第1章 オマケ 第2話 僕は忘れない
その夜、単身者用のボロい官舎に戻った僕は、今日の出来事を振り返る。
一体、あれは何だったんだろう?
女王様は、最後、僕の耳元に顔を近づけて、「それじゃ、クラウス。またあとでね!」って言ってくれたけど、結局、そのあとはそれっきりだった。
そしたら、あれ? 表からトントンとドアのノッカーが響いたぞ。こんな夜中に誰?
僕が、戸口で「どちら様でしょう?」と声をかけると、「エリトニー公国の内務大臣、クレマンです」と言うので、慌ててドアを開けたら、そこには小柄だけれど精悍な、でも柔らかに微笑んだ男が立っていた。
「え、ちょ、ちょっと良く分からないんですが、エリトニーの内務大臣様が私にどんなご用向きでしょう?」と答えると、クレマン大臣の後ろから、
「さっき、『またあとで』って言ったでしょう?」って、あの人の、しっとりとした声音が聞こえてきた。
そこには、先ほどの舞踏会とは違う、臙脂(濃い赤)のベルベットのドレスを着た、「エリトニーの名花」が立っていた。
そして、「クレマン。2時間たったら、迎えに来て頂戴」 そう言い残して、女王様は僕の部屋にあがってきたのだった。
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「ごめんなさい。遅くなっちゃって。ずいぶん汗かいたから、お風呂入って着替えてきたの」 女王様は、すまなそうに両手を合わせて、頭を下げてくる。ああ、そういえば、さっきアップだった髪もストレートに下して、ティアラとか、そういう装飾品も一切つけてないんだな。ドレスに合わせた赤のルージュだけ。素材の良さが引き立つシンプルな出で立ち。
僕が、二つしかないチェアの一つを勧めて、
「いえ、全然構いません。だけど、なんで女王様が私を訪ねて来て下さったのか、まったく分からず、戸惑うばかりなんですが」 そう正直に答えると、女王様は、
「うん。驚かせてごめんなさい。実は、あなたにお願いがあってきたの」 そう言って、僕の手を両手で握ってきた。ひんやりした、少し湿り気のある、素敵な手だった。
「クラウスさん。あなたは、政治学者のランドルフ先生の一番弟子だったわよね」
「はい、一番弟子かはさておき、門下生の一人です。いまでも週3回、先生の塾に通って、軍事の授業を担当しています」
「クラウスさん。ランドルフ先生を紹介して欲しいの。今度、私の子供たちをゲルマーに呼んで、勉強させようと思っているの」
あ、なんだ、そういうこと。なるほど。
僕はいっぺんに鼻白んでしまって、ちょっとつれない感じで、
「ああ、そうでしたか。それでしたら、防衛大臣を通じてお命じになれば、同道しましたのに」って素っ気なく答えたら、それが伝わったのか、女王様は、
「それじゃだめなの! 私、今度の訪問で、確実にランドルフ先生の了解を取りつけたかったの!」って、真剣な眼差しで僕を見つめてきた。これは、何かあるな。と思ったら、やはり、女王様は続けて、
「私、次、いつゲルマーに来られるか分からないの! いつまで女王でいられるか、……ううん、そもそもいつまで生きていられるか、それすら分からないから、私、一日も粗末にできないの。だから、クラウスさん、お願いします!」 そう、懇請してきた。
そうか、そういうことか。
確かに、エリトニーは2年前にウォレム王が死んで、財政的にも厳しく、ホランド傘下に回帰するのではないかとも言われている。そうなったら、もう女王やその家族の居場所はないだろう。遠いゲルマーに子供だけでも亡命させるということか。
まあ、僕には、そんなことに協力する義理はないけど、かと言って、すげなく断る話でもないし、なにより女王様の子供たちを想う気持ちは本物だと伝わってくる。だから、
「……分かりました。では、『善は急げ』ですね。ちょうど明日、私が午後から授業をしますから、一緒に行きましょう。ここから1時間くらい行った、南の森を抜けたところにランドルフ先生の私塾があります」 そう答えると、女王様の頬がパッと花咲いて、「ありがとう! クラウスさん、本当にありがとう! ……私の子供たちは、とっても素直で頭が良いから、絶対あなたの顔をつぶさないから、お願いします!」 そう女王様は、何度も言って、僕の手を握り、眦から光るものを一筋こぼした。ああ、これもとっても綺麗だな。さっきとはまた違う、母親の顔。
と思っていたら、女王様は、僕の顔を両手で包み、えー? 一体なにすんの? って思ったら、その豊かな白い胸の間にそっと埋め、
「ありがとう、クラウス。私、こんなことでしかお礼ができないけれど、もしあなたが嫌じゃなかったら……私を好きにしていいのよ。そのつもりで来たの」と、聖母様のように囁いてきた。
なんだ、僕は夢を見ているのか? こんなことが起こり得るのか?
