第63話 スペシャリテ ~寒鱈御膳~
翌朝、ようやく陽が空に輝き始めてきたころに、安芸先輩は炊事場を訪れてくれた。
この時期、日本海側の山間は、六時を過ぎても外は真っ暗だ。
町が通勤通学で賑わい始めるようになって、ようやく山のすき間から日差しが顔を出すこともザラである。
「そこにあるもので良いものは見繕って来たつもりだ。でも内陸の市場だし、ベターであってベストとは限らねぇぞ」
「ありがとうございます! 十分、いいやつです! 流石、港町出身!」
先輩が抱えて来た買い物袋の中身を見て、私は寒さを忘れて小躍りする。
「あのな、港町出身のヤツがみんな目利きに聡いわけじゃねーからな。そこんとこ間違えるなよ」
「分かってます! でも事実として、いいお魚が手に入ったので満足してます! さっそく調理に取り掛からないと」
「勝負は昼飯なのに、もう仕込み始めるのか?」
「そうしないと味が染みないので。実家じゃ、次の日の分を前日に仕込むくらいですよ」
「そういうもんか」
頼んだ仕事を終えた安芸先輩は、満足したのか、それとも興味を失ったのか、大きなあくびをひとつ浮かべて背を向ける。
「じゃ、朝練行ってくるわ」
「いってらっしゃーい」
上物が手に入って上機嫌な私は、振り返りもせずせっせと袋の中身を調理台に並べる。
パックにみっちりと詰まったのは、のっぺりした黒い皮が特徴的な魚の切り身。そして、そのアラ。
深海魚特有のぬらぬらした乳白色の身は、この時期が旬真っ盛りでまるまると太っていた。
この食材に負けないように、全力で向き合って調理しよう。
前日に仕込む必要があるからこそ、毎日数量限定で提供している実家の人気ナンバーワンメニュー。
寮の普段の食事じゃ手間がかかって作れない、お店の看板料理と太鼓判を押して余りある、至高の定食を――
そして、お昼。
宿泊していた旅館からわざわざご足労いただいた九条の伯母さんは、寮の空き部屋へと通されていた。
かつては民宿だったこの寮だ。
高級料亭と決して肩を並べることはできなくても、食事の一時を楽しむお座敷としてくらいなら、十分なロケーションを備えている。
「失礼します」
襖をあけ、一礼して座敷に上がる。
お盆に並べたひと揃えの定食を伯母さんの前に差し出して、もう一度、深く頭を下げた。
私にとってみれば、剣道の試合の前の礼みたいなものだ。
「寒鱈御膳です」
「寒鱈?」
「はい。父の出身――山形の海沿いの地域では、この時期の旬の真鱈のことを寒鱈と呼んで、豊漁をありがたがっています。雪のように真っ白な身は、産卵期を迎えて脂が乗っており、白子や卵、肝に至るまで捨てるところがありません。そのすべてをふんだんに使用したのが、この寒鱈御膳です」
日本海側における冬の鱈は、太平洋側における冬の鮟鱇にあたる冬の味覚だ。
お盆に並んだ皿は、メインから小鉢まで、お新香を除くすべてが鱈尽くし。
手間も暇も最大限にかけた、文字通り、私の料理人としての全力を捧げたメニューである。
伯母さんは、ひとしきり御膳を見渡した後に、ちらりと私に視線を向ける。
「この気温じゃすぐ冷めてしまうやろし、能書き無しで頂きましょ」
「どうぞ」
彼女の箸が、まずはメインの皿――鱈の煮つけに伸びる。
黒々とした醤油味のつゆに浸った大きな身は、見ただけで中までじっくりと味がしみ込んでいるのが分かる。
箸がつくと、軽く力を入れる必要がある程度の弾力。
やがてホロリと、繊維がほどけるように身が崩れる。
「うん……味がよく染みてはる。しかしまた、えらい身の引き締まりようやな。ふわふわとした銀鱈と違って、噛んでなおプリッと存在を主張しとります」
「その食べ応えが寒鱈の特徴です」
「でも、固くはない。脂も水分も、身にしっかり詰まっとる。これだけ味が染みるほど煮たら、旨味も水分も抜けきってしまいそうやけど」
「煮魚にする過程で、身に火が通ったら先にあげてしまい、つゆだけを十分な濃さになるまで煮詰めます。その後に、再び身を投入して、あとは冷蔵庫で味をしみ込ませました」
そうすると、身から脂や水分が抜けてパサパサしてしまうのを防ぎつつ、しっかり中まで味が染みた煮魚を作ることができる。
あとは、提供する時に改めて温め治すだけだ。
「なるほど。では、このお味噌汁の方も……これは、アラ汁?」
「海沿いの郷土料理――寒鱈のどんがら汁です。まずは、召し上がってみてください」
「これが、どんがら汁……ほな」
伯母さんの艶っぽい紅の唇が、お椀の淵にそっと触れる。
湯気の立つ汁を、こくりとひと口。
すぐに「ほぅ」と、温まった白い呼気が零れる。
「どんがら汁……こないに濃厚なものだとは。この味は、肝やな?」
「さすが、御明察です」
一番のポイントをズバリと当てられて、思わず目を見張る。
「寒鱈の一番おいしいところは、フォアグラのように育った肝臓です。それをまるまる、味噌と共に溶いて使うのがどんがら汁の旨味のベースになっています」
「このこってりした味わいが、純白の白子によう合います。とろっとした白子の味わいに出汁が絡むと、いっそう味に奥行きが出る。海苔の香りもええアクセントになっとる」
