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第三の条件  作者: コバヤシ
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第32話 社会の勉強

 五時間目、社会。


 黒板にはすでに《国家》《情報》《倫理》の文字が並んでいる。


 神喰朱雀はチョークを指先で転がしながら、生徒たちを見渡した。


「……では、一つ例を出そう」


 低い声が教室に落ちる。


「SNSだ」


 一瞬だけ、空気が軽くなる。


 だが神喰は笑わない。


「娯楽だと思っている者も多いだろうがな。これは歴史上、極めて強力な政治装置でもある」


 数人が顔を上げる。


「国を動かすのは、昔は軍隊や新聞だった。今は何だと思う?」


 沈黙。


 七瀬が小さく手を挙げた。


「……世論、ですか?」


「近い」


 神喰は頷く。


「だが、世論は自然には生まれない。誘導される」


 黒板に新しい言葉が書かれる。


 《拡散》《炎上》《アルゴリズム》。


「一つの動画、一つの投稿で、選挙の結果が変わることもある。政策よりも『感情』が優先される時代だ」


 教室が静かになる。


 一ノ瀬が腕を組んだ。


「でもさ、それって悪いことばっかじゃねぇだろ?」


「そうだな」


 神喰は否定しない。


「弱者の声が可視化されるという利点もある。だが」


 チョークの音が止まる。


「感情が加速すると、人間は思考を放棄する」


 その言葉に、速水の視線が上がった。


「速水」


 名前が呼ばれる。


「SNSが政治を変える理由は何だと思う」


 速水は数秒だけ沈黙した。


「……速度です」


 短い答え。


「従来の政治は時間をかけて合意を形成した。SNSはその過程を圧縮する。だから極端な意見ほど広がる」


 神喰がわずかに笑う。


「続けろ」


「さらに、人間は怒りや恐怖に反応しやすい。アルゴリズムはそれを強化する。結果として、最も合理的な意見ではなく、最も刺激的な意見が政治を動かす」


 教室の後ろで誰かが「こわ…」と小さく呟いた。


「つまり」


 神喰がまとめる。


「SNSは民主主義を強化もするし、破壊もする」


 高嶺が小声で言った。


「便利すぎる武器って感じだな」


「武器、か」


 七瀬が少し考える。


「でも、それをどう使うかは人ですよね」


「そうだ」


 神喰は短く頷いた。


「技術は中立だ。問題は、人間の精神の成熟度だ」


 その言葉に、速水の思考がわずかに深まる。


 技術進化に対して精神進化が遅れている。


 観測者の思想と重なる。


 神喰は教壇から降りる。


「では最後に一つだけ」


 教室を見回す。


「snsを使っているお前たちは、まだ、政治を『見る側』だと思っているか?」


 誰も答えない。


「違う。お前たち自身が、すでに社会を動かす側になっている」


 チャイムが鳴る。


 授業が終わる。


 ざわめきが戻る。


 一ノ瀬が椅子を引きながら言った。


「政治とか、正直遠い話だと思ってたわ」


「遠くない」


 速水が静かに言う。


「ただ、気づいていないだけだ」


 七瀬はノートを閉じた。


 放課後。


 新聞部の部室は、夕方の光でやわらかく染まっていた。


 古い机の上には切り抜き新聞とノートPC。壁際のホワイトボードには。各部員の取材予定が並んでいる。


 速水たちは、九条楓の元に遊びに来ていた。


 一ノ瀬が椅子を後ろに傾けながら言った。


「さっきのSNSの話さ。結局、民主主義って今でも機能してんのか?」


 軽い調子だったが、問いは重かった。


 七瀬が少し困った顔をする。


「いきなり難しいね……」


 言葉を選ぶ気配。


 速水は数秒黙った。


「……時代遅れになりつつある部分はある」


 淡々とした声。


「理由はいくつか挙げられる」


 一ノ瀬が身を乗り出す。


「例えば?」


 速水は指を一本立てた。


「まず、民衆が合理的に判断しない」


 教室の空気が一瞬だけ静まる。


 七瀬がわずかに眉を寄せる。


「それ、ちょっと言い方ひどくない?」


「事実だ」


 速水は視線を動かさない。


「人間は情報より感情で投票する傾向がある。怒り、恐怖、共感。SNSはそれを増幅する」


「つまり、『馬鹿だから』ってことか?」


 一ノ瀬が笑いながら聞いた。


 速水は首を横に振る。


「違う。愚かというより、進化の仕様だ」


「人間の脳は政治を判断するために設計されていない」


 速水は二本目の指を立てる。


「第二に、情報量が多すぎる」


「え?」


 高嶺が振り返る。


「昔の民主主義は、新聞数紙と討論で意思決定していた。今は秒単位で情報が変わる。一般人は追いつけない」


 九条が呟く。


「情報過多による思考停止……」


「そう」


 速水は頷いた。


「結果、単純な物語を提示した者が勝つ」


 三本目の指が立つ。


「第三に、専門性の問題」


「政治って難しいから?」


 七瀬が聞く。


「国家運営は高度な専門職だ。だが民主主義では、専門家と未経験者の一票が同じ重さになる」


 しばし沈黙が流れ、一ノ瀬が笑う。


「それは、そうだな」


「事実は感情を考慮しない」


 速水の声は平坦だった。


 四本目。


「第四に、技術と制度の差」


「技術と制度の差?」


 九条が顔を上げる。


「技術は指数関数的に進化する。だが政治制度は直線的にしか変わらない。結果、制度が現実に追いつかない」


 部室の外で誰かの足音が遠ざかる。


 七瀬が静かに言った。


「……でも、民主主義って、人を信じる仕組みでもあるよね」


 速水は少しだけ目を細める。


「民主主義も一長一短だということだ」


 短く言う。


「民主主義は『最善』ではない。ただ、『他より壊れにくい』だけだ」


 一ノ瀬が腕を組む。


「じゃあ、お前は何がいいと思ってんの?」


 速水は少しだけ考えた。


「…分からない」


 珍しく、即答しなかった。


「今の人類は、技術に精神が追いついていない。だからどの制度も不完全だ」


 九条が速水だけに聞こえるように呟く。


「観測者が言いそうなこと」


 速水は何も答えない。


 ただ窓の外を見る。


 夕焼けが、ガラス越しに歪んでいた。


「善人は」


 ふいに速水が言った。


「悪意のある人間が考えていることなんて、想像もつかない」


 誰も返事をしない。


「民主主義は善意を前提に作られている。だから、悪意のある少数に操作されやすい」


 部室が静まり返る。


 一ノ瀬が小さく息を吐いた。


「……お前、ほんと人を信用しねぇのな」


「現実的と言え」


 速水は淡々と返す。


 七瀬は少しだけ笑った。


「でもさ」


 机に肘をつきながら言う。


「それでも、人が決めるしかないんだよね」


 速水は否定しなかった。


 ただ、短く言った。


「今は、な」


 その言葉の余白だけが、部室に残った。

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