第3話 死と隣り合わせの世界
「神……? 神に、なる……とは?」
母は何を言っているのかと、戸惑ってしまう。
動揺する龍一を放って、母は祭壇の片付けを始めた。蝋燭の火を消し、祭壇の扉を閉じると、祭祀服に付着した線香のカスを手で払い落とす。その間、何も言おうとしない。龍一が自分で考えろ、ということなのか。
「あなたが人々の運命を司るのです」
最後に、それだけ言って、母は祭壇の間から出ていった。
人々の運命を司る。胸に刻まれた言葉は、その後、長いこと龍一を悩ませ続けた。他人の運命をコントロールしろ、ということだろうか。だけど、そんな行為が許されるのか。それをする資格が自分にあるのか。
謎かけのような母のメッセージ。
その真意を解き明かすことが出来ないまま、十日ほど、相変わらずの無味乾燥な日々を過ごしていた。
そして――あの事件が起きた。
※ ※ ※
とある晴れた日曜日の昼下がり。
当時交際していた恋人の美紀と一緒に、銀座の街を歩いていた。
「次、ルブタンに行きたい! お店で使う靴を探してるの」
美紀は、輝くような茶髪がよく似合う。明るい笑顔を見ているだけで、心が癒される。だけど、それ以上の魅力を、龍一は感じていなかった。人生に喜びを見いだせていない龍一には、女性との交際もまた、空虚なものでしかなかった。
大学に通いながら、夜の銀座で働く美紀は、かなり人気のホステスだと聞いている。通り過ぎる人々の何人かはハッとなって振り返るほど、整った相貌に、完成されたボディを持つ、モデルのような容姿。同級生達は美紀をカノジョに出来た龍一のことをうらやんでいたが、しかし、龍一にとっては美醜など、どうでもよかった。
歩行者天国の時間。青空の下の大通りに、多くの観光客が溢れている。よく見れば、ほとんどが海外の人間、いわゆるインバウンドというやつだ。
ここへ来るまでの地下鉄で、日本人の乗客達は、みんな暗い顔をしていた。一向に良くならない生活で苦しみ喘いでいる、その気持ちを隠そうともしない。そんな風に沈み込んでいる日本人達を尻目に、銀座の街を闊歩する外国人達は、ケラケラと笑いながら楽しそうに記念写真なんかを撮ったりしている。
外国人達は、一時期の「爆買い」と言われるような買い方はしていないものの、それでも日本人の大半が手の届かない高価なブランド品の袋を、お土産とばかりにぶら下げている。
「ん?」
ふと、歩行者天国の大通りのど真ん中で、黒く長いレインコートを着た男が仁王立ちしているのが目に飛び込んできた。
男は全身を包み込むようにレインコートを羽織っており、この晴れた都会の風景では異様に悪目立ちしている。焦点の合わない目をギョロギョロと左右に動かしながら、何かを探している様子だ。
いきなり、男と目が合った。
男の瞳孔は開いている。直感的に、危険なものを感じた龍一は、美紀の腕を掴み、前へ進もうとするのを力尽くで止めた。
「ど、どうしたの?」
目を丸くして龍一のことを見てくる美紀。
その頭部が、唐突に破裂した。
美紀の顔の半分は吹き飛び、血と脳漿が舞い散って、べちゃりと龍一の顔面や胸に付着する。驚いた龍一は腰から崩れ落ちて、尻餅をついてしまう。
ショットガンだ。
不審な動きをしていた男は、レインコートの下からショットガンを取り出し、美紀の頭部を撃ち抜いて、吹き飛ばしたのだ。
男は、立て続けに二発目を撃った。轟音が銀座に響き渡り、龍一は恐怖でビクンッと体を震わせる。だが、幸いなことに、次の狙いは龍一ではなかった。
家族連れの中国人に散弾は当たった。六歳くらいの少年の頭が肉塊と化し、三十代くらいの父親と母親らしき男女は腹部に散弾を撃ち込まれ、体をくの字に折り曲げて吹っ飛ぶ。娘らしき年長の少女が、悲鳴を上げて、その場で屈み込んだ。
弾の装填は二発ずつのようだ。男は、次の二発をショットガンに込め始めた。
周囲の人々は、一発目の時は何が起こったのかと呆然としていたが、二発目の散弾発射を受けて、絶叫とともにようやく逃げ出した。
「あ、あ、あ」
死ぬ。殺される。
こんなところで、わけもわからず、狂人によって命を奪われる。
そんなのは嫌だ。まだ死にたくない。自分が何のために生まれてきたのか、この世で何を為せるのか、そんなこともわからないまま、死んでたまるか。
龍一は必死で這いずりながら、男に背を向けて、少しでも距離を取ろうとする。匍匐前進で移動していることに、こうすれば助かるという確信があったわけではない。しかし、それが結果として、龍一の命を救った可能性は高かった。
男は、走って逃げていく人々に狙いを定めた。次々と、ショットガンで撃ち殺していく。そのターゲットは、ほとんどが外国人だった。
足音が近付いてきた。地面を這っている龍一へと、男が歩を進めてくる。
ダメだ! もうダメだ! 死ぬ! 死んでしまう!
涙が溢れてくる。歯がガチガチと鳴る。全身が痙攣したように震えて動かせなくなる。
男の足が、頭のすぐ横に進み出てきた。それでも、男は、龍一を狙おうとしなかった。
「死ね……! 日本を滅ぼす悪魔どもめ……! 死ね……!」
呪詛のような憎しみの言葉をつぶやきながら、ショットガンを構えたまま、男は歩みを止めようとしない。
やがて、龍一を無視して、男は遠くへ離れていってしまった。
※ ※ ※
この事件は、凋落の日本社会に、さらに暗い影を落とすものとなった。
ひとしきりショットガンで暴れ回った男は、最終的に自分の口に銃身を突っ込み、引き金を引いて自殺してしまった、とのことだった。
動機は、新総理が強行採決した解雇規制緩和に伴い、勤めていた工場を解雇されての、社会に対する憎しみが爆発したのではないか、という説が出回っていたが、犯人が死んでしまった以上、真相は闇の中である。
また、ショットガンをどこで手に入れたのか、という謎も解明されないままであった。
ともあれ、龍一は生き延びた。
生き延びたのであるが、深刻なまでに精神に傷を負うこととなってしまった。
もしも一発目の銃弾が、美紀ではなく自分を狙っていたら? あるいは距離が離れていれば散弾によって美紀の横にいた自分も巻き添えを食らっていたかもしれない。至近距離だったから助かったようなものだ。
その後も、たまたま犯人は他の人々をターゲットにしたから助かったが、ちょっとでも龍一に対して意識を向けていたら、あっさり殺していたことだろう。
自分は、生かされた。
得体の知れない、何かの力によって、生き長らえた。
これが運命? これが神?
(冗談じゃない!)
そんなものは信じない。全ての事象は合理的に説明できる。もしもこの世界に運命というものが存在するなら、それは神が司るものではなく、人と人が織りなすことで生まれるものだ。
そうだ、母も言っていたではないか。運命を司れと。
誰かに生殺与奪の権を握られている人生に価値なんてあるわけがない。常に死と隣り合わせの、この残酷な世界において、確実に自分が自分として生きるには、これはもう、他人をコントロールすることでしか実現できない。
すなわち、司るのだ、他の人間の運命を。
「では、どうすればいい。どうすれば……」
この時より、龍一の「ドクター・フォーチュン」としての覚醒は始まったのである。