簡潔な離反
制圧部隊は、谷の内部で足を止めていた。前進命令は出ている。だが、誰も急ごうとしなかった。通路は整備され、壁面には損傷履歴と補修日が刻まれている。罠はなく、瘴気もない。敵地にいるはずなのに、警戒より先に違和感が積み上がっていく。
後列の補助部隊にいた若い聖騎士、レインは、足元の床を見下ろしていた。石材の継ぎ目は均一で、踏み込んでも軋まない。補強の痕跡があり、しかも新しい。
「……最近、直した跡だ」
誰に言うでもなく呟く。死の谷は、放棄された魔境だったはずだ。誰も手を入れず、近づく者もいない。だが、ここは明らかに「使われている場所」だった。
前方で、魔族の技術者たちが通路脇に整列しているのが見えた。武器は持っていない。腰にあるのは工具だけだ。制圧部隊の動線を妨げない位置で、静かに待機している。その一人が、視線に気づいて頭を下げた。
「通行の妨げになっていれば、調整します」
声は低く、敵意はなかった。レインは言葉に詰まる。魔族は、こちらを脅威として扱っていない。作業中に入ってきた外部者を見るような目だった。
前列で、制圧隊長が声を張り上げる。
「進め。接触を避けつつ、管理棟を目指す」
命令は、正しい。レインは理解している。それでも、足が動かなかった。
隣にいた古参の聖騎士が、小さく息を吐く。
「……妙だな」
「はい」
レインは、思わず返事をしていた。
「魔物が、こちらを怖がっていません」
年老いた聖騎士は短く笑った。
「違う。怖がる理由がない顔だ」
その言葉が、胸に残った。
進軍が再開される。管理棟が近づくにつれ、設備はさらに整っていった。排気口、緊急退避路、点検済みの魔導陣。すべてが「事故を起こさないため」に配置されている。制圧隊の中で、小さなざわめきが広がった。
「……これ、本当に壊すのか?」
誰かが言った。誰も叱責しなかった。それは明らかな異常だ。
管理棟前で、部隊は再び停止した。扉は開いている。防御陣は展開されているが、攻撃的な構成ではない。
隊長が剣を掲げる。
「これより、制圧を開始する。抵抗があれば排除せよ」
その瞬間だった。レインは、一歩、後ろに下がった。誰にも気づかれないほど、わずかな動き。だが、自分の中では決定的だった。剣の柄から、手を離す。
「……俺は、行けません」
声は震えていなかった。周囲の視線が、一斉に集まる。
「何を言っている」
隊長の声が低くなる。
「もし実行すれば、裏切りだぞ」
レインは、管理棟の壁を見た。そこには、最近補修された痕跡がある。崩落を防ぐために、誰かが危険を承知で作業した証だ。
「ここは、戦場じゃない」
一瞬の沈黙。
「人も、魔物も、働いています」
誰かが息を呑む音がした。
「俺たちは、脅威を討つために来た。でも……ここには、壊す理由が見当たらない」
隊長が剣を振り下ろす。
「黙れ。世界は、そんな曖昧さで成り立っていない」
レインは、ゆっくりと頭を下げた。
「だから、俺はここに残ります」
隊長は、レインを無視して予定通りに事を進めようとする。
制圧部隊の中で、初めて明確な線が引かれた。敵か味方か、ではない。壊す側か、守る側か。
死の谷は、静かに稼働を続けている。その中で、世界からこぼれ落ちた者が、一人、立ち止まった。




