第64話 葵はん
大急ぎで部員の昼食を作っている間に、伯母さんは寮を後にしていた。
お見送りに出ているのか、はー子先輩もどこかへ消え、久しぶりにひとりで炊事場に立つ。
いろいろと考えることはあったが、料理をしている間だけはすーっと頭の中がクリアになった気分で、とにかく目の前のことだけに集中できた。
それだけじゃダメなのだと言われても、今の私にはそれしかない。
先輩が帰って来たのは、みんなが昼食のあとの小休止を終えて、午後の稽古に向かってからのことだ。
静まり返った寮で、炊事場の水回りをピカピカに磨いていたところで、彼女は顔を出した。
「ちょっと」
戸口から先輩が私を呼ぶ。
その声色は、責めるような、半分諦めたような、怒りつつもどこか頼りない、いつもの芯の強い彼女からは似ても似つかない様子だった。
呼び出しを受けて向かったのは、はー子先輩(と安芸先輩)の部屋。
同じ量の一室なのに、モデルルームみたいに整理整頓された部屋の光景に、思わず圧倒されてしまう。
先輩は、座卓の一角に私を座らせて、備え付けの電子ポットでお茶を入れてくれる。
お茶請けに、最中が添えられた。
「あ、自分で作るタイプ」
「この方がサクサクして美味しいやろ。ウチ、好きなんよ。葵はんのお土産」
彼女の顔が屋でも頭に思い浮かびながら、ふたつに分かれた皮に別途パウチされた餡をつめる。
まっすぐに、こちらの確信を突いてくるような深い色の瞳。
サクリとひと口齧った最中は、焼き立てみたいな香ばしい皮の向こうに、優しい餡の甘みが広がってとても美味しかった。
「で……さっきのは、どういうこと?」
前置きの無い直球に、先輩が思った以上に怒っているのが分かって、萎縮してしまう。
見つめる瞳は、伯母さんのそれとよく似ていて、ふたりから同時に責められているみたいだ。
「昨日の夜、伯母さんが先生と話しているのを聞いちゃったんです。寮の意義というか……是非について話してて」
「それで?」
「寮のこと――部のこと、否定されたような気持になったら、何とか納得させてやりたいって思って。その、個人的な意地みたいなのもあるんですけど……それで、お昼をご馳走させてくださいって流れに」
「……はぁ」
はー子先輩は、盛大に溜息をついて自分の分の最中を作り始める。
「そんなん単なるクレームやん。葵はんの言葉ひとつで寮がなくなるわけでもなし。気にする方がアホや」
「それは……」
「何事もなく今日一日を過ごす。それで、あの人のお帰りを見送る。ウチ、そう言うたやろ」
実際、そうなんだろうけど。
でも、私たちの――私の居場所が否定された気分になって、何も言い返さないなんてこと、私にはできなかった。
「それでも、わざわざ寮や部活の見学までして、それであんな言い方……私は、納得できないです」
「……それはたぶん、ウチのせいやから、謝るわ」
「え?」
思いもよらない返事に、私は俯きがちだった顔をあげる。
先輩は、サクリと齧った最中をお皿に戻して、お茶をひと息挟む。
「ウチがこんな怪我したから。注意力が散漫になってたから。寮生活のせいで気が抜けてるんやないかって、心配になったんやろ」
「そんな――」
「大げさなコトって? 九条の家は、それくらいカッチリしたところやから。ウチならなおさら……」
言いかけて、彼女がかすかに口ごもる。
言いにくいことなのか、私も無理に話を促さず、先輩の言葉を待った。
「まあ……葵はんのことで知っとると思うけど、ウチ、九条家に預けられとるんよ。葵はんとこの、本家」
「伯母さん、ですからご親戚のおうちってことですよね?」
「血の繋がった母親が、葵さんの妹で。もう、身罷っとるんやけど」
身罷るって……亡くなってるってこと?
