第6話 星の少女
瑞峰学園の図書室は静寂に包まれていた。昼休みだというのに、ここには生徒の姿がまばらだ。騒がしい廊下とは一線を画す、まるで別世界のような空間。
速水蓮は、そんな図書室の奥まった席で本を開いていた。
『韓非子』ー人間の本質と権力の機微を冷徹に説いた書物。
ページをめくる指は滑らかで、思考は止まらない。
(…七割の理、三割の情。完全な計算で人は動かせないが、情に流されるのも愚かだ)
そう考えながら視線を上げると、目の前にひとりの少女が立っていた。
「こんにちは、速水くん」
静かな声だった。
栗色の柔らかな髪、琥珀色の澄んだ瞳。彼女、七瀬柚葉は、速水の向かいの席にそっと腰を下ろした。
「…何か用か?」
速水は視線を戻し、淡々と問う。
「ううん。ただ、話したくなっただけ」
微笑む柚葉。彼女はいつものように本を抱えていた。
「何を読んでいるの?」
「『韓非子』。七瀬の趣味とは違うだろう?」
「うん。でも、あなたが何を考えてるのか知りたくて」
その言葉に、速水の手が一瞬止まる。
(…妙だな)
彼女の言葉には、打算も策略もない。それでいて、ただの興味本位とも違う。
「俺が何を考えているか、知ってどうする?」
「うーん…たぶん、何もしないよ」
柚葉はふわりと笑う。
「でも、速水くんのこと、みんなが誤解してる気がして」
「誤解?」
「うん。みんな、あなたを『怖い』って言うけど…私は、違うと思う」
「何が違う?」
「本当は、誰よりも人のことを考えてる。でも、信じてないんだよね」
速水は、目の前の少女を見つめた。
彼女は、何かを分析するでもなく、探るでもなく、ただそこにいる。
(俺のことを、理解しようとしている…?)
馬鹿馬鹿しい。何の利益もないのに、そんなことをする意味があるのか。
速水は、薄く笑う。
「俺は人を動かすために、人のことを考える。それ以上でも、それ以下でもない」
「うん、そう言うと思った」
柚葉は穏やかに頷く。
「でも、それってきっと、嘘なんだよ」
その瞬間、速水の脳裏に警鐘が鳴った。
(…こいつは、一体何を言っている?)
「俺が嘘をついていると?」
「ううん。そうじゃなくて」
柚葉は静かに言った。
「速水くんは、自分に嘘をついてる」
速水は、何も言えなかった。
七瀬柚葉、この少女は、速水の論理では説明のつかない存在だった。
図書室の静寂が、いつもより重く感じられる。
「俺が…自分に嘘をついている?」
速水は、柚葉の言葉を反芻する。
人間というものは本質的に利己的だ。
人を動かすために人を知り、利用できるものは利用する。それこそが合理性であり、生存戦略の根幹である。
だが、この少女は、それを「嘘」と言った。
「随分と突飛なことを言うな」
速水は微笑を浮かべながら言った。
「俺が自分を欺いているというなら、証拠を示してもらおうか?」
柚葉は微かに首を傾げた。
「証拠なんてないよ。でも…分かるんだ」
「分かる?」
「うん。速水くんはね、人のことを『ただの駒』だと思ってるフリをしてる。でも、本当は、そうじゃない」
彼女は、琥珀色の瞳でまっすぐ速水を見つめた。
「本当は、あなたは誰よりも人の感情に敏感で、誰よりも人の苦しみを知ってる。だからこそ、それを避けるように生きてるんでしょう?」
妙だ。
この少女は、何かを分析しているわけでも、論理的に推論しているわけでもない。
ただ、速水の本質を「感じ取って」言葉にしている。
(理解できない…)
速水は戦慄していた。
これまで数多の人間を観察し、操り、掌握してきた。
どんな相手にも、自分の望む反応を引き出す方法を見つけられた。
だが、七瀬柚葉だけは違う。
彼女は速水の「意図」を超えたところで、ただ「速水蓮」という存在を見ている。
「俺は…誰かの苦しみなんて知ったことじゃない」
速水は敢えて冷笑を浮かべた。
「人の感情に敏感? そんなものはただの情報の一部にすぎない」
「そう思いたいんだね」
柚葉は優しく微笑んだ。
「でもね、速水くん。あなたがもし本当に人を『駒』だと思っているなら、こんなに慎重に人を扱ったりしないよ」
「…何?」
「あなたは、誰かが傷つくのを避けようとしてる。できるだけ、直接的な衝突をせずに、最善の形で状況をコントロールしようとしてる。それって、本当に人を道具だと思っている人のやり方じゃないよ」
速水は、一瞬言葉を失った。
(俺が…人を傷つけたくない?)
そんなはずはない。
自分は利己主義者だ。
人の感情を読み、利用し、操る側の人間。
だがー。
過去を振り返ると、自分が取ってきた選択の数々が、まるで柚葉の言葉を証明するかのように浮かび上がってくる。
(…俺は、ただの策略家ではない?)
