世界の前提が崩れる時
谷の外縁に展開した王国制圧部隊は、すでに長時間、同じ地点で停止していた。前進命令は出ている。だが、命令を実行するための「場所」が、存在しない。足を踏み出そうとするたび、目に見えない圧力がつま先を押し返す。盾を構えたまま体重をかけると、押し返された力が膝を通して骨に伝わった。柔らかさはない。硬い。壁だ。
神官団が前に出て、地面に杖を突き立てる。石と金属が触れ合う乾いた音が鳴り、続いて詠唱が始まった。空気が震え、皮膚の上を撫でるような熱が広がる。
「反応は確認できる。しかし、結界は完全にこちらを拒んでいる」
低い報告の声に、重装歩兵の列がわずかに揺れた。盾の縁がぶつかり合い、鈍い音が連なる。敵は見えない。だが、ここから先に進めないという事実だけが、全員の感覚に重くのしかかっていた。
「突破不能だと?」
制圧隊長は、結界の向こうを睨む。谷の内部には、通路がある。照明が点灯し、壁面には整備された構造物が並んでいる。瘴気はない。腐臭もない。かつての「死の谷」の記録と、あまりにも一致しなかった。
その時、結界の内側から人影が現れた。
走らない。急がない。両手を自然に下ろし、一定の歩幅で近づいてくる。
エルサだった。
管理棟からここまでの距離を歩いてきたはずだが、服に乱れはなく、靴底も乾いている。それか現場が戦場ではなく、稼働中の作業区域であると自ら語っていた。
「ここから先には入れないわ」
結界越しでも、声は明瞭だった。
エルサは、息を大きく吸い込む。
「王国制圧部隊に告ぐ。現在この谷は、管理区域よ」
隊列の中に、ざわめきが走る。
「ふざけるな!」
一番前にいた制圧部隊の隊長が一歩踏み出す。
「貴様が責任者か」
「ええ。管理者よ」
エルサは動かない。背後には、魔族と魔獣が立っている。工具を持つ者もいれば、作業服のままの者もいる。誰一人、武器を構えてはいなかった。
「王命により、ここは制圧対象だ。即刻退去しろ」
「拒否するわ」
迷いのない即答だった。
「ここで働く者たちは、全員、規則の下で動いている。危険は管理され、被害は出ていない」
「魔族と魔獣を匿う気か」
「匿っていない。雇っているの」
言葉が、結界に触れて止まり、制圧軍側に落ちる。
「彼らは労働者で、技術者で、現場の作業員よ。排除する理由がない」
その時、後方の隊列が左右に割れた。
王族の装束をまとった若い男が、護衛を制して前に出る。土を踏む音が、妙に大きく聞こえた。
「エルサ」
彼女は、視線を向ける。
「……王子」
「もう十分だ。戻れ」
王子の声は、強くあろうとして、わずかに揺れていた。
「君がここで何をしてきたかは聞いている。しかし、それでも許可は出ない。ここにいる者たちは、全員、連れ戻す」
「連れ戻す?」
エルサは、かすかに息を吐く。
「彼らは、命令で動く駒じゃない」
「命令だ!」
王子の声が、張り上げられる。
「これ以上続ければ、衝突は避けられない」
「ええ。分かっているわ」
エルサは、一歩も退かなかった。
「だから私は、境界に立っている」
結界が、低く唸る。
内と外。管理と制圧。
その境目で、既に引き返せない段階に入っていた。
戦いは、宣言より先に始まっていた。




