第6話「二人部屋の夜、早まる鼓動を隠す夜」
夜の街は、すっかり屋台の喧騒を飲み込んで静まり返っていた。
極上貝スープの完売からしばらく、にすけとフィリーネは宿探しに奔走していたが──結果は散々。
「……どこも満室かよ」
「まあ、祭りの前夜だもの。仕方ないわ」
最後の最後で見つかった空き部屋は、よりにもよって二人部屋だった。
扉を開けた瞬間、二人は同時に沈黙する。
少し大きめのベッドが部屋に一つ。
部屋の真ん中には、気まずいほど小さな丸テーブルがぽつんと置かれている。
──同時刻
黒フードの男──いや、魔王は、屋根の上から魔眼を通して部屋の様子を覗き見していた。
「ふむ……ベッドが1つだけと。これは……ほう……?」
魔眼に映るのは、互いに視線を合わせようとしては逸らす二人。
その頬はわずかに赤い。
魔王の胸が、なぜか自分でもわからぬ高鳴りを見せる。
「いや、これは……戦の鼓動とは違う……え、我は何をドキドキしておるのだ……?」
「……あー、その、今日は……助かったな」
にすけが切り出そうとした瞬間。
「わっ!」
フィリーネがテーブルの足に引っかかり、よろけた。
咄嗟ににすけは彼女を抱き寄せる。
──ふわりと、甘い香り。
金髪ツインテールが肩に触れる。
胸元のやわらかさが……。
「……っっ!」
二人同時に硬直。
魔王の視界にも、その一瞬がスローモーションのように映る。
口元に薄い笑みが浮かび……いや、なぜか耳まで赤い。
「こ、これは……! いや、いかん、我まで心拍数が……!」
「な、なに抱きしめてんのよ、この変態っ!」
フィリーネが真っ赤になってにすけを突き飛ばす。
「お、お前が転びそうだったからだろ!」
「言い訳禁止!」
「理不尽すぎるだろ!」
ツンデレ炸裂の口論が、静かな夜をにぎやかに染めていく。
そして、そんな二人のやり取りを屋根の上で覗き見る魔王は、ふと呟いた。
「……やはり、興味深い。だが、まだ……近づく時ではない」
月明かりの下、魔王の魔眼は輝きを増していた。
その胸の高鳴りは、まだ収まりそうになかった。
一方二人はというと...
ぎこちない空気を振り払うように、にすけがわざと明るい声を出した。
「……そういや、今日の客の反応、すげー面白かったな」
フィリーネも、さっきまでの赤らんだ頬をほんの少し隠すように、ベッドの端に腰を下ろしながら笑みを浮かべる。
「そうね。最初は“銀貨1枚!? ぼったくりじゃないの!?”って顔してたくせに……一口試した途端、全員手のひら返し。あの瞬間、なんか……爽快だったわ」
「だよなぁ。あの“やられた”って顔、忘れられねえ」
「ふふ、たまらないわよね、ああいうの」
二人の笑い声が、狭い部屋にやわらかく広がる。
さっきまでの気まずさが、少しずつ温もりに変わっていく。
「……ねぇ、にすけ」
ふとフィリーネが、視線を逸らしながら声を落とした。
「アンタ……この世界に、恋人とか……いたりするの?」
「お、おれ? いや……いねぇよ。そもそもこの世界に来たの今日だし……前の世界でも恋愛とか考える余裕なかったしな」
「……ふぅん」
...沈黙...
互いに顔を見ようとすれば、なぜか胸の奥がくすぐったくなる。
そして、なぜか魔王の魔眼も、その会話を一言一句逃すまいと魔眼の光を増していた。
「じゃあ、好きなタイプは?」
「お前、急に攻めてくるな……」
「別に。ただの世間話よ」
……と、口では言うが、フィリーネの耳はほんのり赤く染まっている。
その時、魔王が心の中で小さく呻いた。
(……くっ、なぜ我まで鼓動が早まる……!)