そんなことを、認めるわけにはいかない。
「君は、理屈ではなく感覚で物事を語るんだな。」
速水は意図的に話を逸らした。
「そんな不確かなものを信じるのは、あまりに非合理的だと思わないか?」
「ううん」
柚葉はそっと首を振る。
「私はね、人の心は、理屈だけでは測れないと思ってるから」
速水は、目を細めた。
「…なるほどな」
七瀬柚葉、彼女は、速水の論理と真逆の存在だ。
速水は人の感情を計算し、コントロールすることで勝ち続けてきた。
だが、柚葉はそんなものとは無関係に、「速水蓮」を見抜こうとしてくる。
(厄介だ…。だが、無視できる相手でもない)
速水は、柚葉の琥珀色の瞳を見つめながら、静かに息を吐いた。
この少女は、速水にとって「未知の要素」であり、「計算通りに動かせない存在」なのかもしれない。
図書室の空気が微かに揺れた。
静寂が二人を包む中、速水は何か言い返そうと口を開きかけたが、言葉が出なかった。
「……」
速水の中に、得体の知れない違和感が広がる。
いつものように理論武装し、言葉で相手を押し返せばいい。
相手が論理的でないなら、それを指摘し、冷静に論破すればいい。
だが、七瀬柚葉は論争をしているわけではなかった。
彼女はただ、速水蓮という人間を「感じ取って」語っている。
その言葉には意図的な操作も、戦略的な駆け引きもない。
それゆえに、速水の駆け引きが通用しない。
(こんな人間がいるのか)
速水は、これまで数え切れないほどの人間と対峙してきた。彼らの思考の流れを読み取り、先回りし、どんな局面でも優位に立ってきた。
だが、七瀬は違う。
彼女は計算も理屈も抜きにして、まるで速水の「心そのもの」を見通してくる。
(理屈で説明できないものほど、厄介なものはないな)
「…速水くん?」
柚葉が微かに首を傾げる。
「黙ってしまうなんて、珍しいね」
速水はゆっくりと息を吐いた。
「君の話は、論理性に欠ける。だが…妙に説得力があるのが気に食わないな」
柚葉はふわりと笑った。
「うん、よく言われるよ」
「人の話をまともに聞かずに、自分の感覚だけで納得しているからでは?」
「そんなことないよ。私はちゃんと聞いてるし、考えてる。でも、考えるだけじゃ分からないこともあるから」
「非合理的だな」
「合理って何?」
「目的のために最適解を導くことだ」
「じゃあ…」
柚葉は本を抱え直し、微笑んだ。
「速水くんにとって、最適解ってなんだろう?」
「…」
またしても、速水は言葉を失う。
(俺の最適解…?)
速水は常に状況を分析し、最も効率的な方法を選んできた。
戦わずして勝つ。
衝突せずに優位に立つ。
相手の感情を計算し、操作することで、すべてを思い通りに動かしてきた。
だが、それは本当に”最適解”なのか?
(…いや、考えるだけ無駄だ)
速水は思考を断ち切り、薄く笑った。
「君と話していると、妙に思考が乱されるな」
「そう? 私はただ、気になったことを聞いてるだけだよ」
柚葉は本を抱えたまま、無邪気な笑顔を浮かべる。
その表情は、あまりにも自然で、あまりにも純粋だった。
(こいつは…俺の手では動かせない)
速水は確信する。
七瀬柚葉、彼女は、速水の計算が及ばない「未知の存在」だ。速水蓮の世界を揺るがし、思考を乱し、計画の外から干渉してくる。
(面倒な相手だ…だが、無視するには興味深すぎる)
「……」
速水は黙って立ち上がった。
「もう行くの?」
「考えることが増えすぎた。少し頭を整理する」
「ふふ、そうなんだ」
柚葉は柔らかく笑いながら、手を振った。
「またね、速水くん」
速水は何も言わずに、図書室を後にした。
思考の奥深くに、これまでにない「違和感」が残ったまま。
次の日。
静寂に包まれた図書室。薄いカーテン越しに柔らかな光が差し込み、古びた紙の香りが微かに漂う。午後の授業が終わったばかりの時間帯、人影はまばらだ。
本棚の隙間から覗く琥珀色の瞳が、速水蓮を捉えた。
「やっぱり、孫子ですね」
七瀬柚葉が、ふわりと微笑みながら近づいてくる。彼女の腕には数冊の本が抱えられていた。速水は視線だけを動かし、彼女の選んだ本の背表紙を確認する。
『モモ』『夜と霧』『こころ』……なるほど。
「七瀬らしいラインナップだな」
椅子に座りながら、速水は本を閉じた。七瀬は彼の向かいの席に腰を下ろし、積み上げた本の一番上を指先でなぞる。
「速水くんは、どうして孫子が好きなの?」
「合理的だからだ。勝敗は戦う前に決まる、愚者だけが無策で戦場に立つ。感傷を排し、いかに無駄なく目的を達成するか。それを示した実用書として優れている」
「でも、それって生き方としては少し寂しくない?」
