第1章 第2話 美しく、聡明な、老婦人
~メラニー女王と双子、マチアスとクレマンとイボンヌが、お城からの抜け道を歩いている~
階段を降りたあと、またしばらく真っすぐ歩く。今、海の下を抜けているのね。
灯りを頼りに、子供たちとゆっくりと歩きながら、私はまた王様のことを思い出してしまう。
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王様が亡くなったのは、倒れてから2年たった、58歳の時だった。
もう、回復の望みも絶たれ、薬師から痛み止めだけ貰って、ずっと眠っていたのだけれど、ある冬の寒い朝、お付きの女中が見に行った時、すでに息絶えて、冷たくなっておられた。
本当は、私と子供たちが手を握って、送り出してあげたかったけど、こればかりは仕方ないわね。
30年にもわたって、エリトニーに尽くし、人民に豊かさと幸せをもたらしてくれた、一大の英雄が亡くなり、国中が悲しみに包まれた。1カ月もの間、人々は喪に服し、哀悼の意を表すことになった。でも、もちろん、それと同時に、英雄を失ったこの国がどうなってしまうのか、その行く末に皆が不安を感じることにもなった。
その思いはお城の中も同じ。セシルとアロイスが大きくなるまで、私が、侍従長のお父様や大臣らとともに国政を運営していくのか、それとも再びホランドの傘下に入り、自治州として生き延びていくのか、殆ど二手に分かれての激論になった。やっぱり、みんな将来が不安で、私なんかが王様の代わりになれるのか、疑問の眼で見ていたのね。
だけど、ホランドの傘下に入るということは、またあの暗黒の30年前に戻ることを意味する。港湾の貿易による利潤と、鉱山から産出される良質の鉄鉱石を全て吸い上げられ、その代わり、「飢え死にしない程度」にホランドからの庇護を得ることになる。英雄王が育んだ、この国の豊かさ、それは経済だけではなくて、芸術や習俗のような、人々の心を豊かにする文化的な側面もだけど、それらを徐々に失うことになる。
結局、皆で議論を続けた末、「ホランドに政権を禅譲するのはいつでもできる。誰も王様の代わりにはなれないけれども、皆で王妃を支えてしばらく頑張ってみよう」ということになった。
別に、親ホランド派だって、私が憎たらしくて反対してたわけじゃなくて、彼らなりにこの国の将来を憂いて言っていたことだから、一度決まってしまえば、家臣全員が私を支えることで一致団結したの。
それで、私は、正式に「メラニー女王」に就任した。
温かな南風の吹く春先の吉日に、エリトニー城下の広場で就任式が執り行われ、何万人という国民、そして各国から招かれた来賓の前で、私は前ウォレム王の王冠を戴いた。
もと宗主国のホランド国王が、「私に戴冠をさせて欲しい」と言ってきたけど、別に属国じゃないんだから、それは丁重にお断りして(クレマンによれば、気を悪くしていたそうだ)、国民の代表として選ばれた賢い少年と少女から、クラウンを載せてもらった。
エリトニーの国民も、王様が倒れられてから、私が頑張って国政を運営してきたことを分かってくれていたので、皆んなが拍手喝采で歓迎してくれたわ。
……だけど、本当に、悪い事って続くものね。
去年の夏、この国を含む東ナーロッパ全体を巻き込む厄災が起こった。
記録的な冷夏で、大麦の収穫量が半分以下になってしまったの。
特にエリトニーは山地ばかりで耕地が少ないから、もともと大麦は輸入の割合が多かったんだけど、他国も飢饉だったから流通が一気に滞り、価格が5倍以上に高騰した。一般の国民は、到底、パンなんて食べられなくなってしまった。
もちろん私は、国庫を解放して、国全体に穀物を分配したけれど、そんなんじゃ全然冬を越せなくて、王様が蓄えてくれた金銀を、比較的冷夏の被害が少なかったゲルマーに持っていって、高騰する大麦を大量に輸入した。ここで例のお色気外交で作ったパイプが役にたったの(笑)。
