32 鶯宿柾耶のひと休み
(…これは、また。まぁ、確かにそろそろだな。陛下に相談しよう。)
側用人鶯宿柾耶は、白晰の間で城内の者から寄せられた陳情書に目を通していた。そのうちの一つに一慶に相談すべき事柄があったので、一息吐こうと、窓の外を見た。一慶はいま、席を外している。町奉行との定例会議があるのだ。そろそろ終わる筈だ。
すっかり冷めた茶を飲みながら、窓の外をぼんやり眺めていると、牡丹雪が舞ってきた。置いてあったままの茶など飲むのではなかった。ぶるり、と身を震わせる。
(そういえば、あのときも意味は違ったけど、こうやって寒気がしたんだっけ。)
柾耶の育ての父、七海は、優秀で気立ても良いのだが、本人の努力にも関わらず、感情が顔に出ない人だ。祖父左門は「慣れればそんなことないじゃろう。よーく見てみぃ。」と言うのだが、一歳からずっと側で慈しんで貰った柾耶でも、七海の表情は全く読めない。声音は感情豊かなので、それで判じている。左門が凄腕の忍者の観察眼で分かっているのか、やはり左門もただ彼がそう思っているだけで判じられていないのか、怪しいものだと思う。なにしろ大公家嫡男をそれと分からず特忍にしてしまった人だ。
つまり、常人には七海の表情は声音なしでは読めない。読めたと思っても、見た者の考えが投影されているだけだ。
(王妃もそれに引っ掛かったんだろうなあ…。)
王妃に見られたのは、二の丸横の小さな池で七海がようやく一慶を見掛けて簪を渡したその時だろうと聞く。辺りは誰もいなかったというので、本丸からでも見たのだろう。幼い子の頭を撫で何か物を渡しているのが見えた。ふつうは微笑みながら渡すだろうから、そう「見えた」。
後は、坂を転がり落ちるように、憎しみが募っていったのだろう。無表情は自分に関心がなかっただけだと。
そして柾耶は一慶に会った。
緊張していたのだという一慶は、優れた剣の腕も相俟ってか、頬がぴりぴりするような清廉な気を纏い、陽の光を背にしているかのように輝いて「見えた」。柾耶は背筋が震えた。
(…怖かったなぁ。折角考えて来た挨拶も真っ白になって飛んでしまった…。)
穴があったら入りたい、と思ったが、退くのも癪なので、なんとか持ち直して押した。柔らかに波打つ黒髪、穏やかな表情でときに「柳のほう」と七海と比べられる柾耶であるが、こうみえて七海など及びもつかない勝ち気な男なのである。
(私にとっては、別の人が親って言われても、察してたし、父の考えに浸かっていて、『やあやあ宜しく』程度だと思っていたから、あんな威圧されるのは不意打ちだったよ。)
無表情な七海のお陰でよく考えよく察する子となった柾耶は、左門の様子から察していたし、上司でもある七海の書き損じを片づけるのは柾耶の仕事であったから、本来紫矢にするはずの返信を確り読んでしまった。七海の考えを常日頃聞かされている柾耶は「あっそう」としか思わなかった。七海が事の次第を説明し、明日会うことになったと告げた時も、「明日ですね、わかりました」と淡々と返事し、七海を困惑させた、筈である。一慶の出方を全く読めてなかったのは、不徳の致すところ。今後は器用な紫矢に教えを乞いたいと思っている。
とすとす、どっすん、どっすんと二人分の足音がして襖が引かれる。
「ならん。確かに十分反省はしているようだが、少し性質が悪過ぎる。あれは少々間が悪くなるが、闘技会でそなたの相手をさせるために留めてあっただけだ。」
「ですが。露見しないようにではなくて、負担を掛けないようにでして。全く悪気はなかったのですし。謹慎で一度処分が済んだはずでは。あの者だけ二度処分するなど、道理が通りませぬ。お考え直しくださいませ。」
「謹慎は処分ではない。暫くの間、登城を控えよとは申しつけたが、奉行所に出仕するなとは言ってない。処分が保留であることを知らしめるためだった。」
「…。重ね重ね申し訳ありません…。」
意外や意外。筆頭与力の処分について揉めていたようだ。
柾耶は一慶の手腕に感心している。奉行所の綱紀粛正について預からせて欲しいと言ってわずかひと月、それも実質一日で檜原の状況を柾耶の思いもよらない方法で覆してみせたのだ。
(こんな鈍重な人をそこまで鍛えるなんて、この人も竹丸殿もどんな手管を使ったんだろう?)
