第5話 ウラの賭場
速水蓮の能力でもっとも特筆すべき点は、磨き抜かれた技でも、その悪魔的な知略でも無い。
生まれつき脳内物質の調整ができ、生活の中でその能力を伸ばしていったことである。
瑞峰学園から離れた街での出来事。
繁華街から少し外れた場所にある薄暗い路地裏。
速水蓮は、無駄に騒がしい街の喧騒を避けるように、一人で歩いていた。
だが、彼の背後で気配が膨らんだ。
—足音が増える。
—息遣いが荒くなる。
—神経がこちらに集中する。
「おい、ちょっと待てよ」
低く、粘ついた声が聞こえた。
速水は一切立ち止まらない。
視線を前に向けたまま、歩調を変えずに歩き続ける。
「…無駄だ。もう逃げられない」
思考が瞬時に働く。
三人。年齢は二十歳前後。
動きに無駄が多いが、経験はある。
素手の者と、ナイフを持った者。
—相手の動き、癖、心理状態を瞬時に解析。
—攻撃パターンを予測し、脳内物質をコントロールする準備を整える。
(さて…どう料理するか)
速水は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。
「…何か用か?」
静かに、低く、一定のリズムで声を発する。
相手の動揺を誘うトーンと抑揚。
速水の能力が、相手の心理を鋭く捕える。
「ハハッ、ちょっと遊んでいけよ」
「金なら持っていない」
「金? そんなもんじゃねぇよ…!」
三人の男たちの顔には、徐々に焦りが滲み始めていた。
(おかしいな…こいつ、怖がってない)
それどころか、速水の態度には余裕すらあった。
それが、彼らの本能に無意識の違和感を植え付ける。
「…へぇ、随分落ち着いてんな」
ナイフを持った男が前に出る。
微かな笑みを浮かべながらも、目は完全に警戒していた。
—今だ。
速水は脳内物質をコントロールする。
① ノルアドレナリン増加 — 瞬発力と集中力を極限まで高める。
② アドレナリンを適度に放出 — 反応速度を極限まで引き上げる。
③ セロトニン抑制 — 余計な感情を排除し、冷徹に行動する。
結果、速水の認知速度と判断力は通常の人間を遥かに超えた領域に達する。
次の瞬間—
「ッ!」
ナイフが閃いた。
速水はその一瞬を正確に「視た」。
ナイフの角度、刃の速度、手首の動き。
すべてが予測通りだった。
右足を僅かに引く。
刃を紙一重で避ける。
同時に、相手の手首を掴み、捻る。
—ゴキッ。
男の顔が苦痛に歪む。
速水はさらにナイフを持つ指を逆方向へ弾く。
—カランッ。
鋭利な刃物が、アスファルトに転がり、乾いた音が響く。
「な…ッ!?」
男が叫ぶ間もなく、速水は次の行動に移っていた。
—攻撃ではなく、心理の崩壊を狙う。
「お前が最初にやられる。次は…誰だ?」
淡々とした声が、暴漢たちの神経を冷たく刺激する。その一言が、彼らの心に“恐怖”を植え付ける。
(これは…マズイ)
—二人目の男が動く。
拳を握り、真正面から殴りかかる。
「単純な攻撃だな」
速水は、一瞬で最適なカウンターを導き出す。
後方へ半歩引き、拳の軌道をずらす。
同時に、腹部へ鋭い肘打ちを入れる。
「ッ…!!」
息が詰まった男が膝を折る。
意識が飛びかけているが、速水はさらに一手。
相手の着衣で首元を締め上げ、血流を制限—「絞め落とす」。
「!? ちょ、待て、こいつ…!」
残る一人が後ずさる。
速水は、冷たい眼差しを向けた。
「最後に、お前だな」
—もう戦意はない。
三人目の男は、身体を震わせながら数歩後退する。
膝が震え、喉がひゅっと鳴る。
—速水の計算通りだった。
恐怖とは、最も純粋な制圧手段。
脳内物質の操作によって、速水は自らの恐怖を完全に排除し、一方的に相手に植え付けることができる。
これこそが、速水の最大の武器だった。
「二度と俺の前に現れるな」
静かな声。
だが、それは確実に男の脳裏に焼き付いた。
「…!!」
三人目の男は、転ぶように逃げていった。
残ったのは、路地裏に転がる二人の暴漢と、静かに佇む速水蓮。
彼は、乱れた襟元を整えると、何事もなかったようにその場を後にした。
静寂の中、速水の脳内では、セロトニンの分泌が徐々に戻り始めていた。
(少し、やりすぎたか…)
だが、それでも速水は一切の罪悪感を持たない。
なぜなら、これこそが、生存戦略として最適な選択だったのだから。
学園に戻り、襲撃された一件を槙原美琴に調査してもらうと、どうやら御門が計画したことらしかった。
(どうにも、危なっかしいな)
既に、御門に対する最善の策は綻びを見せつつある。
この状況を打開するには、もっと深く瑞峰学園の力学を理解し、対策を講じなければならないが、今のところやるべきことはやり尽くした感がある。
