そして遅れてくる何か。
「クレール」
今度の呼び声は、かすかに低かった。問いただすようでもあり、確かめるようでもある。
私はその視線を受け止めた。澄んだまま、わずかに冷たく。
「申し上げる必要はないかと存じます」
父ではなく、私がそう言ったのは、それが必要な場面だったからだ。
ルイ殿下の目が、わずかに見開かれる。私がここで口を開くとは思っていなかったのだろう。
「殿下はもう、お選びになったのでしょう」
私は自分でも驚くほど穏やかな声で言った。恨みも、皮肉も込めずに。それがいちばんよく届くと分かっていたから。
そのとき、広間の入口で再び人々が道を開けた。今度はさっきよりも、さらに静かに。
そちらを見る前に、空気で分かった。
リュシアン殿下だ。
◇◇◇
姿を見せたのは、第二王子リュシアン殿下だった。
黒に近い濃紺の衣装は装飾を抑え、それでもかえってその人の鋭さを際立たせていた。艶のない黒髪、静かに相手を射抜くような目元、無駄を嫌うように引き締まった立ち姿。第一王子であるルイ殿下のような華やかさはない。けれどその代わりに、刃のように研ぎ澄まされた静けさがある。
宮殿の磨かれた床の上を歩いていても、この人にはどこか別の場所の空気が付き従っている。国境の風や土埃の中にあってこそ本来の輪郭が際立つ、そんな歩き方だった。
初めて会った時から、この人はそうだった。
最初は互いに、必要なものを見ていた。けれど、もうそれだけではない。
リュシアン殿下は父に一礼し、それから私の前で足を止めた。
「遅くなった」
「ちょうどよい頃合いです」
そう答えると、殿下の口元がわずかにやわらいだ。それだけで、この場に来るまでに交わしてきた会話や、整えてきた手順のすべてが、言葉にせずとも通じる。
そして殿下は、ごく自然な動作で私の手を取った。
その瞬間、広間の空気が決定的に変わった。最初から打ち合わせ済みだったのだと気づく者。あるいは、ようやく全体の形が見えて息をのむ者。
私はその手を振り払わなかった。
振り払う理由がなかった。
むしろその温度に触れて、ようやく自分の内に張っていた糸がゆるむのを感じた。冷たく保っていた心が、完全ではないことを知る。傷ついていないわけではなかった。ただ、それを見せる場所ではなかっただけだ。
「殿下が手放されたのであれば、この方は私が預かる」
リュシアン殿下は、わずかに口元を上げた。
笑みと呼ぶには冷たく、挑発と呼ぶには静かすぎる表情だった。
広間全体へ向けたわけではない。けれど、その声は誰の耳にも届いた。
私は、ルイ殿下を見据えた。
殿下はまだ立っていた。表情は崩れていない。王太子としての姿勢も、声も、何ひとつ乱れてはいなかった。けれど、ほんの一瞬だけ、その完璧な仮面に隙間が生まれた。
視線が揺れる。
呼吸がわずかに止まる。
――くらり、と。
ほんの刹那だった。おそらく、ほとんどの者は気づかなかっただろう。
けれど私は見た。
その揺れは、怒りではない。屈辱でもない。自分が選んだ一手が、想像していた以上の結果を招いたことへの理解。そして、自分が失ったものの大きさを、ようやく知った瞬間だった。
ルイ殿下の唇が、かすかに動く。何か言おうとしたのかもしれない。理屈か、確認か、それとも名前か。けれど、声にはならなかった。
私はその人を見つめた。
怒りはなかった。哀れみもない。
ただ――思っていたよりも、胸が痛んだ。
自分で選んだはずなのに、ほんの少しだけ苦しい。それが、まだ好きだったということなのだろう。
けれど、それでも私は目を逸らさなかった。
ルイ殿下は彼なりに、王子として正しいものを選んだのだ。それはきっと間違いではない。ただ、その正しさが、私を選ばなかっただけのこと。
そして私もまた、私を選ばない人のために立ち止まるつもりはない。
リュシアン殿下の指が、私の手を包み直す。それから、ほんのわずかに先へと動いた。行こう、という言葉はない。だが、それで十分だった。
私は最後に、王太子殿下へ一礼した。それは別れのためではなく、過去への礼としての動作だった。
そして、静かに一歩を踏み出す。
広間のざわめきは遠い。灯りは相変わらず明るく、誰かの息をのむ気配も、衣擦れの音も、すべてがどこか薄い膜の向こうにある。
最後にもう一度だけ、私はルイ殿下を見た。
あの瞳は好きだった、と私は思う。
けれど、もう遅い。
そうして私は、殿下から静かに目を離した。
読んでいただきありがとうございました。
感想いただけると嬉しいです。




