最終通達
死の谷、管理区画中央棟。
その日も、業務は滞りなく進んでいた。
点検用通路を進む魔族の技師。
資材を運ぶ大型魔獣。
掲示板の前で、作業予定を確認するゴーレム。
空気は静かで、整っていて、よく機能している。
エルサは、中央制御室で帳簿を確認していた。
昨日提出された改善案に目を通し、優先度を振り分ける。魔導炉の稼働率、浄化循環の数値、警備配置の見直し。どれも小さな修正だが、積み重ねれば確実に全体が良くなる。
「エルサ様」
入口で、見張り役の魔族が足を止めた。
「谷の外縁に、人間の部隊が到達しました」
エルサは、ペンを止めた。
「人数は?」
「聖騎士を含む正規兵。武装状態です」
一瞬、室内の音が消えたように感じられた。
だが、エルサの声は変わらない。
「通達は?」
「……王城名義の文書が、同時に届いています」
魔族が差し出した封筒には、王国の紋章が刻まれていた。
正式な命令書。つまり、交渉ではない。
エルサは静かに受け取り、その場で封を切る。
『王国判断により、死の谷管理体制を危険因子と認定する。よって、当該区域は武装派遣により制圧される。管理責任者エルサは、速やかに身柄を拘束されるものとする』
最後まで読み終え、エルサは紙を置いた。
「……そう」
それだけだった。
慌てる様子も、怒る様子もない。
予想していなかったわけではない。ただ、決断が下った。それだけだ。
「時間は、どれくらいありますか」
「部隊の進行速度から見て……一刻ほどかと」
「分かりました」
エルサは立ち上がる。
「各区画の責任者を、会議室に集めて。至急」
短い指示。
だが、その声に迷いはなかった。
会議室には、ほどなくして主要な魔物たちが集まった。
警備責任者の魔獣。
作業班を束ねる魔族。
物流を担当する大型魔獣。
清掃区画のハルピュア代表。
全員が、エルサの前に立つ。
「王国から、制圧命令が出ました」
エルサは、隠さず告げた。
「人間の武装部隊が、こちらに向かっています。私の身柄拘束、もしくは排除が目的です」
ざわめきは、起きなかった。
代わりに、数秒の沈黙。
それから、警備責任者の魔獣が一歩前に出る。
「迎撃は?」
「しません」
即答だった。
「ここは“職場”です。戦場にはしない」
魔族の一人が、歯を噛みしめる。
「……我々は、何のためにここを整えてきたのですか」
エルサは、真っ直ぐに答える。
「壊さないためです」
その言葉に、全員が黙った。
「だから、やることは三つ」
エルサは指を立てる。
「第一に、非戦闘員の退避準備。第二に、重要設備の停止と保全。第三に――」
一瞬、言葉を区切る。
「ここで働いてきた事実を、残す」
「……残す?」
「帳簿、改善案、稼働記録。全部です。消させない」
それは、抵抗ではなかった。
証拠を、未来に渡す行為だった。
「理解されなくてもいい。でも、“なかったこと”にはさせない」
魔物たちは、互いに視線を交わし、やがて頷いた。
「了解しました」
誰一人、逃げ出す者はいなかった。
谷の外縁。
人間の部隊が、整然と進軍してくる。
彼らの目に映る死の谷は、静かすぎた。
咆哮も、瘴気も、襲撃もない。
ただ、管理された沈黙だけがあった。
その中心で、エルサは立っている。
剣も、杖も持たず。
祈りも捧げず。
ただ、自分が築いてきた現場を背に。
理解されないと分かっていても。
それでも、守ると決めた場所で。