七瀬の声は柔らかいが、確かな芯があった。速水は眉をわずかに動かし、静かに彼女を見据える。
「寂しい、ね」
「うん。たとえば『モモ』では、人と向き合うことの大切さが描かれているの。時間どろぼうたちに騙されて、みんなが本当の時間を忘れてしまう。でも、モモは相手の話をじっくり聞くことで、人の心を取り戻していくの」
「つまり、お前は感情を無視して合理性だけを追求する生き方は、いずれ破綻すると言いたいのか?」
「そうじゃなくて…速水くんには、他の人よりずっと多くのことが見えていると思う。でも、“感じる” ことを自分で制限してるんじゃないかな」
七瀬の琥珀色の瞳が、まっすぐ見つめてくる。
速水は一瞬、黙り込んだ。
「…仮に、俺が『感じる』ことを軽視しているとしよう。だが、それが何か生きるのに不利になるのか?」
「うーん…たとえば、『夜と霧』を読んでみてほしいな。極限の状況で、人間がどう生きるのか、どう希望を持つのかを書いた本なの」
「希望、ね。あいにく俺は、生存戦略以外に価値を見出したことがない」
「だから、読んでほしいな」
七瀬はふっと微笑み、本を差し出した。速水は、それをしばらく見つめたあと、何も言わずに受け取る。
「読んだら、また話そうね」
そう言って、七瀬は立ち上がり、本棚の方へ歩いていく。その背中を見送りながら、速水は手の中の本を見つめた。
夜、寮の居室にて。
窓の外には夜の静寂が広がり、遠くで虫の声がかすかに響いている。寮の部屋のデスクには一冊の本が置かれていた。
『夜と霧』—ヴィクトール・E・フランクル。
速水蓮はその本の表紙を指でなぞりながら、対面のベッドに腰掛ける高嶺に視線を向けた。
「…お前、『夜と霧』は読んだことあるか?」
「うん、学校の推薦図書だったからね。だけど、速水がそれを読むとは思わなかったな」
高嶺は意外そうに目を丸くする。速水はふっと鼻で笑い、軽く本を持ち上げた。
「七瀬が貸してくれた。あいつのことだ、読めば何かを感じ取るだろうとでも思ったんだろう」
「で、どうだった?」
「正直なところ、思っていたよりも面白かったな」
速水は本を机に置き、椅子に深く座り直した。
「この本に書かれているのは、極限状態に置かれた人間がどう生きるか、どう死ぬか、そして、なぜ生き延びることができるのか…という話だ。ナチスの強制収容所での壮絶な経験の中、筆者は『希望』を持ち続けた者が生き残る確率が高いことを見出した。興味深いのは、身体的な強さではなく、精神的な『意味』を持つことが生存の鍵になる、という点だな」
「なるほど…蓮は、その考えをどう思った?」
高嶺の問いに、速水は少し目を細めた。
「俺の生存戦略とは、根本的に異なる発想だった。俺はこれまで、生き延びるには合理性と冷徹な判断が不可欠だと考えていた。感情や希望のような不確定な要素に頼るのは、むしろリスク要因だと思っていたからな」
速水はデスクに肘をつきながら、ゆっくりと指を組む。
「だが、筆者の理論によれば、希望や生きる意味を持つことが、極限状況においては合理的な戦略になり得る。戦争のような極限の環境では、合理性だけでは乗り越えられない局面がある、ということかもしれん」
「つまり、希望もまた生存戦略になり得る…?」
「ああ。たとえば、収容所で生き残った者の多くは、自分には生きる理由があると信じていた。『外にいる家族に会うため』『自分の研究を完成させるため』……そうした『意味』を持つことで、極限の苦痛に耐え、死を拒絶できたんだ」
速水は視線を窓の外に向けた。夜の闇の向こうに、まだ見ぬ何かが広がっているように思えた。
「戦い方というのは、環境によって変えるべきものだ。もしも俺が強制収容所のような環境に放り込まれたとしたら、冷徹な合理性だけでは生き残れないかもしれない。むしろ『意味』を持つことこそが、戦略として最適解になる可能性がある」
「じゃあ、速水は”希望”を持つべきだと思った?」
高嶺の問いに、私はふっと薄く笑った。
「それは…まだ結論を出せないな。だが、少なくとも『希望は愚者の幻想』とは断言できなくなった」
速水はもう一度、『夜と霧』の表紙を見つめる。
七瀬柚葉が、この本を読ませた意図。それが単なる善意なのか、それとも彼女なりの戦略なのか。
答えを出すには、まだ少し時間が必要だろう。
読書灯の仄暗い光の中、『夜と霧』のページがゆっくりとめくられる音だけが、静かな部屋に響いていた。
速水蓮は指先で紙の感触を確かめながら、再び数ページを遡って読み返す。筆者が語る「意味」の力。その概念は、彼の中にじわじわと侵食するように入り込んできていた。