速水は様子を見ることにした。
ある放課後、部活も終わり、速水と高嶺が他の生徒たちと寮で休んでいると一人の男子生徒が話しかけてきた。
「なあ、お前ら知ってるか?」
男子生徒が、妙に含みのある声で言った。
「何を?」
「この学園には、裏の賭場があるって話だよ」
一瞬、空気が張り詰める。
「賭場?」
速水が問い返すと、男子生徒は声をひそめた。
「現金は使わない。でも、勝負の内容は本物だ。賭けるのは、情報、信用、権利」
「またバカな噂を」
高嶺が呆れたように腕を組む。
「瑞峰は規律の厳しい学校だぞ。賭博なんか発覚したら即退学だ」
「それが、ちゃんとバレないようにやってるらしいんだよ」
男子生徒は自信ありげに続ける。
「証拠を残さないし、金を賭けないから法的にもグレーゾーン。だから、教師たちも見て見ぬふりってワケだ」
「証拠がないなら、ただの噂じゃないのか?」
速水はこともな気に返す。
「いや、実際に負けて何かを失った奴がいるらしい。例えば—大事な秘密を握られたとか、成績が急に落ちたとか」
「…面白いな」
速水は薄く笑った。
「賭場ってのは、どこにあるんだ?」
「さあな。俺も詳しいことは知らない。ただ、関わるには誰かの推薦が必要らしいぜ」
推薦—つまり、選ばれた者だけが入れる世界。
「それと、そこの“ボス”は女らしい」
「女?」
「片桐夏希って名前だ。知ってるか?」
その名前に、周囲の空気がまた変わった。
誰もが、ある共通の認識を持っているようだった。
「不敗の夏希か」
高嶺が低く呟く。
「なんだ、それ?」
「知らないのか?」
「三年の片桐夏希。瑞峰学園に在学しながら、不動産や株式で何億と稼いでいる凄腕だ。最近では暗号資産にも手を出して負けなしらしい」
「その片桐が、裏でも派手にやっているんだ。面白そうだろ」
速水は少し考えた振りをした後、再び笑みを浮かべた。
「なるほど。興味深い」
その言葉に、高嶺はじっと速水を見つめた。
「おい、深入りするなよ」
「さあな」
速水の笑みは、興味を隠しきれていなかった。
こうして、賭場の噂は速水蓮の耳に刻まれる。
数日後、速水は決定的な手がかりを手に入れた。
「お前、賭場に興味あるのか?」
声をかけてきたのは、寮の先輩だった。
裏の世界に通じる者たちは、速水が興味を持っていることをすでに察知していたのである。
「…まあ、少し」
「なら、試してみるか?」
速水は軽く笑い、誘いに乗ることにした。
その夜、速水は案内人に連れられ、学園の外れにある古びた校舎へと向かった。
授業では使われなくなった旧校舎、そこが、『賭場』の入り口だった。
案内人が何かの合言葉を告げると、鍵のかかった扉が開く。
中に入ると、薄暗い廊下の先に小さな灯りが見えた。
進むにつれ、ざわめきが聞こえてくる。
廊下の奥、鉄製の扉を抜けると、
そこには、瑞峰学園のもうひとつの顔が広がっていた。
机が並べられ、数人の生徒がカードや麻雀牌を前に睨み合う。
壁際には観戦する者たちが立ち、時折、鋭い視線を飛ばす。
だが、決して金のやりとりはない。
賭けられているのは、情報・信用・権利。
速水が興味を抱くには十分な世界だった。
「ようこそ、瑞峰の裏へ」
静かに歩み寄ってきたのは、一人の女生徒。
学園内では「不敗の夏希」と呼ばれる片桐夏希だった。
「新入りか。アンタが、速水蓮?」
「…俺を知っているのか?」
「噂くらいはね。アンタ、いろんなとこにちょっかいだしてんでしょ?」
速水の目がわずかに細まる。
この場にいるのは、ただのギャンブラーではない。瑞峰学園の表の秩序とは別のルールを持ち、それを当然のものとして生きる者たちがいた。
「新入りは、まず、アタシと勝負することになっているの。心の準備はいい?」
「ああ」
速水は短く答え、微笑む。
「賭けるのは?」
「アンタの秘密と、アタシの秘密」
「…いいね」
速水は椅子に腰掛けた。
「ゲームはチンチロリン。シンプルにやろう」
「…面白い」
片桐が親、速水が子。
「じゃ、行くよ?」
片桐はサイコロを振った。
コロコロと転がり、出目は—「1」。
片桐は無言で微笑む。
「さあ、アンタの番」
速水はサイコロを手に取り、深く息を吸った。
サイコロを振る。
コロコロ…。
出目は—「1・2・3」。
“ヒフミ”—即負け。
静寂が落ちる。
片桐はゆっくりとサイコロを眺め、やがてクスリと笑った。
「あら?」
速水は無言でサイコロを見つめる。
自分の手の感覚、呼吸、微細な動き、どこにも異変はなかった。
「…何をした?」
片桐は薄く笑った。
「何かしたと思う?」
「…いや」
これはただの偶然。運が悪かっただけ。
