8 伊織が離れたわけ
薬舗「楠瀬」の開店は巳の刻、午前十時である。竜舞国では施療院ができた頃からランタルニア式の時刻呼びが人気となり、いまではランタルニア式のほうが主に使われている。
薬舗のある辺りは、両隣の紙や筆をはじめ茶など、小粋な小物を主に商う店が軒を並べている一角で、皆ほぼそれくらいに開店する。しかし、薬によってはできるだけ売る直ぐ前に作り上げるほうがよいものもあり、倫子は辰の刻、午前七時には来ている。
毎朝、竹丸が実家まで迎えに来てくれて、不審がないか確かめてから倫子を店のなかに入れる。
竹丸の負担を減らしたかった倫子は、マギーの修練がてら、あらゆるものを盗難から守る「盗難守護石」、害意のある者が入れなくする「侵害者除外石」を薬舗に置いた。
凄腕忍者竹丸でその効果を試そうとしたが、そもそも店の主人である竹丸が持ち運んでも盗難にはならず、害意も持てなかったので試せなかった。
これらの石には時折、マギー力を足し入れねばならない。
その後、竹丸は重さのある鍋や道具を運び、当日の予定を伝え、早番の使用人に引き継ぎ、名残惜しげに倫子を頬擦りして、柾耶の護衛につく。今日は昼から柾耶と来るようだ。良ければ倫子の手作りが食べたい、柾耶の分はいらない、と言い置いて去っていった。
九時になると、伊織がやって来た。いつもどおりの白衣姿だ。モノクルは結局竹丸に禁じられたので、憧れの先生の真似がこれと髪型だけになったと嘆いていた伊織には、せめて白衣が着続けられるよう、着衣が汚れなくなる「防汚石」を渡してある。
「見てください、ランタルニア薬草大図録、訳し終わったんですよ!」
「おめでとうございます。わたしも欲しいんだけど…、これもマギーを使って写したりできる?」
「んんん……それは良い案ですね…っと、一覧には無いですね。組み合わせてみたらどうかな………?」
伊織は図録を訳し終えたことを伝えたくて逸る気持ちを抑えかねてやって来たようだ。倫子の案に感心して例の一覧を探したが、丁度良い石がないらしい。倫子が石なしでマギーを発動させるのはまだまだ不安なので、いくつか石を組み合わせるべく悩み始めた。
竹丸には申し訳ないが、マギーの修練も薬草の相談もでき、自称「頼れる弟」に倫子は頼りっぱなしであり、竹丸の次に薬舗に現れて嬉しい人だ。だが、今日は昼から柾耶が来る。
「あの~、今日は昼から柾耶さまが来られるそうですけど、大丈夫?」
「あぁ、そっすかー。じゃ、昼までに帰ります。まぁ別にどうしても会いたくないわけじゃなくて。僕がちょっと気まずいくらいかな。」
「伊織。」
伊織を呼ぶ声がしてふたりが振り向くと、髪型の違う伊織が羽織袴姿で立っていた。
きらめき緩やかに波打つ赤髪を生かし、ひっつめないようにしつつ高めに結わえ、結わえた先は釣鐘草のようだ。若緑色の大きな眼をして、頬と首にはほんのり紅の鱗。
(わぁ、本当にそっくり。雰囲気が少しだけ違うかな。気のせいか。)
「ありゃ。非番?」
「いや、父上のお使いだ。奉行所の者が数人捕物で負傷してな。こちらに捻挫に効く塗薬があるそうだから買って来いと。店先で選んでいたら、おまえと間違われてここに通された。楠瀬の使用人にしては少し心配だな。竹丸殿にお伝えしてくれ。」
「お、おう。んー、でも竹兄様に言うのは少し気の毒。あの、竹兄様が使ったのはどれだっけ?」
なぜか捻挫の語に目を泳がせつつ、伊織は倫子を見ないで尋ねた。
倫子が最上級を渡すと少し悩んで、上級を手に取り、その男に渡す。
「これでいいと思う。僕が最近改良したんだよ。二日もあればいいかな。こっちのが安い。奉行所にそこまで高いのはいらんでしょ。」
「だな。『治ったら来い!』だから少しぐらい日数かかるほうが喜ばれるかも。いっそその下でもいいか?」
「『治らなくても来い!』じゃないの?中級はねえ、日数がかかり過ぎて、店の名が泣くと困るから駄目。効くだろうけど。」
「わかった。邪魔したな。いまならおまえのあれも消せるの作れるんじゃないか?」
「さあ……検討してみるよ。消してもいいのか?」