一方の高嶺は、ベッドにもたれながら速水の様子を観察していた。
「蓮、お前…その本、相当気に入ったんじゃないか?」
軽い調子で問いかける高嶺の声に、速水は手を止める。
「…気に入ったというより、参考になる部分が多いと感じた、というのが正確なところだな」
「へぇ、それはどういう意味?」
「お前は、『意味』を持つことが人間の生存に直結することをどう思う?」
速水はゆっくりと本を閉じ、考え込むように視線を落とした。
「俺は今まで、人間は合理的な計算に基づいて生存を選ぶものだと考えていた。勝つために戦い、負けるとわかれば退く。感情や信念などはノイズに過ぎない…そう思っていた」
高嶺は黙って速水の言葉を聞く。
「だが、この筆者の理論に従うなら、状況次第では『希望』が合理性を超えることがある。『生きる理由がある者は、どんな苦しみにも耐えられる』…これは、俺の信条とは真逆の発想だ」
「でも、極限状況においては、それが最適解になる…ってことか?」
「そうだ。例えば、お前が死線に立たされたとする。そこから生還するには何が必要か?」
速水は高嶺の目を真っ直ぐに見据えた。
「おそらく、合理的な思考力、適切な戦略、そして…『生きねばならない理由』だ」
高嶺は少し考え込みながらも、ゆっくりと頷いた。
「それって、つまり…速水、お前にも『生きねばならない理由』があるのか?」
速水は答えず、ほんのわずかに微笑んだ。
「まだないな」
それは、嘘ではない。しかし、真実でもなかった。
『俺は生きる理由を必要としない』そう思ってきたはずだった。だが、この本を読んで以来、その前提が揺らぎ始めているのを感じていた。
七瀬柚葉は、速水にこの本を渡した。
彼女は、何を期待していたのか?
「…そろそろ寝るぞ、高嶺。明日も授業がある」
「お、おう。なんかお前、今日は妙に哲学的だな」
高嶺は苦笑しながら布団をかぶる。
速水はもう一度、『夜と霧』を手に取り、その表紙をじっと見つめた。
『意味』か—
それが戦略になり得るのならば、学んでおく価値はあるだろう。
速水は小さく息を吐き、静かに本を閉じた。
部屋の灯りが落とされ、暗闇の中に静寂が広がる。
高嶺はすでに寝息を立てていた。
一方、速水蓮はベッドの上で天井を見つめながら、思考の渦の中に沈んでいた。
—『意味』とは何か。
ヴィクトール・フランクルは、どんな極限状況においても、人間が「生きる意味」を見出せるかどうかでその運命が決まると説いた。
それは、速水にとって極めて異質な考え方だった。
戦略は冷徹であるべきだ。希望などという曖昧なものに依存すれば、判断を誤る。
そう信じていた。しかし、『夜と霧』に描かれた極限の状況を生き延びた者たちは、合理性だけでは説明のつかない理由で生を繋ぎ止めていた。
—俺は、何のために生きているのか?
合理性のみで動くならば、それは「勝利」のためだ。戦わずして勝つこと。それこそが最上の策であり、速水が追い求める生存戦略の本質だった。
だが、それだけなのか?
戦う理由、勝つ理由、生きる理由—
それを持たない者が、最適な決断を下し続けることはできるのか?
「…くだらないな」
速水は小さく笑い、自分の思考を切り捨てるように目を閉じた。
生存の意味を問うのは、弱者のすることだ。
俺はただ、勝ち続ければいい。
そう自分に言い聞かせながらも、私は心の奥底で、『ある名前』を思い浮かべていた。
七瀬柚葉。
彼女は、意味など求めずともそこに存在する。
光のように。
速水は、思考を振り払うように目を閉じた。
今は、ただ眠るべきだ。
外には茜色の空が広がり、薄暗い書架の間に静かな影を落としている。
速水蓮は『夜と霧』を手に取り、ページをめくる。彼の隣では、七瀬柚葉が静かに本を読んでいた。
ふと、彼女が顔を上げる。
「…速水くん、それ読んだの?」
「まあな。高嶺とも少し話したが、意外と読み応えがあった」
七瀬は微笑んだ。
「どう思った?」
速水は本を閉じ、無造作に机の上へ置く。
「率直に言えば、生存のための合理性とは別の指標を示していたな」
「…指標?」
「極限状況で生き残る者は、必ずしも体力のある者でも、賢い者でもなかった。大切なのは『生きる意味』を持つことだと筆者は言っていた」
七瀬は頷く。
「私も、それがこの本の核心だと思う」
速水は彼女を一瞥し、淡々と続けた。
「だがな、七瀬。生存とはもっと冷徹なものだ。意味などなくても、生き残る者はいる。むしろ『意味』に縛られたせいで、生存の機会を失うこともある」
七瀬は驚かなかった。むしろ、速水の考えが予想通りだったというように、微笑んだ。
