第3話「偶然か必然か──魔王お忍びの退屈しのぎがまさかの僥倖!?」
──退屈だ。
これほどまでに、世界とは色あせて見えるものだったか。
我は五百年、迷宮の奥深くで引きこもり続けてきた。
かつては天を焦がす戦火の中心にあり、幾千の軍勢を蹂躙し、王も英雄も屠ったこの私が、だ。
理由は単純だ。
……人間という生き物に、失望したのだ。
五百年前、彼らの浅ましさを骨の髄まで知った。
欲望と裏切り、安っぽい忠義、そして弱者のくせに高慢な物言い。
倒す価値すら、もはや感じなかった。
それでも生かしておくのは、いくばくかの愉しみのためだ。
迷宮の一層から二十層はあえて開放し、魔物を適度に配置し、素材の宝庫にしてやった。
人間どもがせっせと採集し、時に命を落とせば、その魂は迷宮の魔力に変換される。
──効率的な循環、そして暇つぶし。
だが、それも五百年も続ければ……
刺激など、とうに失われていた。
今日は気まぐれで、久方ぶりに地上へ出てきた。
お忍びでの退屈しのぎだ。
黒い外套を羽織り、魔力を極限まで抑え、人族の市場をただ歩く。
肉の焼ける匂い、干物の塩気、甘い果物の香り。
どれも悪くはない。
……だが、驚きも、心の揺らぎもない。
「……やはり、つまらぬ」
そう呟き、帰ろうとした──その時だ。
路地の奥で、異質な香りがした。
澄みきった何かの香り。
誰かが料理しているのか?
だがそれは、ただの料理の匂いではなかった。
魔力を感じる。
それも、食材そのものから引き出した、極めて繊細な魔力の揺らぎ。
足が勝手に向かう。
人垣をかき分けると、そこには見たことのない男がいた。
黒髪に精悍な顔立ち、年の頃は二十前後。
だが包丁を握る手は迷いなく、火加減の見極めも常軌を逸している。
大鍋の中では、巨大な二枚貝の身が丁寧に下処理され、芳醇な香りを放っていた。
湯気の向こうで、その男は真剣な眼差しをしている。
一切の雑音が耳に入っていない。
その男の美しい所作に目が離せなくなっている自分に気付く。
最初に口にしたのはエルフ娘だった。
彼女は一口すするなり、目を見開き、そして──涙を零した。
その涙に、私は確信した。
あれはただの料理ではない。
食べた者の心を揺さぶり、魂に触れる何かがある。
続いて漁師らしき男が一口。
脳天を貫かれたような顔をし、思わず鍋を覗き込む。
周囲の野次馬たちも、口々に驚嘆の声を上げ、笑い、涙し、言葉を失っている。
……ああ、久しく忘れていた。
こういう光景を。
私が望んでも得られなかった、純粋な感動を。
「──見つけた」
思わず呟いていた。
それは、獲物を見つけた捕食者の言葉ではない。
五百年、退屈から救える何かを求め続けていた。
あの男こそ、その答えかもしれない。
どう料理してやろうか。
いや……料理されるのも、悪くないかもしれない。
そして私は、湯気の向こうの男を見据えた。
この退屈な日々を終わらせてくれる予感が、胸を満たしていく。
──この出会いは、偶然か、それとも必然か。
湯気が収まり、ざわめきが少し落ち着く。
だが私の心は、逆にざわついていた。
あの男……にすけ。
本当の名はまだ知らぬが、確かにそう呼ばれていた。
あれほどの技を持つ者が、この迷宮都市ラザニアに突如現れた理由──知りたい。
だが、どう近づく?
私は魔王だ。
正体がバレれば、この場は瞬時に戦場と化すだろう。
せっかくの「お忍び」が台無しになる。
「……よし、後をつけるか」
我ながら姑息だと思う。
だが、初手から声をかけては、逃げられる可能性がある。
人間は、得体の知れないものに本能的な恐怖を抱く生き物だ。
私は外套のフードを深くかぶり、気配を極限まで薄くする。
影に溶けるように、あの男の後ろへ回り込んだ。
市場を出た煮介は、金髪のエルフ娘──フィリーネと呼ばれていたか──と並んで歩いていく。
二人は何やら笑いながら話している。
……くっ、会話を聴き取りたいが近づきすぎると怪しまれる。
距離10メートルをキープ。
路地に入った瞬間、私は柱の陰に身を隠す。
「……ふぅ、危なかった」
一瞬、振り返られた。
あの眼光……鋭い。
まさか気配を感じ取ったか?