「当然だろう?下らない。あってもなくてもおまえはおまえ、俺は俺だ。今更誰が間違えるものか。」
そう言い残して男は去っていった。
「ごめんなさい。助手みたいに扱って。しかも僕が改良したとか。竹兄様の大事な人を勝手に紹介するわけにはいかなくって。マギーのことも言えないし。見たとおり、僕らは双子。あれは一応兄の伊絃。僕らはどっちが兄とか思ってないから、一応になるっす。さっきの話は伊絃が来る前に言いかけてた殿下とのことも関わるんです。」
伊織は椅子を寄せて座り、倫子にも座るよう促した。
首の後ろを指先で少し擦るような仕草をしながら何か迷っているようだ。
「竹兄様を通すべきか迷いましたが、まあ、いいでしょう。薬のことだし。僕らはもうすぐ二十歳。実は倫子さんと同い歳っす。二十歳になれば、特に理由がなければ、城に勤めるなら髪を結い上げなければなりません。僕らそっくりっすけど、結い上げたら見えるんですが、僕だけ首の鱗が二枚ほど黒いんです。僕はそれを見られるのが嫌で、殿下の側を離れました。」
伊織が生まれてすぐ、両親は黒い鱗に気がついた。きれいな薄紅のなかでそれは随分目立ったので、手を尽くして消そうとした。鱗は生え替わるものではなく剥ぐことはできない。塗薬に頼るしかなかったが、どれも効かなかった。そもそも伊織が医道に興味を持ったのはそういう経緯があったからだ。
伊織がモノクルを掛け、真似をしているランタルニアの医師は、この人の塗薬ならばひょっとしたらと言われた、憧れの人だ。故人である。
「僕は、そっくりな僕らを、僕には『黒点がついているから』という理由で見分けられるのが耐えられなかった。そんなことで、とは幸いにも家の者は誰も口にしませんでした。」
竜人の顔かたちがそっくりの双子は珍しい。百年に二、三組いればいいほうではないか、と言われている。いまも少なくとも瑛都には伊織たち以外いないだろう。
それは竜人の生まれに由来する。竜人は卵生なのだ。血縁関係によって顔かたちが似るということもほぼなく、申し訳程度に色味が似るくらいだ。そして、ひとつの卵からはひとりしか生まれないので、顔かたちが似るのはかなり珍しいこと、なのである。
そんな双子を家族はもちろんのこと、使用人も挙って大事にした。使用人の間で世話役の取り合いとなり、誰ともなしに、ふたりを見分けられることが条件となった。そんななか、粗忽な使用人が首元の鱗が見えれば楽なのにと漏らしたひと言を伊織は聞いてしまったのだ。
「実は殿下はいま若干難しい立場なんっす。詳しいことは竹兄様に聞いてください。そんななか、友のくせに殿下の下を去ることには気が引けました。ただ、僕、剣の腕がアレなんで、側にいないほうが竹兄様の手間も省けていいし、父が『おまえがいても殿下の無聊を慰めるだけ。おまえはおまえの心を守れ』と言ってくれたんです。で、『学友になれば施療院で医道を教えてもらえる』約束を盾にとって去ったんです。」
伊織は手近にあった最上級塗薬を手に取った。
「伊絃の言ってるのは、黒点を消せってことです。仮に僕が殿下の下に戻っても、竹兄様の父上の口ぶりから、倫子さんのお手伝いをすることが一番の仕事になることは変わりありません。僕はこれまでどおり、ここに来るでしょう。もう殿下の下に戻ったつもりだったから、伊絃に言われるまで倫子さんの薬なら消せるかもなんて忘れてて。これなら効くかもしれませんが、ホントの傷ではないからどうでしょうか。黒点なんか無いのが良いに決まってますから、駄目だったら竹兄様に許してもらって直にマギーを使うとかお願いするっすね。」
そのためにもマギー力の修練お願いしたいっす、でもまあその前に図録の写しのことハンス殿に尋ねてきます、と言って最上級塗薬のお代を置いて伊織は帰っていった。
伊織はその日の夜、なんの躊躇いもなく塗薬を使い、あっさりと黒点は消えた。倫子は薬草の入らない伊織専用を作ろうとしていたが、その必要はなかった。本人も周囲も傷として見ていたので、効いたのだろう、とハンスは言う。
後日、楠瀬家に伊織の両親から心のこもった礼と感謝の品が届けられた。




