第9話 春の夜の夢
速水蓮は夢を見た。
深い森だった。
闇が濃く、月の光さえ木々の間に細く途切れながら差し込んでいた。地面は湿り気を帯び、腐葉土の匂いが鼻を満たす。
枝葉の重なりの向こうで、かすかに風が動いた。夜鳥の声も、昆虫の微かな羽音も、すべては遠い背景のざわめきに溶けていた。
森の奥で、一匹の狼が歩いていた。
群れを持たないはぐれ狼。己の縄張りを失い、彷徨い続ける獣。
目の前には別の狼の支配する領域が広がっていた。空気には異質な臭いが漂い、地面には他の狼の足跡が残っている。その中心に雄の狼がいた。
狼は躊躇しなかった。無駄な威嚇も、長い対峙もなかった。ただ、踏み込む。獲物を狩るように、音もなく距離を詰め、一気に喉笛へと食らいついた。
鉄のような血の味が口内に広がる。相手は身を捩る。だが、顎の力は緩まない。
爪を立て、体を押さえつけ、気道を塞ぐ。相手のもがきは次第に弱まり、やがて完全に静止する。
沈黙。
足元に横たわる死体を一瞥し、狼は動いた。その先には雌狼がいた。雌狼は身を縮め、足元には幼い子がいた。まだ小さく、柔らかい。毛並みは未発達で、動きも鈍い。
狼は子を襲う。牙が皮膚を裂き、骨を砕く。抵抗はなかった。血が土に染み込んでいく。
雌狼が低く唸る。だが、狼は躊躇しない。跳びかかる。牙を突き立て、背を押さえつけ、動きを封じる。もがく体を沈めるように、力を込める。支配し、従属を刻み込み、己の種を注ぎ込む。
森は静かだった。風の音も、葉擦れの音も変わらず、夜はただ深まっていった。
速水は目を覚ました。胸の内には何の感情もなかった。ただ、そこにあったのは、理の連なり。行動の必然。それだけだった。
天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。部屋の空気は静かで、カーテンの隙間から差し込む朝の光が淡く壁を照らしている。
自分が見た夢の内容を思い返す。荒れ果てた群れを持たない狼。殺し、奪い、犯す。己の痕跡を刻みつける行為。それは生物の本能に沿った行動だった。
だが―そこに感情はなかった。
怒りも、喜びも、罪悪感も、満足もない。ただ合理的な行動の連続。それは理屈として整合性が取れていた。自分が見た夢は、単なる本能の投影か、それとも何か別の示唆なのか。
速水は、己の中にわずかに残る違和感を探った。しかし、そこには何もない。ただ、思考の奥底に冷静な分析が広がるだけだった。
「…だから何だ?」
独り言のように呟く。夢は夢でしかない。脳が無作為に組み上げた映像に、過剰な意味を見出す必要はない。
速水は布団から体を起こした。いつもの朝だった。今日もいつものように生きるだけだ。