「薬味にネギを入れることもありますが、現地では岩海苔を入れるのが主流です。あくまで海のものでお椀を完成させる。それが、主たる食材の寒鱈への礼儀とも言えるのかもしれません」
庄内地方の郷土料理――どんがら汁。どんがらとはすなわち、お国言葉でアラのことだ。
これはアラを使ったお汁というわけではなく、むしろアラまで全部使うという意味に近い。
海の恵みに感謝して、頭から尻尾の先まで、ひとカケラでも残してなるものかと、そんな心づもりによる伝統料理だ。
作り方としては、鱈のぶつ切りの身とアラ、そして白子を鍋に入れて、丁寧にアクを取りながら火を通す。
そこにくさみ取りのお酒、味噌、すりつぶした肝臓を加えて味が馴染むまで煮込み、最後に塩で味を調えて岩ノリを散らしたら完成だ。
漁師料理の一種であって、作り方自体はすごく簡単。
しかし肝溶き出汁による濃厚な味わいが美味であり、寒鱈が今や高級魚なこともあって、旅館や料亭でも出される逸品料理となっている。
「食材への礼儀は、どの国であっても通じるところがあるわけやな。小鉢の鱈子の煮つけも良い味してはります。生姜が強めで、ピリッとしとるのが、良い箸休めになる」
「メインと汁物が濃いめの味付けなので、小鉢は薄口で、代わりに薬味を強めに仕上げています。それだけでもご飯に合うと思います」
「お米は、言わずもがなや。米どころの底力、とくと堪能させて貰いました」
最後にお新香を含む、ひと通りの皿に手を付けて、伯母さんは一度箸を置いた。
口直しのように熱いお茶をひと口啜って、はじめそうしたように、じっと御膳を見つめる。
「素晴らしい膳やった。ひとつひとつの調理もこまやかで、妥協がなく、気が利いとる。とても美味しかった」
「ありがとうございます」
思わず、心の中で「やった!」とガッツポーズをする。
それだけで、無理を言ってこの場をセッティングした意味があったというものだ。
「そやけど、やっぱりあきまへんな」
「……え?」
褒められて半ば舞い上がっていたところに、突然ハシゴを外されたみたいに、彼女の言葉が突き刺さる。
「でも、美味しいって」
「とても美味しかった。でもあんた、うちに『美味い言わせたろ』思って、これ作ったやろ?」
「そ、それは」
それは、そうだ。
だってこのままじゃプライドの引っ込みがつかなくて――
「美味しいものを食べさせよ思うのは良い。むしろ、料理人として当然のこと。最低限。だけど、それが目的であるうちは、まだまだ半人前やな」
「そんな……」
確かに、見返してやろうという一心で、私はこの料理を作った。
実家で一番人気のメニューを選んだのも、私が作れる中で「一番美味しいもの」である自覚と自負があるからだ。
この料理なら絶対に、彼女の舌を唸らせられる。
そう思ったからだ。
「あんたは、まだ若いんやから、それでええと思います。これから社会に出て、どこぞで修行も積むやろ。その間に、少しずつ学んでいくことがある。料理人が一朝一夕の修行で板場に立てるわけではないのは、そういうところがあるからや」
「それって……何なんですか?」
頭が真っ白になって、ただ言われたことを聞き返す。
「それは、お店に寄って変わります。せやな……もしもあんたが、実家の定食屋を継ぎたい思うとるなら、定食屋として必要なものを持っとるのは、その板場を任されとる料理人や。まずは、そこから学ぼうとしてみたらええんちゃいますか?」
「お父さん……から?」
彼女の言葉が、どうにも身体に染みてこなかった。
だって、私の料理の手本と言えば、今までずっとお父さんだったからだ。
お父さんに教えて貰って、お父さんと一緒に料理をして、お父さんに認めて貰って、そうやって今の私がある。
その中で学び足りないこと――確かに、技術なんかはまだまだ学びきっていないことはあると思う。
でも、そういう話をしてるんじゃないっていうのは、理解している。
定食屋として必要なもの……料理人としての私に足りないもの――
その時、ドカドカと部屋に歩み寄ってくる人の気配があった。
「ちょっと……ふたりとも、何やってるん!?」
乱暴に開け放たれた襖の向こうには、はー子先輩の鬼の形相があった。
伯母さんが、涼しい顔で彼女を見上げる。
「お昼をご馳走になっとったところや」
「葵はん、もう用事は済んだんやろ? 帰りの飛行機の時間もあるんや。はよ帰り」
「言われなくてもそうするつもりです」
「あんたも何しとんの? こんな――」
先輩は、私の顔と、伯母さんの食べかけの御膳を見比べて、言葉を濁す。
彼女がどこまで事情を知っているのか分からないが、そこで一度言葉を飲み込んで、荒げていた口調を落ち着けた。
「とにかく、みんな朝の稽古から帰って来とるから。お昼の支度しぃや」
「……はい」
私は、ただ彼女の言葉に頷くことしかできなかった。
全力の料理を作ってなお認められなかった私に、これ以上、何かを言う資格はないのだと。
そう納得するしかなかった。