だが—
それこそが、片桐夏希の勝負勘。
相手に「勝てる」と思わせ、最も致命的な瞬間に“現実”を突きつける。
片桐はサイコロを指で転がしながら、微笑んだ。
「さ、約束通り—アンタの秘密を聞かせてもらおうか?」
「それと、アンタのメッキはとっくに剥がれているから、変な駆け引きはやめてね」
速水は、迂闊にも槙原美琴と協力関係を持ってしまったため、速水が策士であることは周知の事実となってしまっていた。
特に槙原が、裏切ったというわけでは無い。
それなりに知性のある瑞峰学園の生徒にとっては、速水の正体など遅かれ早かれ気づかれる運命だったのだ。
-
瑞峰学園、裏の賭場。
場は静まり返っていた。
速水蓮、敗北。
「…さ、約束通りアンタの秘密を聞かせてもらおうか?」
片桐夏希はサイコロを指で弾きながら、微笑んだ。
周囲の賭場の面々も、一斉に速水を見つめる。
速水は、片桐の顔を見る。
脳内物質を調整する。
冷静になろうとするのではない。
「なにもなかった」と、脳を騙す。
緊張、不安、羞恥—すべてを打ち消し、ただ”無”になる。
だが、片桐はそれを見抜いたように、クスリと笑う。
「ん…?」
「…何か?」
「今、何をした?」
「別に」
「嘘」
片桐は頬杖をついて、じっと速水を観察する。
「普通、負けた直後ってのは、悔しさとか苛立ちとか、何かしらの感情が表に出るものだ。でもアンタは一瞬で”何もなかった”みたいな顔になった」
周囲のギャンブラーたちも、興味深そうに速水を見つめる。
「気のせいじゃないか?」
「ううん」
片桐はサイコロをコツコツと机に当てながら、ゆっくりと言った。
「アンタ、もしかして、自力で脳内物質を制御できるの?」
場がざわめく。
「ほう」
「マジかよ?」
「そりゃあ、負けても動じねえわけだ…」
速水は静かに息を吐いた。
「…さて、質問は一つだけだったな?」
「ええ。私は”君の秘密”を知った。契約成立ね」
片桐は満足げに微笑んだ。
—この瞬間、速水蓮の能力は瑞峰学園の賭場で広く知られることになった。
それはつまり——
「速水蓮は心理戦では決して動じない」
「どんな緊張も、恐怖も、意識的に遮断できる」
—騙し合いにおいて、最も厄介な存在であるということ。
片桐は指先でサイコロを転がしながら、言った。
「…面白くなってきたね」
速水は静かに、片桐を見つめ返した。
「でも、それがアタシに通用する?」
「まだ、試しているところだ」
片桐は笑みを浮かべたままサイコロを弄ぶ。
「そう、じゃあ次の勝負ね。アンタが親。欲しいモノは?」
「御門の秘密」
「へえ、なんで御門の秘密を知りたいの?」
「一悶着あってね。一度あいつの手下に襲撃されたんだ」
片桐はクックと笑った。
「アンタも大変だねぇ。だったらもっと手早く、御門から手を引いてもらう権利を賭ければいいんだよ」
「そんなことができるのか?」
「ここは瑞峰の裏、あらゆる手で御門に対処できる」
「それならいいが、負けた時はどうなる?」
「そうだね、負けたら次の一週間挨拶を『ごきげんよう』にするってのはどう?」
「それは、あんたが何か得をするのか?」
片桐夏希は、その問いには答えずに笑う。
速水もそれ以上聞かずに、サイコロを手に取る。
速水は深く息を吸い、静かに吐いた。
この一投で決まる。
ドーパミンを抑え、余計な興奮を排除。アドレナリンとノルアドレナリンを適度に活性化し、身体の感覚を鋭敏にする。
指先の筋肉、関節の可動域、振るスピード、角度、全てを計算し尽くす。
その様子を見た、片桐夏希の笑みが深まる。
サイコロが宙を舞う。
所詮、チンリロリンは運賦天賦の遊戯、速水が何かしたところで、それはオカルトに近い。
しかし、今できることを、やることで計算すら超えた運を引き寄せる。
静まりかえる、賭場のど真ん中で、サイコロが転がり、止まる。
『ピンゾロ(1・1・1)』
「……へえ?」
片桐夏希が微かに目を見開いた。
それは驚きでもあり、興味でもある。
速水蓮は軽く息を吐き、冷静に告げる。
「俺の勝ちだ」
「速水蓮。アンタって本当に面白いね」
速水蓮が感情をコントロールできるという噂は、瞬く間に瑞峰の裏へ広がった。
「…本当か? アイツ、感情を完全に制御できるって?」
「負けても動じないらしい」
「それどころか、賽の目すら操れるとか」
賭場では”心の揺らぎ”こそが勝負の鍵となる。
不安、焦燥、欲望、それらを利用して人を誘導し、勝利を手繰り寄せるのがギャンブラーのセオリーだ。
だが、速水はそれを意図的に遮断できる。
「…ヤバいやつなんじゃねえか?」
ある者は危険視し、
ある者は利用しようと企み、
ある者は試そうと興味を抱いた。