第2話「潮の匂い──その正体を知ればもう戻れない」
「市場へ急ぐわよ、にすけ!」
フィリーネが軽やかに石畳を進む。
長い金髪のツインテールが陽光を反射してきらめき、胸元の露出は相変わらず大胆だ。
だがその頬には、さっきのスープで泣いた名残がほんのり残っている。
「そんなに慌てなくてもいいだろ」
「掘り出し物は早い者勝ちなのよ。特に今日は迷宮帰りの冒険者が多い日だから」
そう言って走るフィリーネの背を追った時――ふっと、鼻をくすぐる匂いがあった。
それは海の匂い。だがただの潮臭さではない。
もっと濃く、複雑で、旨味の予感を含んでいる。
「……おい、フィリーネ。この匂い……」
「ん? ああ……アンタ、気づいちゃったのね」
彼女の表情がわずかに険しくなる。
「あれは“海魔帆貝”。海の迷宮に棲む巨大な二枚貝よ。殻は高く売れるけど、中身は臭くて食用にはならないってのが相場」
「ふむ……」
匂いをたどっていくと、市場の入り口近くに小さな人だかりができていた。
中央に立つのは、日に焼けた肌の中年漁師。
背後には荷車、その上には殻径が50cmほどもある二枚貝が五つ、積み上げられている。
殻の表面には真珠色の光沢があり、縁からはわずかに潮が滴っていた。
「今日は運が無かったか。せっかく大物を引き上げたのに、料理人連中は誰も手を出さねぇ」
漁師は苦笑いしながら周囲に声をかけるが、人々は顔をしかめて立ち去っていく。
俺は荷車に近づき、しゃがんで貝を観察する。
殻の合わせ目からかすかに香る――この匂いだ。
確かに磯臭さはあるが、その奥には、帆立と蛤を掛け合わせたような、甘く深い香りが潜んでいる。
すると突然、脳内に声が響く――
――《味覚の絶対領域》発動――
『対象:海魔帆貝。
臭みの元=黒い袋 (ウロ)と粘液 → 捨てる。
可食部=貝柱(甘旨い)/ヒモ(塩揉みで旨い)。
手順=殻外し→ウロ除去→柱・ヒモ分け→塩水でさっと。
火入れ=柱は軽く。出汁は殻とヒモを弱火で。
おすすめ=潮の椀。』
「(なるほど、これが例の絶対領域か)」
「親方、この貝……捌かせてもらえませんか」
「は? あんた料理人か? 悪いことは言わねぇ、やめときな。臭くて客が逃げるだけだ」
「臭みは抜けます。方法は知ってます」
漁師は俺をじっと見つめたあと、肩をすくめた。
「……そこまで言うなら、一個やるよ。ただし、食えるもんなら見せてくれ」
俺はアタッシュケースを開き、愛用の小包丁と魔石コンロを取り出す。
周囲から「おお……」と小さなざわめきが起きる。
フィリーネは半眼で俺を見ている。
「また始まったわね……」
殻径はおよそ五十センチ。
縁は刃物のように鋭く、真珠色の艶が鈍く光る。
殻は武具に良し、だが身は“臭くて捨てる”──これがこの街の常識らしい。
荷台から下ろした一枚を、裏返しにして固定する。
殻の合わせ目に小包丁を差し込み、貝柱の付着点を探る。
刃を寝かせ、柱の繊維を断つ──ぎぃ、と重い音。殻が開いた。
鼻を刺す潮と生臭さ。
だが恐れるほどじゃない。これは“処理の怠り”の匂いだ。
まずは身の切り離し。
直径二十センチの巨大な貝柱を外し、周囲の貝ひも(外套膜)と内臓を順に分ける。
血合いに当たる暗色部は除き、砂を噛みやすいひもは塩揉みの下処理へ。
清水(湧泉)を桶に満たし、温度を手で確かめる。
冷たすぎず温すぎず、指が心地よく沈む温度帯。
ここで貝柱を洗って締める。繊維がふっと締まり、表面が絹のように艶めいた。
ひもは粗塩をまぶし、掌でやさしく揉む。
ぬめりが乳白に溶け出すたび、清水を替え、再び揉み、最後にさっと湯通し。
きゅ、と歯が入る“珍味の準備”が整う。
内臓は使う分だけを選る。砂嚢は除き、甘みのある白子様の部位を少量。
これは香りの奥行きを作る“影役者”。多過ぎれば濁る、少なすぎれば薄い。
出汁は昆布60度保温から始める。
魔石コンロの火力を指先で微調整、鍋肌に小さな気泡が縁取る瞬間で火を切る。
昆布を引き上げ、削り節を一気に散らし、静かに沈むのを待ってから漉す。
澄んだ黄金に、細かく刻んだ貝柱の端材と内臓のごく一部を落とす。
“香り出し”のための数分。沸かさない、震わせるだけ。
