第3話 最初の授業
瑞峰学園の教室は、一見すればどこにでもある空間だった。
整然と並ぶ机、窓から差し込む光、壁の年間カリキュラム表。だが、そこに集う生徒たちは一様ではない。
名門中学の出身者。地方の公立から這い上がってきた者。
スポーツ推薦組に、謎の選抜枠。
経歴も目的も異なる彼らの中に、速水蓮の姿もあった。
—
「おはよう」
教壇に現れたのは、50代半ばと思しき男だった。
痩身に地味なスーツ。古びた革鞄と黒縁眼鏡。
その眼差しは教室をなめるように走り、一人ひとりを測っていた。
「政治経済を担当する木崎だ。……今日が、お前たちにとって最初の授業になるな」
チョークを手に、黒板に一言だけ書く。
『政治経済』
その文字の下に、木崎は唐突に問いかけた。
「さて、お金とは何だ?」
空気がざわめいた。
「え?」
「お金って、いきなり……」
木崎は黒板を指でトントンと叩きながら言う。
「お前たちはこれから大学に進み、社会に出る。そして、働き、金を稼ぐ。その時に問われる。“お金とは何か”――これに答えられるか?」
教室に沈黙が落ちた。
「貨幣、です」
ようやく一人が答える。
「いいね。じゃあ、“貨幣”とは何だ?」
「……物と交換するための……道具?」
「交換手段の一つ。正解のようで、まだ足りないな」
木崎は、黒板に新たな言葉を書き足した。
『信用』
「お金とは、“信用の数値化”だ。紙幣そのものには価値はない。ただの紙切れだ。だが、皆がそれに価値があると“信じている”から、通貨として機能している」
間を置かずに、続ける。
「たとえば、将来どこかの会社に就職して給料をもらう。――その金は、何の対価だ?」
「労働の……対価?」
「そうだな。だがもう一歩、深く考えよう。“その賃金”は、何によって決まる?」
生徒たちは言葉を探す。
「実力か? 能力か? 労働時間か?――違う。“どれだけ信用されているか”だ」
教室が一瞬静まる。
「スキルや努力だけじゃ足りない。どれだけ信頼されているか。立場、学歴、所属、印象、空気。すべてが信用の材料になる。そしてその信用が、お前たちの“価値”になる。……つまり、お金とは、信用の仮面だ」
黒板に書かれた式に線が引かれる。
『信用 = お金』
「だからこそ、お前たちは“信用”を築かなきゃいけない。成績、人間関係、振る舞い……その積み重ねが、いずれ“お金”になる。信用を得た者は富を得る。失った者は奈落に落ちる。それが、資本主義の本質だ」
教室の何人かが、ようやく鉛筆を走らせ始めた。
その時、速水が手を挙げる。
「先生、質問していいですか?」
木崎は眼鏡越しに視線を向ける。
「…どうぞ」
「信用が“お金”になるなら、なぜこの世界には貧しい人がいるんですか?」
一拍。空気がぴたりと止まった。
木崎は、わずかに口角を上げる。
「その問いに、お前はどう答える?」
速水は躊躇なく言った。
「スタートラインが違うからです。生まれた瞬間から“信用”を持ってる人間と、そうじゃない人間がいる。親が富裕層だったとか、教育環境が整っていたとか。そういう“最初の差”が、信用の差になる」
木崎は腕を組んで頷く。
「つまり、“生まれ”が全てだと?」
「いえ、それだけじゃないと思います」
速水の声は変わらず冷静だ。
「信用は、作れる。“操作”できるものです。詐欺師を見れば分かる。根拠がなくても、態度や言葉で“信用らしきもの”を演出し、金を引き出す。逆に、真面目に生きても信用が得られない人間もいる。つまり、信用は“完全な実力主義”でも“完全な運”でもない。演出次第、ということです」
しん、と静まる教室。
木崎は、黒板に再び言葉を加えた。
『信用は操作できる』
「速水。面白い意見だ」
静かに微笑しながら言う。
「その通りだ。信用は操作可能な概念だ。政治家も、企業も、SNSのインフルエンサーも、全て“信用をどう演出するか”で食っている。では」
木崎は視線を鋭くして、問う。
「お前なら、どうやって“信用”を作る?」
速水はわずかに微笑んだ。
「まずは、“信用を得るための信用”を作ります」
「具体的には?」
「誰もが納得する、小さな成功を積み重ねる。ルールに則って実績を作る。最初は堅実に。そこから段階的に“信用”を増やしていく。場合によっては“演技”も交える。それが効率的です」
教室の何人かが、筆を止めたまま考え込んでいる。
木崎は、静かに生徒たちを見渡す。
「速水の話、どう思う?」
誰も、すぐには答えなかった。
木崎は満足そうに頷いた。
「いいぞ。これからは、ただ知識を学ぶだけじゃない。“信用とは何か”を、自分の人生を使って考えていけ。……これは、政治経済だけの話じゃない。お前たち自身の生存戦略の話だ」
チャイムが鳴った。
生徒たちは、どこか無言でノートを閉じていく。
速水はペンを置き、目を伏せた。
(信用は操作できる、当然のことだ)
だが。
それをどう使うかが、最終的に“人間性”を問われる部分だ。
それを分かっている者は、意外と少ない。