ホワイトな初雇用
ガタガタと無慈悲に揺れる馬車の床に、私は座り込んでいた。
粗末な板張りの冷たい感触が、聖女として敬われていた日々が完全に終わったことを、嫌というほど実感させる。
小さな窓から差し込む不規則な光が、私の銀髪を不自然なほど白く照らしていた。
鏡を見るまでもない。連日の徹夜作業で隈が浮かび、唇は乾き、瞳からは生気が失われているだろう。
それでも――心臓だけは、かつてないほど強く脈打っていた。
自由を求めて。
不意に馬車が止まり、荒々しく扉が開け放たれる。
「おい、降りろ! ここがお前みたいな欠陥品に相応しい終着駅だ!」
騎士の汚い手が、私の肩を乱暴に突き飛ばす。
地面に倒れ込んだ膝に、鋭い砂利が容赦なく食い込んだ。
顔を上げると、そこは空さえも毒々しい紫色に濁った死の谷の入り口だった。
「ひひっ。お前が誰だか知らねぇが、精々魔物の餌になりな!」
下卑た笑い声を残し、馬車は大量の砂塵を巻き上げて去っていく。
静寂が訪れ、代わりにキィキィという耳障りな鳥の鳴き声が響いた。
鼻を突くのは、植物が腐り落ちたような重苦しい臭気。
私はゆっくりと立ち上がり、膝についた泥を丁寧に払った。
「……やっと、一人になれたわ」
深く息を吐き、論理眼を起動する。
視界が瞬時にモノクロームへ切り替わり、空気中を漂うマナの奔流が、青白い光の線となって浮かび上がった。
王宮の騎士たちが呪いの毒霧と恐れていた紫の霧。
だが論理眼を通せば、それは単にマナ循環が滞り、澱んでいるだけだ。
絡まり合った糸を、一本ずつ解けばいい。
「環境設定を始めるには……まず掃除ね」
その時だった。
背後の巨大な岩影から、地鳴りのような低い唸り声が漏れる。
殺気が肌を刺し、本能が全力で警鐘を鳴らした。
振り返った先にいたのは、岩山ほどもある巨大な三頭の銀狼。
汚れ逆立った銀毛。
太い首から生えた三つの禍々しい頭。
中央の金眼が私を射抜き、左右の頭は互いに牙を剥いて威嚇し合っている。
——魔王軍最強と謳われた、伝説の魔獣グロウル。
「人間か……。ここで死ぬか、俺の腹を満たすか選べ……」
三つの口から同時に放たれた声が、大気を震わせた。
足が震える。喉が張りつく。
これが本物の死線だ。
それでも、恐怖を押し殺して論理眼の焦点を彼に合わせた瞬間、別の感情が湧き上がった。
「……あなた、そんな状態でよく立っていられるわね」
「何だと……?」
「左は攻撃、右は防御。中央が統制。
三つの命令が同時に走って、優先順位がない」
私は淡々と告げる。
「魔力回路が完全にデッドロックしてる。
そのままだと、あなた自身が壊れる」
三つの瞳が、はっきりと揺れた。
「貴様……俺を愚弄するか!」
咆哮と共に、巨大な前足が持ち上がる。
振り下ろされれば、一瞬だ。
「違うわ」
私は震える手で、懐から魔石を取り出した。
「私は、非効率が嫌いなだけ」
未払いの残業代として持ち出した、最高品質のマナ結晶。
内部構造を解析し、分散処理のアルゴリズムを上書きする。
「食べなさい。最適化する」
結晶から立ち上る清涼な香りに、中央の頭が鼻を鳴らす。
一瞬の逡巡の後、グロウルは魔石を飲み込んだ。
――眩い銀光が視界を埋め尽くす
「ぐあぁっ……! 熱い、いや……軽い……?」
絡まっていた思考が一本に束ねられ、暴走していた魔力が静まっていく。
光が消えた時、そこにいたのは、凛とした知性を宿す銀狼だった。
「……澄んでいる」
棘の消えた声。
グロウルは一歩、また一歩と近づいてくる。
私は逃げなかった。
「小娘……いや、貴殿は何者だ」
「エルサ。ただの、仕事を探してる無職よ」
私は営業用の微笑みを浮かべた。
「あなたの力、戦うためじゃなく守るために使いなさい。
私の下で――セキュリティ責任者として」
「俺が……人間に雇われるだと?」
「週休二日。三食支給。個室完備。私の組織は、世界一ホワイトにする」
三つの頭が同時に傾く。
やがて、巨大な前足が折られた。
「……面白い。我が主、CEO」
私はそっと、彼の鼻先に触れた。
「決まりね。行きましょう、グロウル」
谷の奥に鎮座する古代遺跡を見据え、私は言った。
「最高の拠点を、構築するわ」