いや、でも現実だな。暖かくて、柔らかい。いい匂いもする。
……が、さすがにこれはよくないだろう。
「女王様。手を放して下さい。お気持ちは大変嬉しいのですが、私は大丈夫です。今日のところは、その優しさだけお受けしておきますね」 そう言って、女王様がおずおずと手を離したところで、
「女王様。私だって、そんなことをされると心が揺れてしまいます。だけど、女王様の本当の気持ちはまだ分からない。だから、いつか、女王様のお気持ちが私に傾くことがあったら、その時こそ、遠慮せずに頂きたいと思います」と、微笑んでその眼を見つめた。
女王様は、「もう……、また恥かかせて」って言いながらも、「だけど、クラウス、あなた、なかなか素敵な男ね。ふふ、気に入ったわ。‥‥‥私、あなたを愛し始めてるかも」って、ニッコリ微笑みかけて、そっと僕に抱き着き、顔を近づけてきた。
ドレスに合わせた赤のルージュが艶めいてる。
ああ、これはお近づきの印か。そうだな、そのくらいなら、ありがたく頂戴しよう。
僕と女王様は、そのままきつく抱き合いながら、そっと唇を触れ合い、ピクってしたあと、少しずつ探りあって、やがて、深く絡みあい、長く、激しい口づけを交わした。
二人とも、その先に進みたい気持ちを抑えながら、何度も何度も、深い口づけを繰り返した。
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次の日の午後、僕は、女王様とクレマン大臣を連れて、ランドルフ先生に面会した。
先生は、まだ女王様の子供たちが4歳だというのと、多国間の無用な争いに巻き込まれるのを懸念して、渋っていたのだけれど、女王様とクレマンさんが「能力的にも、人柄も、まったく問題ありません。ご迷惑はおかけしません!」って、受けてくれるまで帰らないくらいの勢いで、真剣に頼み込んだ。
それに押されて、なぜか僕も、会ったこともないのに、「先生! すごくいい子たちなんです! 僕もちゃんと面倒見ますから、お願いします!」って、必死になって先生を説得してしまった(笑)。
それで、先生も最後には「もう、しょうがないな……(笑)」って折れて、一度子供たちに会ってみて、もしお眼鏡にかなうなら、少年のクラスに加えてもいい、という言質を取ることができた。
結果的には、それが、後に、ランドルフ私塾開講以来の、不世出の天才を迎え入れることになったのだった。
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だけど、結局、僕が女王様に会ったのは、それが最後になった。
ゲルマーから帰国した夏に、エリトニーが深刻な飢饉に見舞われ、国家財政が破綻したと聞いている。それから少しして、ホランドに政権を禅譲したエリトニーの広場で、火あぶりになって処刑されたらしい。
彼女は賢かったから、こうなることを予測して、僕やランドルフ先生に後を託したのだろう。
そう、彼女は、美しく、優しく、気高く、勇敢で、でも、とても可愛らしかった。
スロー、スロー、クイック! 今でも、時々思い出す。二人で夢中で踊ったダンスを。
クイック、クイック、スロー! きつく抱き合って交わした、熱い口づけを。
結ばれることはなかったけれど、二日間しか一緒にいられなかったけれど、その二日間、僕たちは確かに恋人の入り口に立っていた。
若き日の僕が愛した人。
「エリトニーの名花」 メラニー女王。
僕は、いつまでも忘れない。