「そうかもしれない。でも…生きることに”意味”があるからこそ、極限の状況でも人は耐えられるんじゃない?」
速水は軽く鼻で笑う。
「まるで説教する聖職者のようだな」
「そんなことないよ。ただ…速水くんは、『意味』を完全に否定してるわけじゃないでしょ?」
「何が言いたい?」
七瀬はじっと速水を見つめた。
「たとえば、どうしてこの学校に来たの?」
速水の目が細められる。
「戦略的選択だ。ここに来ることが最善だったから、それだけの話だ」
「ふふ…そう言うと思った。でも、それは『理由』であって『意味』じゃない」
「違いがあるのか?」
「あるよ。理由は『なぜそうしたか』で、意味は『なぜそれが自分にとって大切なのか』」
七瀬の琥珀色の瞳が、速水の思考の奥を覗き込むように輝いた。
速水は短く息を吐き、わずかに目を伏せる。
「俺にとっては、結果こそが意味だ」
「本当に?」
七瀬の問いかけに、速水は答えなかった。
図書館の静寂の中、心の奥で、かすかな揺らぎが生まれた。
速水は指先で本の表紙を軽く叩きながら、静かに口を開いた。
「七瀬、この本には一つ、大きな盲点がある」
七瀬は小首を傾げる。
「盲点?」
「そうだ。サバイバルバイアスがかかっている」
七瀬の表情に微かな変化が生じたが、驚きではなかった。むしろ、『やっぱり』と言わんばかりの穏やかな目で速水を見つめている。
「つまり…生き延びた人だけの証言だから、『生きる意味を持つことが大切だった』っていう結論になっている、ってこと?」
「その通りだ。死んだ者は何も語れん。意味を持とうが持つまいが、死ぬ時は死ぬ」
速水の声は冷徹だったが、そこには決して感情の欠落はなかった。むしろ、その声の奥にある何かを七瀬は感じ取っていた。
七瀬はゆっくりと目を閉じ、そしてまた開いた。
「…確かに、そうかもしれないね。でも、速水くん」
七瀬の声は優しく、それでいて鋭かった。
「もし、生き延びた人たちが『意味があったから耐えられた』と証言するなら、それは少なくとも彼らにとっては真実だったってことじゃない?」
速水はわずかに目を細める。
「個人的な主観としては、な」
「でも、それってすごく大事なことだと思うの」
七瀬は速水の方へ少し身を乗り出し、その琥珀色の瞳でじっと彼を見つめた。
「生きる意味が、絶対に必要なものかどうかは分からない。でも、それが『あったからこそ生きられた』という人がいるなら、意味には『生存戦略としての価値』(あなたにとっても価値)があると思うの」
速水はしばらく七瀬を見つめ、ふっと息を吐いた。
「…論理的には一理あるな。だが、俺にとって『意味』は最優先事項じゃない」
「それでもいいと思うよ。でも、いつか…速水くん自身が『意味』を持たざるを得ない時が来たら、その時はどうする?」
速水の指が、一瞬だけ『夜と霧』の表紙を軽く掴む。そして、すぐに手を離した。
「その時は、その時だ」
そう言いながらも、心の奥には、一つの疑問が生まれていた。
『意味』とは、本当にただの幻想なのか?
七瀬の言葉は、速水にとって『戦略』の外にあるものだった。だが、それがまるで静かに心の奥へ入り込んでくるように感じられた。
いつもなら論破して終わる話だ。それなのに—なぜか速水は、七瀬の問いに明確な答えを返せずにいた。
静寂が図書館を包んでいた。
速水は七瀬を見つめながら、何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。七瀬はただ穏やかに、しかし確信を持った瞳で見つめ返していた。
「…面白いな、七瀬は」
速水は口元にわずかな笑みを浮かべながら、肘をついて指先でこめかみを軽く押した。
「『意味』を持つことが生存戦略として機能する場合がある、か。まるで宗教みたいな話だな」
七瀬は少しだけ微笑んだ。
「うん、そうかもしれない。でもね、信仰があることで人は生きられることもあると思うの」
「人が『それ』を信じるからこそ、力を発揮する…か。人間の認知というものは、まったく興味深い」
速水は低く笑った。
その笑いには皮肉も冷淡さもなかった。
ただ、純粋に思考の歯車が回る心地よさを感じていた。
七瀬はそんな速水の様子をじっと見つめた後、ふっと視線を落とした。
「速水くんは、今まで『意味』を考えたことはなかったの?」
速水の指先がわずかに動いた。
「考える価値があると思ったことはないな」
「どうして?」
「単純な話だ。『意味』を持とうが持つまいが、必要な行動は変わらないからだ」
七瀬は小さく息をついた。
「…速水くんは、自分のことを『合理的』だと思ってるの?」
速水は肩をすくめた。
「違うか?」
七瀬は少しだけ困ったように笑い、そして首を横に振った。