ならば、ただの料理人ではない。
角を曲がるたびに、家の角や樽の陰、露店の看板の影にスッ……と消える。
自分でも情けないほどのコソコソぶりだ。
しかし──なぜだ。
こんな滑稽な真似をしてまで、目を離したくない。
いや、視線を逸らすことすら惜しい。
「……やはり、面白い」
この胸の高鳴りは、五百年ぶりだ。
あの男と接触する方法……
焦るな、機会は必ず来る。
それまでは、こうして“観察”だ。
──まるで獲物を狙う獣……いや、これはただのストーカーではないか?と自分にツッコミ入れたりもしてみた。
次の瞬間、フィリーネがピタリと立ち止まった。
背筋が冷えた。
まさか、気づかれたか──!?
彼女がくるりと振り返る。
その瞳が、一直線にこちらを射抜いた。
「……あのさ、後ろの黒フードの男、何者?」
……やばい。
心臓が跳ねた。
いや、跳ねたどころではない。
一瞬で心臓が口から飛び出しそうになった。
だが我は魔王。
ここで狼狽えるわけにはいかぬ。
「……お、おや? お嬢さん、もしかして私のことを?」
こ、声が震えている!?
落ち着け、我は千年を生きる魔族の王だぞ。
この程度、軽くいなせるはず──
「……怪しいわね......」
フィリーネはじっと私を見据える。
まるで見透かすような眼差し。
クッ……!
この娘、ただのエルフではない。
長年の戦場で培ったものと思われる勘が働いているのか?
私は咄嗟に、背中に抱えていた麻袋を前に回す。
中身は──市場で買った香草や香辛料、そして干し肉。
もちろん、これは偶然の買い物ではなく「お忍びのカモフラージュ」だ。
「いやいや、お嬢さん。私はただの……旅の香辛料商人ですよ。
ほら、この“火蜥蜴胡椒”なんて、涙が出るほど辛いと評判でしてね」
私は袋から、赤黒い小瓶を取り出して見せる。
……よし、これでただの商人と思わせ──
「……ふーん」
フィリーネは視線を煮介へと向けた。
「アンタ、こんな香辛料買う予定あった?」
「いや、全然」
──やばい。
ここは退くしかない。
私は肩をすくめ、愛想笑いを浮かべる。
「いやあ、ちょっと道を間違えましてね。お邪魔しました」
そう言い残すや否や、私は影へと身を滑らせた。
距離を取る。
だが、完全に引き下がるつもりはない。
角の向こうで二人が歩き出すのを見届けると、再び尾行を再開。
私は小声で呟く。
「……やはり面白い。あの料理人、もっと知りたくなった」
そう、この興味はもはや抑えられぬ。
獲物は見つけた。
あとは、どう仕留めるか──
我は遠目から、あの男──煮介の背中を見つめ続けた。
市場での見事な手際、誰もが顔をほころばせ、涙すら流すあの料理。
……人間ごときが、なぜあの領域に到達できる?
あれはただの技術ではない。
味に魔力が宿っていた。
いや──もっと原始的で、抗えぬ力……魂に触れる何か。
奴の手は、何百年も鍛錬を重ねた剣聖のそれと同じ“無駄のなさ”を持ち、目は迷宮の深層を見据える猛者と同じ“揺るぎなき力強さ”を秘めている。
料理人にして戦士。
戦士にして哲学者。
……お前は、一体何者だ?
我の胸中で、五百年ぶりの熱がじわりと広がる。
放っておけるはずがない。
「……ふふ、奴ら、この後ギルドへ向かうようだな...」
香りに導かれるように、足が自然と動く。
だが近づけば近づくほど、疑問は深まるばかりだ。
──人間でありながら、なぜ魔王たる私の嗅覚すら惑わせられる?
その答え、必ずこの舌で暴いてやるとしよう。
次話、『背後の視線──貝柱無双の余韻に忍び寄る影』へ続く。
――あとがき(魔王クロフィードより)――
フン……ここまで読み進めるとは、なかなか根気のある人間よ。
実はな、余はさっきから貴様らを“尾行”していたのだ。影に潜み、この物語をどう味わうか……じっくり“観察”させてもらった。
人間というのは面白い。暇つぶしのつもりで眺めていたはずが、気づけば続きが気になって仕方がない。
――まったく、退屈しのぎのつもりが、妙な楽しみに変わってしまったわ。
だからだ、人間よ。
ブックマークを押せ。星を五つ、煌めかせろ。そして感想を一言残すのだ。
それくらいは余の暇つぶしに付き合った“代価”と思えば安かろう?
……ククッ、次も覗き見させてもらうぞ。
貴様がどんな顔で続きを読むのか――余の観察はまだ終わらんからな。