「そんな、気ぃ遣わんでええよ? 事故で。もう十年も前のことやし、とっくに気持ちの整理はついとる」
「そう、なんですね」
「女手ひとつでウチのこと育ててくれとる母親やったわ。父親は知らん。物心ついた時から、母親とふたり暮らしやった。まあ……そのことも、特に気にしてなかったんやけど。今時、シングルなんて珍しいことやないしな。ただ――」
先輩が、真っすぐ向けていた視線を、ふいと手元に逸らす。
「葵はんのとこに引き取られた時。ウチはいわゆる不義の子で、母親は勘当同然で家から離れていたことを知った」
そうぽつりと零すように語った。
「何度か尋ねたことはあるけど、結局父親が誰かは教えてくれたことは無かったわ。ウチもそこまで興味あるわけちゃうし、そこはどうでもええんやけど」
「どうでもいいって」
「それよりも、勘当された不義の子が仕方なくでも九条の家にいることの方が、周りの風当たりがキツかった。そんな、古の名家ってほどではないけど客商売やし、顔は広い。世間体は、まあ、よくないわな」
「じゃあ、伯母さん――葵さんも、それで先輩に厳しく?」
「逆や、逆。厳しいのはその通りやけど」
先輩は、自嘲気味に笑いながら、ひらひらと手を振った。
「ウチには、この家しか行くところが無いから。仕方なくでも九条の本家で生きていく以上は、強くなれって。お客はんでいるうちは、誰も認めてはくれへんて」
「……そんなの」
私は、思わず座卓に身を乗り出して答える。
「子供にそんなの強いるの、ひどいですよ」
「かもなぁ。でも、ウチは特にそうは思っとらん。そういうとこやから、ガタガタ言っても仕方ないやろ。むしろ、どう生きればいいのか教えてくれた葵はんには、感謝すらしとる」
彼女が、いつもの柔らかい笑みを浮かべる。
「葵はんも、そう思ってウチの面倒見てくれとったって分かる。九条の家で馬鹿にされないよう。妹である実の母親から、ウチを預かったつもりで。あの人自身に子供が居なかったせいもあると思うけど、どこに出ても恥ずかしくないよう、ウチをしっかりと育ててくれた」
そう言い切られてしまうと、私も返す言葉はない。
先輩にとって葵さんという人は、血は繋がってないけど敬意は抱く、先生のような存在なのだろう。
「ただ」
先輩が、机の上に置いた手をぎゅっと握りしめる。
「剣道だけは、九条の家関係なく、ウチが手に入れた居場所や。だから、これだけは。せめて高校三年間のうちは、好きにやらせて貰う――そう思ってたのに、この体たらくやから。自分自身に呆れるわ」
どこか諦めたように語る口ぶりだったのに、拳は今も震えるほど握られたままだった。
そんな彼女に、私がかけられる言葉なんてあるのか。
九条家の――はー子先輩の家の事情だっていうなら、むしろ私がとやかく口を突っ込むことじゃない。
それでも、何か言いたくて仕方がない気持ちは、どこから湧いてくるんだろう。
そんな時、突然くぅ――と小さな音がした。
それが、先輩のお腹の音だと気づいた時、私と彼女は、驚いたように視線を交わしていた。
「ふふ……そう言えば、お昼まだやった。最中で足りるかな思ったけど、余計にお腹空かせただけみたいやな」
「ああ、そうなんですね。じゃあ」
私は、頂いた最中の最後のひとかけらを口にして、すくりと立ち上がる。
「何か作ります。簡単なものしか、作れないと思うけど」
「そう? 助かるわ。堪忍な」
私の料理が未熟なままでも、お腹がすいた寮生がいたら放っておくわけにはいかない。
料亭の板長でも、定食屋の大将でもなく、剣道部寮の料理長として、私がやらなきゃいけない仕事で、責任だ。
今の私にできることは料理しかないから。
どれだけ打ちのめされていても、私は料理を作らなければならない。
その気持ちだけは、決して折れることはない。