「ううん、ある意味合理的ではあると思う。でも、本当は、たぶん…『合理的』だって、思い込んでいるだけなんじゃないかな?」
速水の目がわずかに細められた。
「思い込んでいる、か…」
「うん。速水くんは感情を『使う』のは上手だけど、自分の感情に対しては、あまり向き合わないよね」
速水はしばらく七瀬を見つめた後、小さく笑った。
「…それを言ったら、お前もだろ?」
七瀬の表情がわずかに揺れた。
「え?」
「お前は善人で共感力が高い。人の感情を敏感に察知する。しかし、それは『他人の感情』に限った話だ。自分の感情には、案外無自覚なんじゃないか?」
七瀬は一瞬、何かを言いかけたが、言葉にならなかった。
速水はその様子を見て、わずかに口角を上げた。
「俺は自分の感情を必要な時にしか使わない。お前は他人の感情を優先しすぎて、自分の感情を見失う。どちらが『合理的』かはともかく…まあ、興味深い対比ではあるな」
七瀬はゆっくりと瞬きをした。そして、静かに息を吸うと、ふっと微笑んだ。
「…そうかもしれないね」
その表情は、速水の言葉を否定するでもなく、全面的に受け入れるわけでもなく、ただそこに『存在していた』。
速水は七瀬のその微妙な表情を見て、一瞬だけ違和感を覚えた。
(…妙だな)
自分の眼をもってすれば、相手の感情をおおよそ把握できるはずだった。だが、この少女の表情には、『速水が読めない何か』があった。
それは計算でも、打算でもなく、ただ『そこにあるもの』。
速水は本を軽く叩き、静かに立ち上がった。
「今日はこの辺にしておくか」
七瀬は「うん」と頷いたが、その目は速水を捉えたままだった。
「ねえ、速水くん」
「なんだ?」
「『意味』を持つことって、案外悪くないものかもしれないよ?」
速水は微笑を返した。
「…それを決めるのは俺自身だ」
そう言い残し、速水は静かに図書館を後にした。
残された図書館にて。
七瀬は速水の背中を見送りながら、目を細める。
「…ふふっ」
彼女は小さく笑い、速水から返却された『夜と霧』を開いた。
速水蓮という男が『意味』を持つ時、その瞬間こそ—彼が変わる時なのかもしれない。
七瀬はそんな予感を抱きながら、静かにページをめくった。
初夏の風が吹く昼下がり。
学食にて、速水蓮、七瀬柚葉、高嶺悠真の三人は各自、自分の昼食を席に運ぶと、自然と雑談に移行していた。
「そういや、七瀬って普段何してるの? 本読んでるのは分かるけど、それ以外に趣味とかないのか?」
高嶺が気軽な調子で問いかける。七瀬は少し考えた後、微笑んだ。
「お菓子作りが好きかな、あと散歩も」
「へえ、お菓子か。意外と家庭的なんだな」
「意外?」
「いや、なんか…七瀬って本ばっかり読んでるイメージだからさ。そういうのもやるんだなって」
七瀬はくすっと笑い、速水は興味なさそうにスプーンを回しながら「お菓子作りね…」と呟いた。
「速水くんは、料理はしないの?」
「基本的にはしないな」
「基本的には?」
「必要があればするが、楽しむという感覚はない。食事は効率よく栄養を摂取する手段に過ぎない」
「味とか気にしないのかよ、お前」
高嶺が呆れたように言うと、速水は肩をすくめた。
「最低限のクオリティは求めるが、それ以上は無駄なこだわりだ。時間と労力をかける意味がない」
「うわぁ、すげぇ合理的…」
高嶺が微妙な顔をする中、七瀬は「そういう考え方もあるだね」と興味深そうに頷いた。
「じゃあ、速水くんの趣味って何ですか?」
「読書、筋トレ、チェス、麻雀。他にもいくつか」
「お前、麻雀できるのか?」
「ある程度はな」
「渋いな…」
「ルールと確率を理解すれば、あとは心理戦だ。理屈を知らない相手はただのカモになる」
「お前…なんで趣味までそんな殺伐としてるんだよ」
高嶺が頭を抱える中、七瀬は「でも、面白そうだね」と興味を示した。
「七瀬、お前麻雀できるのか?」
「まったく。でも、『心理戦』っていうのはちょっと興味があるかな」
「へえ…」
速水は七瀬を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「なら、今度教えてやろうか?」
「え? いいの?」
「ただし、『遊び』でやるつもりはない。勝ち負けにこだわらないなら、覚える意味はないからな」
七瀬は速水の目をじっと見つめたあと、ふわりと笑った。
「分かったよ。ぜひ、お願いします」
そのやりとりを見ていた高嶺が、「お前ら、普通にボードゲームとかやるって選択肢はないのか?」と嘆息した。
「七瀬は優しいけど、結構タフだよな……」
