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第三の条件  作者: コバヤシ
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第29話 記録者の契約

 放課後の図書室は、雨の気配だけが残っていた。


 窓際の席で、速水蓮は本を開いたまま動かない。読書というより、思考の時間だった。


 足音が近づく。


「…速水くん」


 振り向かなくても分かる。九条楓だ。


「取材なら今日は勘弁してくれ」


 速水が先に言う。


「ううん。今日は違う」


 楓は向かいの席に腰を下ろした。


 視線を合わせるまで、ほんの一拍だけ間があった。


「少し、聞いてほしいことがある」


「内容によるな」


 速水の声は淡々としていた。


 楓は小さく息を吸う。


「『観測者』って、知ってる?」


 速水の眉が、わずかに動いた。


「…何だ、それは」


 知らない。


 楓は少しだけ目を細める。


「やっぱり…知らないんだ」


「説明しろ」


 短く言う。


 楓は頷いた。


「学園の中にね、教員でも、生徒でもない人たちがいるの。直接干渉はしない。ただ、記録してる」


「……監視か」


「違うと思う。少なくとも、私が知ってる範囲では」


 楓は言葉を選ぶ。


「監視とかじゃない。もっと長い時間の観察。研究に近い感じ」


 速水は無言で彼女を見る。


「私はね、その人たちに…少しだけ仕事を頼まれてる」


「仕事?」


「外部委託っていうのかな。記事を書く人間って、自然に情報が集まるでしょ。だから、時々記録の整理と情報の入手を手伝ってる」


 速水の目が、少しだけ細くなる。


「……つまり、協力者か」


「協力者ってほど大げさじゃないよ。正式な所属もないし、全部は知らない」


 楓は苦笑した。


「でも、あなたの情報は…何度か見た」


「俺を?」


「名前じゃない。匿名のデータ。でも分かる」


 楓は指先で机を軽く叩く。


「合理性。情動抑制。誘惑への低反応。それに『中脳』って単語」


 速水は黙ったまま聞いている。


 否定も肯定もしない。ただ情報を並べ替えている顔。


「速水くん」


 楓の声が少しだけ低くなる。


「あなた、観測の対象になってる可能性がある」


 初めて聞く言葉に対して、速水はすぐには反応しなかった。


 数秒の沈黙。


「…根拠は」


「完全な証拠はない。でも、記録の傾向が一致してる」


「推測か」


「うん。でも、外れてないと思う」


 楓は視線を逸らさない。


「ねえ、怖い?」


「…判断材料が不足している」


 速水は静かに言った。


「未知の存在を恐怖と定義するのは早計だ」


 楓は小さく笑った。


「速水くんらしい答え」


 少しだけ空気が和らぐ。


「でもね」


 楓は続ける。


「観測者は、原則、対象に直接関わらない。だけど、何かを利用して、間接的に対象へ『刺激』を与えることがある」


「例えば、一ノ瀬の件とか?」


 楓は何も言わない。


 それが答えだった。


 図書室の外で雨が強くなった。


 速水は窓の方を一度だけ見て、視線を戻した。


「…なぜ俺に話した」


「知らないまま観られるのって、嫌じゃない?」


 楓は少しだけ肩をすくめる。


「それに…私、記事を書く人間だから。記事にされる側の気持ち、少しは考えたい」


 速水は一瞬だけ言葉を失った。


「…観測者の目的は」


「大雑把に言えば、人類の進化」


 楓の声が低くなる。


「例えば、核とか、SNSとか。早すぎる知性の道具に人類が適応できるような研究をしているみたい」


 速水は目を閉じる。


 短い思考。


「…仮説としては成立する」


「信じる?」


「まだ信じきってはいない」


 楓は頷いた。


「それでいいと思う」


 彼女は立ち上がり、鞄を肩にかける。


「今日はこれだけ」


「九条」


 速水が呼び止める。


「…九条の目的は?」


 楓は少しだけ考えた。


「大したもんじゃないよ」


 小さく笑う。


「私は、いい記事を書きたいだけ」


「観測者達とは、どのような話をしたんだ?」


「少し長くなるんだけど」


 楓は肩をすくめた。


「かまわない」


「そう」


 楓は、窓の外を見つめてあの日のことを思い返した。


 それは、四月が終わりかけた頃の夜だった。


 瑞峰学園の校舎は消灯時間を過ぎ、窓の灯りもほとんど落ちている。

 新聞部の部室だけが、細い蛍光灯の光を残していた。


 九条楓は、机に肘をつきながら原稿を見つめている。


 掲載不可。


 赤字で書かれたその文字が、何度も視界に入った。


「…やっぱり消されるんだ」


