第1話「逃げ道のない王宮のサロンへ」④
「……わたくしね、ずっと娘が欲しかったの。だから、あなたが来てくれて本当に嬉しいわ」
「あっ、ありがとうございます」
「女の子を育てる楽しみを、ずっと夢見ていたのよ」
その微笑みは、胸の奥をじんわり温めるほどに優しかった。
年の頃は四十に届く前くらいだろうか。頑張ればまだ子を授かることもできるのかもしれない……でも、きっと事情があるのだろう。
「ふふ、思った通り。とても可愛らしいわ」
そう言って身を乗り出し、覗き込まれる。
え、ちょ、何これ。いきなり嫁姑バトル開幕!?
病院勤務時代、家族間トラブルを目にしたことはあるけれど、あれはなかなかに胃が痛くなるやつだったんだよな……。
「ふふふ……あの子がね、あのカタブツのエドが……ふふふ」
「えっ……あの?」
「ごめんなさい。ついおかしくて。気を悪くしないでね」
笑いを堪えきれないように肩を揺らす王妃。
その姿は思い描いていた『王妃像』とまるで違い、ただの『優しい母親』に見えた。
「ずっと心配していたの。婚約者を作らないエドをね」
アリエルがルシアンと婚約したのは4歳の頃。
なのにエドが婚約したのは、つい最近。今まで何の話もなかった方がよほど不思議だ。
「まさか、初恋の女の子を忘れられなかったなんて……ね?」
「初恋!?」
思わず声が裏返る。
そうか……だから、あんなにアリエルに執着してたのか。
アリエルの容姿はとびきりだとは思うけれど、これ以上の令嬢だってきっといただろうに。
まして接点なんて私が持つアリエルの記憶には一切無かった。
性格もよくわからず、初恋ってだけであんだけ執着するって……
やっぱあいつちょっとおかしいんじゃないか?
「あら、知らなかったの?エドに怒られちゃうかしら」
楽しげにケーキを口に運ぶ王妃は、その瞬間、年齢以上にずっと可憐に見えた。
そうか……29歳の私からしたら、この人と10歳くらいしか違わないのかも。
なんなら、私とアリエルとの差よりも少ない。
『義母』なんて身構えるより、もっと自然に距離を縮められるのかもしれない。
王妃に倣ってケーキを口に入れる。
公爵家の甘味も美味しいけれど、王妃が用意してくれたケーキは、まるで『あなたを歓迎するために選びました』と語りかけるようで、優しい甘さが心に沁みた。
……コン、コン、コン。
静かなサロンに、やけに早口なノックが響く。
「どうぞ」
扉が開くと同時に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「母上!」
形式上の礼を取りながらも、その視線は王妃であるわたくしにではなく、まっすぐ目の前の少女に。
その目が驚きと安堵で揺れることに、驚いてしまう。
普段は冷静沈着、王太子の仮面を決して外さない、そのように教育したし、実際そのように成長した我が子が公務を放ってやってくるなんて……。
「……やはりここに」
「あら、もうばれちゃったのね」
最初に見せた動揺を隠すようにまっすぐこちらへ歩み寄ってくる。
「アリエル、大丈夫か?」
「え……うん。別に心配されるようなことは」
心配そうに目の前に座る少女の肩に手を添える姿。
その視線は、わたくしなど眼中にないかのように真剣。
「もう、邪魔をして。告げ口したのはコンラートかしら?」
「……彼は優秀な側近ですからね」
この表情は、一刻も早くこの場からアリエル嬢を連れ出したいのかしら。
どんな令嬢を候補に挙げても見せなかった顔。
けれど、彼が追い求め続けた少女を前にすると、こんなにも余裕を失うなんて。
「それで?何かあったのかしら?」
「……そろそろ、アリエルをお返しいただけませんか」
「あら。アリエル嬢は、わたくしの娘でもあるのではなくて?」
からかうような響きに、我が子の表情がますます曇る。
母としてはつい茶化したくなるけれど、王太子としてでなく『一人の青年』としての顔を見せてくれたことが、少し嬉しくもあり、寂しくもあった。
「仕方ないわね……また、いらしてね、アリエル嬢」
「ありがとうございます」
立ち上がり、手を取り合う若い二人。
その微笑ましい姿は、母として今日一番見たかった光景だった。
二人の背を見送りながら、胸の奥がほんのり熱くなるのを感じた。




