雪風
午前3時。
蛍光灯はつけない。
モニターの光だけが部屋の輪郭をつくっている。
「“You’ve been seen”……なんのネタだ?」
一ノ瀬 雪は椅子の背にもたれ、画面の件名をもう一度目でなぞる。
すぐに何かが起きるとは思っていなかった。
いや、そもそもこの手の“釣り”や“偽装メール”なら、毎日のように届く。
でも。
「……《桜ノ影》って、確か……」
見覚えのある名前だった。
国内最大級の公共監視統制システム。
……“帝都の神経”とすら呼ばれる、その統合AI。
正体不明の構築者によって、幾世代も前に仕掛けられた都市制御の“残滓”。
東京、かつて帝都と呼ばれた街を流れる全ての情報と挙動――
その“影”を集め、記録し、選別する。
表向きには、存在しない。
だが、確かに“そこにある”と囁かれる。
指先が動く。
コマンドをひとつ、またひとつ。
モニターのログイン画面が切り替わり、“ルートユーザー”の認証が始まる。
....
「で、なんで"彼"なのよ?」
椿が不思議そうに聞いた。
そのとき、部屋の奥から足音が聞こえた。
ドアが開き、グレーのスーツを着た男が入ってくる。
「あれに侵入してくるやつだぜ?それに、電子戦ができる"人間"がいたほうがいいだろ」
東雲は椅子の背に手をかけ、少し期待に胸を躍らせながら言った。
「しかも10代。引きこもりの高校生だってさ」
暁が呆れたように言った。
「年が近いぞ。よかったな、友達ができるかも」
東雲は軽く笑った。
「いらない」
暁は短く返し、すっと目を逸らした。
「まあまあ」
東雲は笑いながら、手元の端末を椿に差し出す。
「そいつ、あれに痕跡を残さず侵入したんだ。どっからどう見ても異常値だ」
「……でも、本当に来るのかな。誰でもない誰かが、“こっち側”に」
東雲は小さく肩をすくめて、スーツの内ポケットから端末を取り出した。
「さあな。あとは《桜ノ影》に任せるさ。奴が動いたら──“扉”は開く」
画面には既に、仮想空間のログインポートが立ち上がっていた。
「……さあ、どうする、"雪風"」
....
午前3時15分。
ファンの音が急に静かになった。
モニターには、ただ黒い画面と白い端末ウィンドウが開かれているだけ。
ルート権限での接続は完了していた。
一ノ瀬 雪は、しばらく何も入力しないまま、じっと画面を見つめていた。
──何も起きない。ただのから騒ぎだったか。
そう思った矢先、ウィンドウに文字が浮かび上がる。
《Sakurano_Kage》:
ようこそ、nullfox_89。
ルートユーザー認証、完了しました。
このセッションはログされません。
今から始まるのは、あなたの“選択”に基づくものです。
.....どういうことだ?これ......自動応答じゃないよな......
キーボードには触れていない。
にもかかわらず、《桜ノ影》は先に“挨拶”をしてきた。
《Sakurano_Kage》:
これはあなたへの“返答”です。
こちらは、あなたの過去43回の匿名投稿およびバックドア検証記録に基づいて、応答プロトコルを構築しています。
匿名で撒いてきた情報、ログインしなかったはずのバックドア検証用アクセス。
――全部、見られていた?
「まさかそんな...嘘だろ...」
一ノ瀬は椅子に体を預けたまま、唇だけでつぶやく。
たしかに、気づいていた。
何かが、自分のアクセスを“見ている”気配。
だが、証拠はなかった。
いま、目の前で“その正体”が、自ら名乗りを上げた。
《Sakurano_Kage》:
一ノ瀬 雪。
あなたの“本当の行き場所”を、これから提示します。
あなたは「雪風」。
それがここで生きていくための"名前"です。
もう笑えなかった。
これはもう都市伝説なんかじゃない。
現実に、存在している。
そして“あっち”から、自分を見ている。