それで、奇跡的に、この国では餓死者が殆ど出なかった。ホランドやマケドニーでは、何十万という人たちが、冬を越せずに死んだって聞いているわ。飢え死にだけじゃなくて、体力と免疫が低下しているから、ちょっと風邪を引いただけでも、もうダメなの。
今は、ようやく春になって、私が去年、「たとえ何人死んでも、これだけは絶対に残す。拠出は許さない」と宣言して、お城の倉庫で保管していた大麦の種もみを全土に配布し、苗が育ちつつあるところだ。今年は豊作になってくれるといいな。
でも、それが限界。この小さな国の、小さなお城は、それで殆ど空っぽになっちゃった。
私、5つあった王妃のティアラも、華やかなドレスも宝石も全部売っちゃて、それでお城の臣下や女中のお給金を払ったんだけど、ついに先月、遅配になってしまった。来月末に、ゲルマーから鉄鉱の売掛金が入ってくるから、それで一息つけるんだけど、やっぱり生活に直結するから、皆の不満は大きかった。
そうね、人の生活って、美しいものばかりじゃないから、やりがいとか、志とか、真心だけで、お腹が一杯になるわけじゃない。家族がいれば、なおさらのことよね。
そういう事情で、この何週間か、親ホランド勢力が一気に城内で台頭してきて、今では私に忠誠を誓ってくれるのは、お父様はもちろんだけど、そのほかは近衛部隊の一部と、内務大臣のクレマンと、そして女中頭のイボンヌくらい。あとは大半が日和見ね。大勢が定まった方につこうと思っているのだろう。まあ、当然と言えば当然の事よね。
でも、きっと、こういうときでも、英雄王なら、なんとかしたんだろうな。誰もが、「王様に任せておけば大丈夫」って思ってたから、足元は揺るがなかっただろう。
結局のところ、それがこの国の致命的な弱点だった。誰も代わりになんかなれなかったんだ。
もう、いつ、私が城内のクーデターで政権を奪われるか分からない。クレマンによれば、実際に不穏な動きがあるようだ。
仮にそうなって、ホランドへ政権が禅譲されたら、ホランドを散々苦しめたウォレム王の一族は許しておけないだろう。私だけではなく、愛しいセシルやアロイスも、粛清の対象になるのは間違いない。また息を吹き返して、国民の支持を集めたらよくないものね。
だから、その前に、安全なところに逃がさないと。
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平らな通路を、ゆっくり5分ほど進んだところで、行き止まりになっていた。
「ここも同じ。セシル、ぎざぎざの目地が終わったとこの壁を押して」 セシルが押すと、上りの階段が現れた。
「海の下を抜けたわ。ここから登ったところがゴールね」
「こちらには罠や仕掛けはないのですね」と、セシルが聞いてくる。
「そうよ。どうしてだと思う?」
「それは……、お城からサラ様が逃げ出すための通路だからでしょう。逆から追われることは考えていないという」
「正解。ふふ。セシルは本当に頭がいいわね。あ、二人ともか(笑)」 私はまた舌を巻いて、そう答え、セシルの細くて艶やかな黒髪を撫でてあげた。
陸側の出口の方が高いのか、さっきより長く、階段を100段以上のぼったところで、行く手に黄色い光が小さく見えてきた。ああ、もう開けて待っていてくれたんだな。
なおも階段を上り、最後に、人が屈んでやっと通れるような扉を抜けると、それは小さな食堂の1階にある、暖炉の奥の壁だった。
部屋では薄あかりが灯っているだけだったけど、真っ暗闇を歩いてきたから、眼に眩しい。
何度か瞬きして、少し眼を擦ってから顔を上げると、そこに立っていたのは、背の高い、淡い金髪の、美しい初老の婦人だった。
今は亡き、前王妃サラ様のお母様、クリステル様。
小首を傾げて、優しく微笑み、愛おしそうに、双子のきょうだいを見つめていた。