影の呼び声
ある夜更け。内閣府の一室に、明かりがぽつんと灯っていた。
会議机を囲んで座る男たちは、いずれもこの国の「情報」に通じた者たちだ。
内閣情報調査室の分析官。公安警察の捜査官。公安調査庁の調査官。
誰もが一線を知る者だった。
「……で、また我々が目をつけていた“工作員”が消えたのか」
阿部と呼ばれた公安の男が、重たげに言葉を落とす。
「全く、どこのどいつだ。消えたやつも、どうせまた“死体”で出てくるんだろ」
「例の組織でしょうか」
内調の分析官が、タブレットを指先で弾いた。
「某国の技術者亡命事件。国内の大規模サイバー攻撃の遮断。
報道されなかった感染症封じ込み……」
「どれも、何の痕跡も掴めていない」
「だが“殺害”に関しては、共通点がある」
「使用されているのは――旧日本軍の拳銃弾です」
「十四年式……?」
「ええ。製造ロットは昭和初期。軍保管品以外には存在しないはずのものです」
しばし沈黙が落ちる。
「同一組織の関与と考えてるわけだが……にしても情報が無さすぎる」
「痕跡もなければ、監視網にも映らない。ダークネットにさえ名前が出ない」
「何より──こちらが“何も掴めていない”ことすら、やつらには知られている気がする」
誰も言葉を継がなかった。
あらゆる情報のプロフェッショナルが集まりながら、たどり着けない“影”。
「……にしても、手広すぎやしないか」
「暗殺、サイバー作戦、情報操作、外交的火消し……」
「どれも、下手な国家諜報機関より精密で、痕跡がない」
「日本という国には、今のところ危害を加えていない。
……だからこそ、余計に気味が悪い」
「監視するにも、情報が足りなさすぎる」
「このままじゃ、“幽霊”と踊ってるも同然だ」
最後に口を開いた初老の男が、静かに言った。
「名前だけはあるんだ。ごく一部の記録に、こう記されている」
言いかけて、彼は一枚の書類を広げる。
そこには、たったひと文字。
──『零』。
部屋の空気が、静かに重たく沈んだ。
.......
午前4時過ぎ。
神戸の団地の一室。カーテンを閉め切ったままの薄暗い部屋に、モニターの光だけが浮かぶ。
机の上には、冷めたままのコーヒーと乱雑に積まれた技術書。
一ノ瀬 雪は、椅子の背にもたれ、顎に指を添えたまま画面を眺めていた。
画面には、《Sakurano_Kage》のロゴと共に、新しいウィンドウが開いていた。
《Sakurano_Kage》:
解析対象を転送します。
匿名通信網より取得された未認証パケット・断片ログ(仮称:Trace_X)
信号強度:微弱
発信元:不明(東南アジア経由)
「……なんだこれ。中継ノードが不自然すぎる」
雪はマウスを滑らせ、ログの一部を開く。
画面には暗号化された文字列の断片、構造化されていないデータの塊が並んでいた。
「バイナリの中に可逆圧縮?いや、これ……画像情報が混じってるな」
目を細めて、デコード処理を走らせる。数秒後、ノイズ混じりのモノクロ画像が浮かび上がった。
それは、どこかの監視カメラの映像のようだった。
薄暗い地下通路。奥に映るフードの男と、横たわる影。
──なぜ、これが彼女に渡されたのか。
《Sakurano_Kage》:
あなたの解析結果を待ちます。
この情報が“偶然”あなたに届いたと考えるのは、非論理的です。
これは“選別された断片”です。
何が埋まっているか、あなたなら“気づく”でしょう。
「……本気かよ」
雪は肩をすくめた。
けれど、その手は止まらない。
脳がいつのまにか、冷たく鋭い処理モードに切り替わっているのが分かる。
自分が選ばれた理由も、零機関が何者なのかも、まだ分からない。
だが、「これを解析してほしい」と言われた以上、それは“命令”に等しい。
そして何よりも──こういう“謎”を前にすると、彼の心は自然と静まっていった。
「さあ、何が隠れてる……?」
ウィンドウがいくつも立ち上がり、ログ、画像、通信のパターン解析が並列で走り始める。
一ノ瀬 雪──“雪風”の初任務が、静かに幕を開けた。
一ノ瀬 雪──“雪風”。
その名が、いま静かに記録されていく。
仮想の海を漂うノイズの中に、真実はある。
そして、その背後には、誰にも知られないまま進行する“何か”があった。
誰が敵で、誰が味方かも分からない世界で、
彼はまだ“自分が何者なのか”さえ知らない。
だが、それでも進むしかない。
今、彼女に課された“任務”が──すべての始まりになる。
次話:「観測者」へ続く。