対話
管理棟周辺の地面は、制圧部隊が布陣したことで踏み固められ、靴底の形が幾重にも重なって残っていた。だが管理区域の結界内に一歩入ると、その痕跡は途切れる。魔導舗装された床は微細な凹凸すら自己修復され、足裏は平だ。ここが戦場ではなく、稼働中の施設であることを、足裏の感覚一つで雄弁に語っていた。
管理棟の扉の前で、レインは立ち止まった。外套の内側に残る冷気と、室内から漏れ出す安定した温度差が、皮膚ではっきりと分かる。剣は携えていない。壁際に立てかけ、柄を壁に向けた。抜く意志がないことを示す、無言の配置だった。
扉が開く。金属音は鳴らない。蝶番の角度、油量、重量配分、そのすべてが計算された結果だった。
エルサが立っている。書類の束を抱え、靴先は床の基準線に正確に揃えられている。視線だけが動いた。
「……入る?」
短い言葉だったが、命令でも許可でもない、選択肢として差し出された響きだった。
「はい」
レインは一歩踏み出す。室内の床は外よりもわずかに温かく、靴底に伝わる反発が均一だった。会議室中央の机は、重量が床に分散される設計で、脚部に埃は溜まっていない。椅子は三脚。二脚は使用中で、残る一脚は壁側に寄せられている。
エルサは書類を机に置き、向かいの椅子を指で軽く叩いた。
「座って」
レインが腰を下ろすと、椅子はきしみも揺れもしなかった。固定具が床下で噛み合う、微かな感触だけが伝わる。戦闘用ではない。長時間、同じ姿勢で話すための家具だ。
外から、遠く警戒鐘の低音が届く。壁越しに振動だけが伝わり、音は削ぎ落とされている。遮音が正常に機能している証拠だった。
「……後悔してる?」
エルサの問いは、唐突だった。視線は書類に落ちたまま、ペン先が止まっている。
「いいえ」
レインは即答した。胸の奥で迷いが揺れる前に、言葉が出た。
「命令違反なんでしょ?」
「そうです」
「なら、裏切りとも言える」
「それも」
レインは背筋を伸ばす。もう鎧は着ていないが、姿勢だけは騎士のままだ。
「それでも、あそこでは剣を振れませんでした」
エルサは顔を上げ、レインを見る。その視線は、評価でも糾弾でもない。設備点検の際に異音の出所を探すときと、同じ静けさだった。
「なんで?」
「理由が、ありすぎました」
レインは一瞬、天井を見る。魔導灯の配置は均等で、影ができない。
「床が整備されていた。段差がなく、退路を塞がない構造だった。換気が機能していて、血と油の臭いがしなかった。魔族が、こちらを視界に入れない位置で待機していた」
エルサは小さく頷く。
「それで?」
「全部、戦場じゃない」
言い切ると、言葉の重さが室内に残った。
「壊す理由より、残す理由の方が多かった」
沈黙が落ちる。エルサは書類を一枚引き寄せる。そこには今日の設備点検表があり、いくつもの項目に確認済みの印が並んでいる。手作業で付けられた印だ。
「あなた、聖騎士でしょう」
「はい」
「魔物は脅威だと教えられた?」
「そうです」
「それの前提が崩れた?」
レインは首を振る。
「違います。脅威じゃなくなったんじゃない。ただ、脅威である前に、生活していました」
その言葉に、エルサの指が一瞬止まる。
「生活……」
「守って、直して、働いていた。あれを全部壊して『正しかった』と言えるほど、俺は強くありません」
エルサは椅子に深く腰掛け直す。背もたれがわずかに沈み、体重を受け止める。
「あなたみたいな人は、少数派よ」
「分かっています」
「大半は、命令に従う」
「それも分かっています」
エルサは短く息を吐いた。
「それでも、ここに残る?」
「はい」
即答だった。
「戦力としては期待できない」
「構いません」
「守れないかもしれない」
「それでも」
エルサはしばらくレインを見つめ、机の端に置かれた別の書類を引き寄せる。紙質は簡素で、再生羊皮紙だ。
「……じゃあ、条件を出す」
レインの背筋が反射的に伸びる。
「ここでは、英雄になれない」
「はい」
「正解もない」
「承知しています」
「理解されないまま、働き続ける」
「それでいいです」
エルサは書き込みを終え、ペンを滑らせる。
文字は簡潔で、余白が多い。
「今日から、あなたは制圧部隊の離反者じゃない」
一拍置き、続ける。
「ここでは、ただの労働者よ」
レインは紙を見下ろし、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
エルサは立ち上がり、扉を見る。
「外は、これから騒がしくなる」
「はい」
「それでも、仕事はある」
レインは立ち上がる。
「やらせてください」
エルサは一瞬だけ口元を緩めた。
「ええ。死の谷は、今日も稼働してるから」
扉が開き、外の空気が流れ込む。