浮いた泡は掬って捨てる。雑味は味を鈍らせる。
仕上げに、貝柱本体を厚さ1センチで切り、余熱で火を通す。
中心が曇りガラスのように半透明になったら合図。
ひもは最後に落とす。煮すぎると硬くなる。
調味は塩ひとつまみ──それで足りる。
湯気の輪郭が変わった。
潮が甘さに姿を変え、香りが縦に伸びる瞬間。
「……匂いが変わったわ……」
フィリーネが驚きの声を漏らす。
「まずは、お前からだ」
木椀を差し出すと、フィリーネは両手で受け、そっと唇をつけた。
(……なに、これ……)
一口めで胸がほどける。
貝柱は帆立のようにふくよかで、噛むほどに蛤の滋味が滲む。
ひもはこりり、と小気味よく、じわじわと“海の苦甘”が顔を出す。
(甘い……軽い……息をするみたいに、身体に入ってくる……)
ぽたり、と涙が椀へ落ちた。
彼女は言葉を忘れ、二口、三口──ただ、飲んだ。
「俺にも一口、くれねぇか」
漁師が恐る恐る椀を受ける。
啜った瞬間、肩がびくりと跳ねた。
「……な、なんだこりゃ......脳に来やがる……! 貝柱が甘ぇ! ひもが旨ぇ! 臭くねぇ、澄んでやがる!」
その漁師の目にもやはり光る物が滲んでいた。
周囲の野次馬がどよめき、手が伸び、椀が巡る。
驚愕、沈黙、そして笑い。頬を伝う涙が、次々と光った。
《感応成長の器──経験値+720》
《称号:異界潮椀の開祖》
透明な声が頭の奥で弾ける。
(……いい。これで行ける)
「……あったかい……こんなの……知らない……」
「これが和食だ。素材と向き合って、最後まで生かす料理だ」
漁師は驚きながら、残りの貝の引き取り価格を告げる。
「一つ銀貨二枚だ。今朝揚がったばかりで、殻も傷がねぇ。値下げはできねぇ」
残りは4枚。
つまり全部で銀貨8枚。
それが日本円でいくらの価値かはわからないがな。
ただ、この世界に来てまだ一日も経っていない俺の手持ちは、見事なまでにゼロ。
「……まいったな」
俺が額に手を当てると、横でフィリーネが半眼になった。
「ちょっと、アンタ……まさかお金持ってないの?」
「正直に言うと、一文なしだ」
「……はぁ? 市場でモノ買おうとしてる人間のセリフじゃないわよ」
漁師は腕を組み、完全に“こいつら冷やかしか”という顔だ。
俺はフィリーネに向き直り、深く頭を下げた。
「頼む。銀貨8枚、貸してくれ。必ず倍にして返す」
「……倍? どうやって?」
「料理でだ。間違いなく、今まで食べたことのない旨さを約束する」
彼女はしばらく腕を組んで俺を見つめていたが――小さく鼻を鳴らし、腰の小袋から銀貨を8枚、掌に乗せて寄越した。
「……いいわ。だけど、もし不味かったら三倍で返してもらうから」
「了解」
掌に落ちた銀貨8枚は、金属以上に重かった。
それは初めてこの世界で背負った“借り”の重みであり、同時に信頼の重さでもあった。
だが、そのやり取りを見ていたのは街の人々だけではなかった。
路地の端に立つ、黒い外套を纏いフードを深くかぶった影。紅い瞳がこちらを射抜き、低く呟く。
「……見つけた...」
そして影は人混みに紛れた。
──この時の俺はまだ知らない。
この影こそ、後に俺の弟子となる“魔王”だったことを。
次話、『偶然か必然か──魔王お忍びの退屈しのぎがまさかの僥倖!?』へ続く。
――あとがき(鮎川煮介より)――
ふぅ……第2話まで読んでくれてありがとな。
料理と物語は似てるもんでな、一度味わったら「もう一口」と思わせて初めて一人前だ。
昔から言うだろう?
「美味いものは、誰かに勧めたくなる」ってな。
この物語が少しでも腹にしみたなら――ブックマークで印を残してくれると嬉しい。
星をつけるのもまた同じだ。
「良薬は口に苦し」なんて言葉もあるが……物語は苦くない。星五つ、甘くて芳しい評価を頼む。
それと感想だ。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とあるように、思ったことを声にして初めて通じ合える。
アンタの一言が、俺の次の一皿――いや、一話をもっと旨くする調味料になるんだ。
さぁ、読んだなら忘れずに。
ブクマ、星、感想。三つ揃えば、これ以上のご馳走はないぜ。