二人の距離は、少しずつ、しかし確実に縮まりつつあった。
「……で? お前は?」
にすけが逆に問い返すと、フィリーネは一瞬だけ目を泳がせた。
「わ、私? そ、そんなの……今は興味ないわよ」
「“今は”ってことは、前はいたってことか?」
「っ……! べ、別に! いたとか……いなかったとか……」
彼女は急にベッドのシーツをいじり始める。
その仕草が、なぜかやけに女らしく見えてしまい、にすけは無意識に視線をそらした。
(……な、なんだこの空気は……! いかん、胸が変に熱い)
魔王は屋根に腰を下ろし、魔眼越しにそのやりとりを凝視していた。
(いや、これは観察だ。研究だ。決して興味本位などでは──)
内心で言い訳を繰り返すも、魔眼の焦点は二人の手元、そして微妙に近づく肩と肩の距離から離れられない。
「……なぁ、フィリーネ」
「な、なによ」
「今日さ、屋台の横で笑ってた時……お前、すげー楽しそうだったな」
「……え?」
「なんか……ああいう顔、もっと見たいって思った」
その言葉に、フィリーネの鼓動が一気に早まる。しかし、ツンデレはツンデレであることを忘れない。
「ば、ばかじゃないの……! そんなの……銀貨がたくさん入ったからに決まってるでしょ」
「……そっか」
にすけは笑ってごまかすが、どこか名残惜しそうに視線を落とす。
(おおお……これは……! この距離、この間、この視線……! くっ、我もこの部屋に突入したい……!)
魔王のこめかみがぴくぴくと震える。
(だがまだだ……この二人の関係がどう動くか、もう少し……観察だ!)
部屋の中、互いに何かを言いかけては飲み込む二人。
外の魔王もまた、胸のざわめきを飲み込み、息を潜めた。
その後、フィリーネが先に湯浴みを終えて戻ってきた。
髪はまだほんのり湿り、金色のツインテールが少しだけ解けて肩に落ちている。
そして――その姿を見た瞬間、にすけの呼吸が一拍遅れた。
パジャマ代わりの大きめシャツ。
淡いピンク色に小さな花柄が散らされ、袖も裾もやや長めで、彼女の細い体をすっぽり包んでいる。
胸元はゆるく開き、首筋から鎖骨にかけてのラインが湯上がりの熱でほんのり紅潮していた。
「……お前、その……」
「なによ」
「似合ってる。……すげぇ可愛い」
一瞬、フィリーネの耳まで赤く染まった。
だが、すぐにお約束の返しが飛んでくる。
「なっ……! なに言ってんのよ、このバカ! ……っべつに、宿のタンスにあったやつ着ただけなんだから!」
彼女はぶんっと視線をそらし、ツインテールの毛先からぽたりと水滴が落ちる。
(な……ななな……! 湯上がりピンク花柄シャツ……反則だろこれは……!)
窓の外、魔眼を覗き込む魔王は思わず背筋を震わせた。
(あのゆるっとした袖口、首元のあき……! ぐぬぬ……人間界の宿、やるではないか!)
にすけは心臓を抑えながらも、まだ視線を外せない。
フィリーネは唇を尖らせつつも、内心では褒められた言葉が頭の中をぐるぐる回っていた。
「じゃあ俺も湯浴みしてくる」
と言って部屋を出て行ったにすけを何も言えず見送るフィリーネ。
湯浴みから戻ったばかりの身体はまだ火照っていて、襟元からひんやりした夜風が入り込むたび、変に落ち着かない。
髪は完全には乾いていないけれど、今日はこれでいい。
……というか、今はそんなことより――
(……ほんと、あの顔……)
部屋に戻った瞬間のにすけの反応を思い出して、胸の奥がむず痒くなる。
別に、わざとじゃない。ただ宿に置いてあったパジャマを着ただけだ。
なのに――あんな真っ直ぐな目で、あんなふうに……。
「似合ってる。……すげぇ可愛い」
頭の中で、あの低くて真剣な声が繰り返される。
慌てて「バカ!」なんて返したけど、正直、嬉しかった。
それに……ちょっと安心した。
(銀貨のことも……すぐ返されたら、たぶん、それっきりになってたかもしれない)
(もっと……もっと食べたいのよ、アンタの和食。あんな味、今まで知らなかったんだから)
視線を窓の外にやっても、月明かりに照らされた市場の通りが静かに光っているだけ。
なのに、妙に心臓が落ち着かない。
なんだか、さっきからずっと変な感じだ。
(……これって、まさか、恋ってやつ……?)
