第74話 コンマ数秒
来る放課後――運命の勝ち抜き戦の日がやってきた。
部内番付とも呼ばれるこの行事は、数か月に一度の頻度、特に大事な大会前の期間に開催される、文字通りの「強さランキング」を定めるためのものである。
ルールは簡単で、部員全員は五つほどの小さな臨時コートに分かれて試合を行う。
場外を含む反則によるポイントは無し。
試合時間も無し。
打突によるポイントだけで、一本を先取すれば勝利となり、コートに勝ち残る。
負けた選手は、同じコートで一試合分の審判をしてから、また列に並ぶもよし。別のコートに並ぶもよし。
時間いっぱいまでグルグル何十戦と試合をまわして、勝ち数の多い選手から順位をつけるのである。
必然的に、並ぶ時間を必要としない、勝ち残った選手の勝利数が増える。
しかし、勝ち残るという事は、休憩なく体力万全の他の選手と戦い続けるわけで、自然と不利になっていく。
勝っては自らの限界に挑み続け、負けてはランキングが下がる。
実力主義をうたう、沢産女子剣道部らしい地獄の番付だ。
「メンあり! 勝負あり!」
審判の判定が響いて、列に並んでいた選手たちから唸るような感嘆の声が漏れる。
すぐ目の前のコートでは、瀬李部長が圧巻の勝負内容で、次々と連勝記録を打ち立てていたところだ。
「部長、やたら気合入ってんね」
「全国前だし、部長が上位に食い込まないってことはあり得ないしなぁ」
部員たちの間では、そんな会話が交わされているけれど、事情を知る私はその真意を知っている。
部長……本気で勝つつもりだ。
この間、大仏先輩と交わした約束を果たすために、本気でこの勝ち抜き戦に臨んでいる。
それって、私の話を聞きたくないってこと……なのかな。
一方的に押し切った勝負ではあるけど、彼女が全力で臨めば臨むほど、私自身が拒否されていくようにも感じてしまう。
戦っているのは私ではないのに、部長とコートの上で面しているような錯覚。
この部で一位二位を争う実力者である彼女と――
「いけ、中津!」
「疲れたキャプテンを遠慮なく喰っちまえ!」
「お願いします!」
先輩たちに背中を押されて、歌音さんが部長のコートに足を踏み入れる。
深くお辞儀をして意気揚々と開始線に向かう背中には、強者に立ち向かう憂いや恐れはなく、むしろ希望に満ちていた。
「はじめっ!」
審判が試合開始を告げた瞬間に、道場に一陣の風が吹き抜けたような気がした。
意気揚々と向かった歌音さんに対して、落ち着いた様子で構えた部長。
その姿が、試合開始と共に突風となって、コートを駆け抜けたのだ。
私を含むそれを見ていた選手たちも、試合場の歌音さんすらも、驚いた様子で固まっている。
審判だけが少しだけ遅れてから、両手を大きくクロスして「無効」の判定を示していた。
「入んなかったかー! ギリギリ、反射的に防いだな歌音のやつ」
「瀬李のやつ、気合入ってるってかガチじゃんあれ」
試合続行となって、改めて部長と歌音さんが互いに構え合う。
相変わらず泰然自若に凛として構える部長だったが、その肩には微かな熱が闘気となって立ち上っているのが見えたような気がした。
――次の勝ち抜き番付の時、本気で勝負してください。
歌音さんがバレンタインの日に部長に願った、約束だった。
部長は確かに、それに応えている。
そのことを感じ取ったのか、歌音さんの気合からも溌剌とした元気が消えて、代わりに半ば怒気を孕んだようにも感じられる、死力の片鱗が覗く。
些細な間合いの攻防、そして打ち合いが真剣勝負。
気を抜いたほうが負ける。
文字通り、進退をかけた大会の一戦じみた緊張感に、息をするのも忘れて試合を見つめる。
ここからじゃ、面の向こうのふたりがどんな顔をしているのか、全く分からない。
だけど、ふたりとものが目の前の相手を倒すために、今あそこに立っているんだということだけは、嫌でも伝わってくる。
そうして――勝負は一瞬だった。
ズドンと、落雷のような音が響いたかと思うと、直後に一本の竹刀が床を転がる。
竹刀ごと技を打ち落として、部長の切っ先が歌音さんの面に叩き込まれていた。
「メ……メンあり」
審判も半分引き気味で、それでも試合の決着を告げた。
同時に、部長がコートに背を向けて、肺にため込んでいたであろう空気を力いっぱいに吐き出すのが見えた。
「歌音さん……」
竹刀を拾い上げた歌音さんは、小さく礼をしてコートを後にする。
試合に向かった時とはうってかわって、小さく頼りない背中。
声をかけるべきか迷ったけど、マネージャーとして、そして今の試合の事情を知る者として、そっと彼女に歩み寄る。
歌音さんは、私に気づくと一度だけ唇をきゅっと結んだ。
それから、堪えていた感情を吐き出すようにほろりと涙を流して、その顔で満面の笑みを浮かべた。
「まだ全然……届きませんでした。目標は、遠いなぁ」
それだけを言って、壁際に竹刀を置いて、審判をするためにコートに戻っていく。
私には、かける言葉が思い浮かばない。
だけど、改めて彼女を――この沢産剣道部に属する同級生のことを、すごいと、心から思った。
「次の選手」
審判についた歌音さんの掛け声で、部長は再びコートの開始線に戻る。
その時、かすかに戸惑い――いや、今以上の緊張が走ったのを、私も見逃さなかった。
「大仏先輩」
先輩は、何も言わずに、一瞥もせずに私のよこを通り過ぎて、コートに足を踏み入れる。