そんなことをぼやきながら、高嶺は冷めかけた味噌汁をすすった。
「じゃあ高嶺くんは、趣味って何なの?」
七瀬が興味を持ったように尋ねると、高嶺は「あー、俺か?」と腕を組み、少し考え込んだ。
「うーん、まあ、ゲームとか映画とかかな? あとはバイクにちょっと興味ある」
「バイク?」
速水が意外そうに眉を上げると、高嶺は「お、ちょっと食いついた?」とニヤリと笑った。
「いや、速水ってそういうの興味なさそうだからさ。意外だなと思って」
「実用性の面でなら考えるが、趣味としては理解しがたいな」
「まあなー、乗るのは好きだけど、整備とかになると面倒くさそうだしな。でも、風を切って走るのって気持ちよさそうじゃない?」
「ふふっ、なんだか高嶺くんらしいね」
七瀬が微笑むと、高嶺は少し照れたように鼻をこすった。
「まあ、まだ免許持ってないんだけどな。今度取ろうと思ってる」
「バイクか…。意外と自由を求めるタイプなのかもしれないな」
速水がぽつりと呟くと、高嶺は「お、なんか速水に分析されたぞ」と苦笑した。
「趣味なんてそんな大層なもんじゃないだろ。好きなもんやって、楽しけりゃいいんだよ」
「それが正しいかもね」
七瀬が静かに頷き、速水もわずかに目を細めた。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
三人はそれぞれのペースで席を立ち、それぞれの時間へと戻っていった。
休日の昼下がり、速水、七瀬、高嶺の三人は瑞峰学園の最寄り駅から電車で数駅の場所にある「神楽通り」を訪れていた。ここは昔ながらの商店街と個人経営の名店が並び、落ち着いた雰囲気の漂う街だ。
「おー、いい感じの街だな。チェーン店ばっかの駅前より、こういうとこの方が好きかも」
高嶺が周囲を見渡しながら、気楽に言った。
「速水くん、確かこの辺に古書店があるって言ってたよね?」
七瀬が尋ねると、速水は軽く頷き、足を進める。
「この通りの奥にある『矢神書房』だ。扱っている本の種類が豊富で、思想書や文学書のラインナップも悪くない」
案内された古書店は、ひっそりとした佇まいながら、扉を開けると独特の紙とインクの香りが漂っていた。
「うわぁ…素敵」
七瀬は目を輝かせながら、書棚を見上げる。
「ほら、こういうところは俺には敷居が高いんだって…」
高嶺は苦笑しながら、二人についていく。
速水は迷うことなく奥の棚へ向かい、慎重に何冊かの本を手に取る。七瀬も文学書のコーナーで嬉しそうに本を選んでいる。
「ねえ、これ…」
七瀬が手にしたのは、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』だった。
「焚書をテーマにしたディストピア小説か」
「前から読んでみたかったんだ。書物の価値について考えさせられるって聞いて…」
「悪くないな」
一方、高嶺は適当に手に取った本を眺めるが、どうにも内容が難しく感じる。
「なぁ、もっとこう、軽いやつはないの?」
「おまえに合いそうなのは…ミステリーか? それともエッセイか?」
「いや、そもそも本屋の時点でハードルが高ぇんだよな…」
結局、高嶺は七瀬の勧めで、馴染みやすそうな短編集を一冊だけ買うことになった。
喫茶店「月影」にて
本屋を出た三人は、商店街の一角にある喫茶店「月影」に入った。ここはクラシック音楽が流れる落ち着いた店で、地元の常連客も多い。
「お前ら、何頼む?」
高嶺がメニューを覗き込みながら聞く。
「ブレンドコーヒー」
「私はカモミールティー」
「じゃあ俺は、クリームソーダで」
「…一人だけ妙に浮いてるな」
「いいじゃん、たまには甘いのも飲みたくなるんだよ」
三人はそれぞれの飲み物が届くと、しばらくのんびりとした時間を過ごした。
「さっきの古書店、すごく良かったね」
「気に入ったのなら、また来るといい」
「うん。でも、速水くんはどんな本を買ったの?」
「これだ」
速水は袋から一冊の本を取り出す。タイトルは『統治ニ論』。
「…お前、やっぱりそういうの買うんだな。しかも、英語の原文じゃねーか」
「政治思想の基礎だ。オンラインで一度目を通したが、書籍でじっくり読みたくてな」
「速水くんらしいね」
七瀬はクスッと微笑む。
「七瀬は、『華氏451度』を読んだら感想を聞かせてくれ」
「もちろん!」
夜の商店街を歩きながら
夕暮れが近づき、商店街の通りにはオレンジ色の灯りがともり始めた。
「今日は楽しかったなー」
高嶺が伸びをしながら言う。
「たまにはこういう時間も悪くない」
速水も静かに頷く。
「また、みんなで来ようね」
七瀬の言葉に、二人はそれぞれのやり方で肯定の意思を示した。
