観測者
無音の部屋。
ノイズも音楽もなく、ただモニターのバックライトが、雪風の頬を青白く照らしていた。
端末には、《桜ノ影》の仮想インターフェース。
都市監視網の最深層――その中に“接続された者”にしか見えない世界が広がっていた。
雪風は眉ひとつ動かさずに手を動かしている。
「……このルート、ありえない。繋がってるはずのない領域がある」
地図上には存在しない、数値上の“穴”。
電波塔にも、通信局にも記録されていない仮想ノードが、
東京都内のある一点を中心に、不自然な“影”を作っていた。
《Sakurano_Kage》:
『異常検出:第三区Eブロック下層、情報ノード#92──
“改ざん”の可能性あり。観測を継続してください。』
「やっぱり、向こうも“仕掛けてる”のか……」
通信ログは偽装され、トラフィックは無意味なパケットで埋められていた。
それでも雪風は、バイナリの“呼吸”の中から異質な拍動を感じ取る。
彼女にとっては、こういう作業がいちばん自然だった。
人と話すより、文字の並ぶログと向き合っている方がずっと楽だった。
《Sakurano_Kage》:
『観測対象の再定位完了。経路トレースを許可します。
ただし、以下の命令は“敵性領域”に侵入することを意味します。』
雪風は少しだけ、背中を反らせる。
「……“敵性”って、初任務で言うことかよ」
独り言に苦笑しながら、Enterキーを押した。
数秒後、端末内の仮想空間が変形する。
かすかに“熱”を帯びるように、ノードが赤く明滅し始めた。
雪風の視線の先。
そこに表示されたのは、不可視領域に設置された“隠しポート”。
そして、そこから流れ出ていた──未知の暗号化通信ログだった。
画面に浮かび上がったのは、
“国内のどの通信規格にも属さないパケット群”だった。
それはまるで、別の世界から混入したノイズのように、既存プロトコルをすり抜け、
国交省の地下ネット回線網へ断続的に接続されていた。
「これ……“日本の中枢”に、別ルートから侵入してる……?」
プロキシの流れを遡る。
一つ、また一つ。中継ノードの奥から、雪風の視界に奇妙な“空白領域”が浮かび上がった。
――存在しないはずの“ノード000”。
「……なにこれ。誰かが最初に作った“穴”?」
通信ログは改ざんされていた。
でも、その改ざんログさえもさらに塗り潰され、
“誰かの意志”が働いた痕跡だけが、微かに残っていた。
その時――
《Sakurano_Kage》:
『警告:第二区画への接続経路に“観測者”の気配。
追跡遮断プロトコルを展開します。』
「誰か……私を、見てる……?」
視界の端で、ノイズが揺れた。
一瞬だけ、仮想空間の壁面が“振動”する。
“何かがいる”。
雪風の指が止まった。
それは、彼女にとってただのプログラムの錯覚ではなかった。
まるで、彼女の観測そのものを“見ている”誰かが、
仮想空間の向こう側に、確かに“意志”をもって佇んでいる――
そんな錯覚に囚われる。
「……視られてる。今度は、逆に」
その時だった。
画面の端に、一行のメッセージが浮かぶ。
《Sakurano_Kage》:
『解析成功:暗号化通信の発信源、国外IPに偽装中。
実態は、国内某所より送信。高精度スプーフィングを確認』
「――偽装……国内、だと?」
敵は、外ではない。内側にいる。
雪風の指が、静かにキーボードを叩く。
《nullfox_89》:
『発信源の逆探知を試みる。』
《Sakurano_Kage》:
『了解。プロトコル74を展開。
対象は現在、遮断領域“東都区・産業調整庁舎下層”に存在』
「……見つけた」
雪風の目がわずかに細まる。
静かな光の中で、彼女の“初任務”が、今まさにその全貌を現し始めていた――。