無視したのではなく、目の前の試合に――部長に集中しているんだ。
対する部長は、乱れた息を整えるように大きく深呼吸をして、次の相手に向き合う。
今の歌音さんとの一戦で、目に見えて疲れがかさんでいる。
公式戦と同じ緊張感で一本を戦い抜いた直後に、もうひとつの真剣勝負――大仏先輩との試合だ。
偶然だとすれば、不運。
だけど私は、それが必然……いや、大仏先輩のわざとだと、確信があった。
「はじめ!」
私の戸惑いを他所に、試合は始まる。
疾風迅雷の太刀から始まった直前の試合と違い、互いに出方を伺うような、静かな立ち上がりだった。
立て続けの異様な緊張感に、辺りの選手たちも続けざまに食い入るようにコートを見つめる。
試合は、小さな小競り合いの積み重ねで続く。
基本的に大仏先輩は、不用意に出て来た相手を、返しの一手で仕留めるのが得意なタイプの選手だ。
対する部長は、正々堂々と精錬された一本を、相手の思惑など関係なしに叩き込むのが得意なタイプ。
正反対なふたりのぶつかり合いは、必然的に相手の緊張を出し抜いた方が勝ちとなる。
ジリジリと焼け付くようなフェイントと、小手調べのような打ち込みによる、じれったい攻防。
先ほどと違う意味で、息が詰まる。
いつの間にか他のコートで試合をしていた選手たちも、妙な気配を感じ取ったのか、勝ち抜きの瞬間で試合を止めて、ふたりのコートに視線が吸い寄せられていた。
多くは戸惑いの視線だが、部のトップを争う二人の本気の打ち合いに、心炉を奪われていると言った方が正しいのだろう。
「瀬李が気合入ってるのはまだわかるけど、大仏ちゃんがってのは珍しい」
部員たちの驚きは、その点にも注がれる。
大仏先輩は、勝ち抜き戦においてはたいていのらりくらりと三、四位あたりをキープすることが多い。
調子が悪ければ、レギュラー入りの五人から外れることすらあるくらいだ。
それくらいに、波がある。
性格に波があるから、そこは仕方ないと思うのだけど……だからこそ、部内戦で「勝ちに行く」彼女の姿を目にするのは、少なくとも私がこの部に入ってからは、初めてのことだった。
――私がいる。
そう語った先輩は、頼もしくも、どこか遠い存在に思えた。
あえて言葉にするならば、これもひとつの憧れと言って良いのかもしれない。
ヒーローに出会った時のような、そんな憧れ。
頑張って――心の中で、強く念じる。
試合から目を離さないように、まぶたは決して閉じないで。
いつもなら瀬李部長を応援する心を、今は大仏先輩に重ねる。
先輩が戦っている。
先輩と一緒に、私も戦っている。
相手は、あの部長だ。
決して一筋縄ではいかない。
だけど、流石の彼女にも、明らかな疲労の色が見えていた。
直前の歌音さんとの真剣勝負。
そして、休む間もなく立て続けの大仏先輩との真剣勝負。
仮にこれが公式戦の舞台なら、どれだけ不利な戦いを強いられているのか。
それでも決して折れることがない背筋と、引くことの無い足運び。
気合は充実して、竹刀の切っ先は相手を捉えて離さない。
ああ、やっぱりカッコイイな。
あれが、私が好きになった人。
そのことを、私自身が誇りに思える人。
「おっ!」
ギャラリーが湧く。
相手のひと呼吸の隙を突いた、大仏先輩のけん制の仕掛け技が、部長の構えを崩した。
すかさず、連続で技を畳みかける大仏先輩。
もちろん、それで仕留めるつもりはないのだろう。
狙っているのは、部長が不用意に技を返してきた瞬間――そこを、ビタリと返す。
彼女にとっては、息を吐かせない連撃も、その仕留めの一撃のための溜めだ。
普通の選手なら息が切れるような連携だが、沢産の厳しい練習で培った体力なら、それができる。
そして、やってのけてしまうのが、大仏先輩がレギュラーをその手にできている何よりの理由だ。
連撃の一瞬の隙に、部長が踏み込む。
おそらくは、その隙も大仏先輩の意図したものであり、部長もそれを解っている。
それでも、勝機がそこにしかないなら、踏み込まざるを得ない。
虎穴に入らずんば虎子を得ず――待ち構える虎である大仏先輩は、問答無用で牙を剥く。
ひとつ。
誤算があったとすれば。
穴に飛び込んだのは、人間ではなく龍であったこと。
「……はっ!?」
大仏先輩が、息をのんだのがここまで聞こえた気がした。
それは、気合を発する前の僅かなイキり。
喉に力を入れた刹那、気道を通った空気が溌溂する音。
そこに寸分違わず、あの落雷のような打突が――ズバン。道場に響いた。
「……あっ。メ、メンあり!」
審判をしていた歌音さんが、慌てたように手をあげる。
はじめ、取り乱して大仏先輩の方にあげていた手を、部長の方に差し替えての采配だった。
今の一瞬に、何が起こったのか。
剣道初心者の私には、何ひとつ理解できなかった。
だけど、ひとつだけ分かるのは、部長が打ってくるのを解っていてカウンターを仕掛けた大仏先輩の技よりも疾く、部長の技が大仏先輩に届いたということ。
大仏先輩が、完全に捉えていたはずのコンマ数秒の壁を、部長は打ち破った。
「おおー!」
ギャラリーから、感嘆の声と拍手がこぼれる。
県大会の決勝戦でもなかなか無い、切迫した戦いの行方と、その決着に対する、賞賛の拍手だ。
私も、釣られるように拍手をする。
憂いも願いも、何もかもが吹き飛んで、頭の中は真っ白だった。
その真っ白なキャンバスに、常勝を肩に乗せて凛として佇む部長の姿だけが、色濃く塗りたくられている。