檜原の剣の腕は実戦向きではないが、一撃であれば勝る者無し、必見の試合であったと城の者の口に上らない日はない。
「分かったなら、諦められよ。そなたには堂々として貰わないと余計困る。だが知らなかったのか?」
「取り次ぎがそう申しましたので…。」
「全く。その者も調べよう。鶯宿殿、して私に何の用かな?憂い顔で外を眺めていたろう。」
「え、どこからご覧になったのですか。雪も降っておりましたが。」
「会議の間の窓だよ。昨日楠瀬殿に、そこの窓がこちらの窓になる不可思議な板を貰ってね。貴方もあの窓の横に立って、窓を覗いてごらん。」
柾耶が言われたとおりにすると、窓の外の雪の様子ではなく、まるで会議の間の窓から覗いているように、会議の間の様子が見えた。柾耶は窓から二、三歩離れた。
「ほー。離れて見れば、いつもの外の景色ですね。マギーですか?面白いですね。」
「楠瀬殿の壺はどうなっておるのですかな?伊織が、壺の底から出てきたとランタルニアの珍品をよくくれます。」
「壺?」
「あぁ、楠瀬殿は古い壺が好きでな。ランタルニアの船団長から故郷の古い珍しい壺を貰うそうだ。」
「へぇぇ」「ほおぉ」
「あ、陛下、こちらをご相談したくて。城の陳情書なのですが、檜原殿にも関わるのですよ。」
なるほど、と書面を見て一慶が頷く。
「奉行、そなたの子息に城の出納方への転属を願う陳情が来ている。奉行所内での不遇を案じ、若いうちから教導したいようだ。これから奉行所の綱紀粛正を行う故、不遇はなくなろうが、子息にとっては良い話だろう。」
「有り難く存じます。ただ、その、息子は旗野の仕業とひと目で見抜くなど、恥ずかしながら私が頼りきりでございましたので少々寂しくはございますが…。」
「では特別にそなたの補佐についてはその点も勘案しよう。この分はそなたに対する闘技会の褒賞だな。では出納方への転属の話を進める故、子息にも内々に伝えるように。私は常々そなたたち親子が奉行所にいるのは勿体無いと思っていたのでな。出納方のほうが向いているだろう。」
息子と出仕できるのは楽しかったのだろう。少ししょんぼり萎れた檜原を気の毒に思いながら、どう考えても栄転にほかならないのだから諦めるべし、と柾耶は思う。出納方は登り詰めれば、側用人の次席に匹敵する。側用人は柾耶も含めて国王が城外から推挙するのがこのところの習いだから、実質城の生え抜き事務方の最高峰である。
結局檜原は萎れたまま退出していった。
それにしても、こういうときでも小さくは「見えて」も、小さく絞まらなかったらしいと檜原の揺れる腹を呆れつつ、彼の退出を見送る主従であった。
窓の外の雪の勢いはかなり強くなってきたようだ。積もることは無さそうだが。
足元から冷えてきたので、今度は一慶の分も茶を淹れ直そうとした柾耶は途方に暮れる。
「一慶、これなんだが…」
ん?と見遣る一慶に柾耶は続ける。
「お茶を温かく飲めるいいものはないか楠瀬殿か竹丸殿に尋ねてくれないか?」
「ああ、侍従をまだ呼び慣れてないのか?かなり大音だからなあ。少し気が引けるよな。」
一慶は卓の上の鐘を躊躇なく鳴らしたのであった。