 独り言のように呟く。


 内容は大したものではない。

 寮内で起きた小さな事故と、その処理の不自然さ。

 だが、記事は校閲で止められた。


 『学園の方針にそぐわない』


 その一言で。


 楓はペンを置いた。


 その時だった。


「記録は、消えない方がいいと思う?」


 背後から、声がした。


 振り向くと、部室の入り口に一人の男が立っていた。


 教師ではない。生徒でもない。顔は暗く、年齢すら判別しづらい。


 楓はすぐに立ち上がらない。


「…部長に用なら、明日にしてください」


「部長ではなく、君に用がある」


 男は静かに部室の中へ入ってきた。


 足音がやけに軽い。


「君の記事を、いくつか読ませてもらった」


「記事を?」


「公開されていない原稿も含めて」


 楓の眉がわずかに動く。


「それ、普通に怖いですよ」


「そうだね」


 男は否定しない。


 ただ机の上の原稿を見下ろした。


「君は、『記録すること』に興味がある」


 楓は少しだけ息を吐く。


「…それが目的ですから」


「目的というより、執着だ」


 その言葉に、楓は反論しなかった。


 代わりに問い返す。


「あなた、誰ですか」


「観測者達の代理」


 あまりにもあっさりした答えだった。


 楓は一瞬だけ笑う。


「新興宗教の勧誘なら、間に合ってるんで、帰っていただいて良いですか?」


「宗教ではない」


 男は静かに言う。


「我々は、まだ扱えない知性の行方を探求しているだけだ」


「やっぱり新興宗教の勧誘じゃないですか」


 机の上に、スマートフォンが置かれた。


「君に、提案がある」


 楓は黙って見つめる。


「変な書類にサインはしませんよ」


 男は少しだけ首を傾けた。


「私達に協力して、必要な情報を集めてくれ」


「対価は。二つ。一つ目、君の記事は消されない。二つ目、今より真理に近づける」


 楓の視線が止まる。


「…どういう意味?」


「君の記録は削除されない。記事になり衆人の目に届く」


 楓の指が机の縁を軽く叩いた。


 それは彼女にとって、想像以上に魅力的な言葉だった。


「…真理に近づけるってのは?」


「観測記録の整理。翻訳。君が普段やっていることと、大差はない」


「しかし、我々の観測記録は普通の人間にはアクセスできないし、我々の情報を少し利用すれば簡単に一生遊んで暮らせるだけの利益を享受できる」


 男は続ける。


「利益などおまけみたいなものだ。重要なのは真理に近づけるということ」


 楓は少しだけ視線を落とした。


 書いても残らない記録。一部の人間しか掌握できない情報。


 それが残るという。それが手に入るという。


「…それって」


 彼女は小さく呟く。


「悪魔との契約みたいですね」


 男は一瞬だけ笑ったように見えた。


「違う」


 短く言う。


「我々は魂を求めない」


「じゃあ、何を?」


「変化を」


 沈黙が落ちる。


 楓はゆっくりと椅子に座り直した。


「…断ったら?」


「何も起きない」


 即答だった。


「君はただ、今まで通り記事を書く。そして、時々消される」


 その言い方は、妙に優しかった。


 だからこそ、楓は分かってしまう。


 これは脅しではない。


 選択だ。


 彼女はしばらく考えた。


 窓の外では風が鳴っている。


「…もうひとつ条件がある」


「聞こう」


「私は、操られるのは嫌。自分が書きたい記事を書く」


「了承する」


 男は迷わなかった。


「干渉はしない。君は自由だ」


 楓は小さく息を吐く。


 そして言った。


「じゃあ…受けます」


 それが、契約の瞬間だった。


 男は何も書類を出さない。握手もない。


 ただ、スマートフォンの画面に受信の通知が写された。


「ようこそ、記録者」


 男はそう言い残し、部室を出ていった。


 扉が閉まる。


 楓はしばらく動かなかった。


 机の上の原稿を見る。


 『掲載不可』の赤字。


 彼女はそれを静かに線で消した。


「…これで、残るんだ」


 小さく呟く。


 その夜から、九条楓は境界線の上に立つことになった。


 観測者でもなく、ただの生徒でもない。


 記録を消させないために、記録される側の世界へ、一歩だけ踏み込んだのだった。


 話を終えた九条楓が、その場を去り、扉が閉まる。


 図書室は静かになる。


 速水は本を閉じた。


 観測者。


 初めて聞く単語。


 だが、違和感はなかった。


 ただ、名前のなかった仮説に、ようやく呼び名が与えられたような感覚が残った。

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