穏やかな時間が流れる中、三人は学園への帰路についた。
夜の駅前と、交わる想い
神楽通りを後にし、三人は駅へと向かった。周囲には街灯の温かな光が揺れ、人々が夕飯の買い物を終えたのか、足早に帰路についていた。
「この時間の街も悪くないな」
速水がふと呟く。
「うん。夜の雰囲気って、昼間とは違う顔を見せてくれるよね」
七瀬は小さく微笑みながら、どこか遠くを見るような表情をした。
「俺はさ、こういう静かな街並みも好きだけど…」
高嶺がスマホを取り出し、地図アプリを開きながら続ける。
「せっかくなら夜景とか、もっと派手な場所にも行ってみたいよな。都会のビルの上とかさ」
「それも悪くはないが…喧騒の中では、思考がまとまらなくなることもある」
「またお前は細かいこと言うなぁ」
そんな会話をしながら、駅前のロータリーに到着した。
帰り道。
時計を見ると、学園の門限までにはまだ余裕があった。
「このまま帰るのもったいない気がするな」
高嶺が未練がましく呟くが、速水は苦笑しつつも首を横に振った。
「今日は十分だろう」
「そうだね。また来ればいいんだし」
七瀬が優しく言うと、高嶺も渋々納得した様子だった。
「じゃあ、次はどこに行くか計画立てないとな。遊ぶ時くらい、しっかり考えておかないと」
「お前が計画を立てるのか?」
「…いや、やっぱり七瀬と速水に任せるわ」
「えっ?」
突然の指名に七瀬は驚くが、高嶺は満足げに頷いた。
「お前らと行くとこなら、たぶん俺も楽しめるだろ」
速水は小さく笑みを浮かべたが、それには触れずに静かに言った。
「それなら、次はもう少し遠出してみるのもいいかもしれないな」
「それも面白そうだね」
三人は改札をくぐり、それぞれの寮へ帰るため、電車に乗り込んだ。
窓の外を流れる夜の街を見つめながら、次の休日を想像しつつ—彼らは、それぞれの思いを胸に秘めていた。
速水の違和感。
学園へ戻る電車の中、速水は車窓の外に流れる街の灯りをぼんやりと眺めていた。高嶺と七瀬は、次の遊びの計画について軽く話している。
「今度は少し遠出するなら、どこがいいかな?」
「やっぱり、歴史のある場所とか、落ち着いた雰囲気のところがいいかも…」
七瀬の柔らかな声が聞こえる。しかし、速水の意識はどこか別のところへ向かっていた。
(—何かが引っかかる)
楽しい時間を過ごしたはずなのに、心のどこかで小さな違和感が残っていた。
(俺は、ただ学生生活を送るつもりでここにいるわけじゃない)
瑞峰学園において、速水はただの「優等生」でも「友人と遊びを楽しむ高校生」でもない。策略家として、必要とあらば策を巡らせ、相手を操ることも厭わない。
だが、今日の時間は、まるでそれを忘れさせるかのような、純粋な穏やかさに満ちていた。
(…まるで、らしくないな)
速水は目を閉じ、一瞬、自嘲するように唇を歪めた。
そんな速水の様子を、七瀬はそっと盗み見るように観察していた。
(速水くん…今、何を考えてるんだろう)
速水は普段通りに見えたが、どこかほんの僅かに違和感があった。
楽しい時間を過ごしたはずなのに、速水の表情はどこか遠くを見つめているようだった。
それが何を意味するのか、七瀬にははっきりとは分からなかった。だが、確信していることが一つある。
(…きっと、速水君はまだ自分がどうしたいか悩んでいる)
速水蓮という人間は、単純な優等生ではない。時折、彼の思考の奥底に潜む、冷徹さや計算の気配を感じることがある。
それでも、七瀬は速水を恐れたり、避けたりはしなかった。
(いつか、その『答え』がわかる日が来るのかな)
七瀬はそう思いながら、何も言わずに窓の外を眺めた。
「おーい、速水? お前、次の休みどうするか聞いてなかったろ?」
高嶺が笑いながら肘で軽く突くと、速水はわずかに眉を動かし、思考を現実に引き戻した。
「ん? ああ……すまない、考えごとをしていた」
「何考えてたんだよ?」
「いや、大したことじゃない」
そう言いながら、速水は意識的に表情を整え、自然な笑みを浮かべた。
「次の休みの話だったな。遠出なら、登山とかどうかな」
「おっ、それらしいこと言うじゃん!」
「じゃあ、次はもう少し本格的に決めようか」
七瀬が柔らかく微笑む。
そんな彼女の姿を見ながら、速水はふと考えた。
(このまま流されるのは、俺のやり方ではない)
だが、七瀬や高嶺と過ごす時間が、自分にとって「無駄」ではないこともまた、理解していた。
(まあ、しばらくは流されるのも悪くないか)
そう結論を出し、速水は車窓の外に視線を戻した。
電車は夜の街を走り続け、やがて瑞峰学園の最寄り駅へと近づいていった。