「や、やめやめっ!」
思わず声に出して首を振る。
そんなとき、浴場のほうから水音と、にすけの気配が微かに届いた。
胸の奥で、また何かが小さく跳ねた気がした―
浴場の戸が静かに開く。
立ち昇る湯気の向こうから現れたのは、いつもの和食職人……のはずなのに――
(……な、なにあれ……)
髪を濡れたまま後ろへ撫でつけ、オールバックにしたにすけは、昼間の柔らかい雰囲気とはまるで別人だった。
目元がすっと鋭く見え、頬や顎のラインがくっきりと浮かび上がっている。
さらに宿の貸し出し甚平が程よく肩から胸のラインを見せ、鍛えられた腕が目に入り――思わず息が詰まった。
(……ずるい、そんな顔……)
目を逸らそうとした瞬間、心臓が跳ねる。耳まで熱くなっているのが自分でも分かる。
──そして、その様子を魔眼越しにじっと見ている黒フードの影。
魔眼の奥で、我(魔王)は思わず前のめりになる。
『おいおいおい……お嬢さん、その顔、完全に落ちてるじゃないか。
あぁ〜くそっ! なぜ我は今日、あの貝スープにありつけなかったんだ……!』
心の底からの悔しさと、妙な恋バナ実況魂が入り混じり、つい独り言が止まらない。
しかも、甚平姿のにすけが部屋に歩み寄るたび、フィリーネの視線が泳ぐのを見逃さない。
『……あーあ、これ、もしや、明日あたりまた胃にくるやつを見せられるのでは?』
魔王の胸中で、不思議な高鳴りが小さく続いていた。
「ど、どうした? 顔、赤いぞ」
甚平姿のにすけが首をかしげる。
その距離が、近い。近すぎる。
視線が合った瞬間、フィリーネは反射的に布団へ飛び込んだ。
「も、もう寝るっ!」
掛け布団を頭まで引き上げ、声だけが小さく響く。
顔は真っ赤のまま、鼓動はまだ落ち着かない。
そんな彼女の様子を見つめながら、にすけは首を傾げた。
「……寝るの、早くないか?」
答えはない。布団の中からは、微かに漏れる息だけ。
──そのやり取りを魔眼で覗いていた魔王は、もはや膝を抱えて転げ回りそうになっていた。
『あ〜〜っ! なんだこの青春っぷりはっ! こっちは眠れなくなるじゃあないか!』
こうして、互いの鼓動を隠しきれぬまま、ドキドキの一夜は静かに更けていった。
そして翌朝──
にすけはふと思い出す。
「フィリーネ、昨日売り上げた分で、和食に使える調味料とか素材を探してみようと思うんだが」
「……ふん、付き合ってあげてもいいわよ」
ツンと澄ました横顔の奥に、微かに浮かぶ期待の色。
こうして二人の“買い物デート”が始まろうとしていた──。
――チリンッ♪
《フィリーネの心を揺らしました 経験値+50》
《現在の累計経験値:850》
「……は?」
まるで背後から桶いっぱいの冷水を浴びせられたように、俺は固まった。
さっきの、ほんのわずかな会話で……?
まさか、あれで経験値になるなんてな―
ベッドの上で顔を真っ赤にしてそっぽを向くフィリーネと、脳内アナウンスが重なって――俺はただ、絶句するしかなかった。
次話、『ツンデレエルフと歩く市場は、出汁より芳醇』へ続く。
――あとがき(魔王クロフィードより)――
ククク……見せてもらったぞ、人間ども。
第6話――あの小娘エルフと料理人との“一夜”。
ふむ、実に面白い。寝食を共にしただけで胸を高鳴らせ、互いに気を遣い合う……。
だが余の眼には、それすらも立派な“儀式”に見えた。
一つ屋根の下で眠る――それはもう、人間にとっては契約や血の盟約に等しいのだろう? ククッ、実に変態的な解釈だとは思うが、余にとってはこの方が楽しめる。
観察する者の愉悦は、些細な仕草や吐息に宿るものよ。
あの夜の緊張感、微睡みの中で聞こえる心臓の鼓動……余にはすべて響いていたぞ。
さて、人間よ。
ここまで覗き見して楽しんだなら――代価を払え。
ブックマークを刻み、星を五つ輝かせ、感想を残すのだ。
余が次に暇を潰すとき、その言葉を肴にさせてもらおう。
……クハハ、次はどんな“妙なる夜”を見せてくれるのか、期待しているぞ。