第27話 中間テスト後の休息
中間テスト最終日。
瑞峰学園の廊下には、いつもより少しだけ軽い空気が流れていた。
チャイムが鳴った瞬間、教室のあちこちで椅子が引かれる音が重なる。
「終わったぁぁぁ……!」
夏海玲奈が机に突っ伏し、大げさに伸びをした。
「もう無理、脳みそ使い切った気がするんだけど」
「お前、昨日も普通にSNS見てただろ」
高嶺悠真が苦笑しながら荷物をまとめる。
「それはそれ、これはこれ!」
玲奈が即座に言い返す。
窓際では、速水蓮が静かに筆箱を閉じていた。特別な達成感も疲労も表に出さない。ただいつも通りの動きだ。
「どうだった?」
七瀬柚葉が覗き込むように聞く。
「想定内だな」
「速水くんらしい答え」
七瀬は小さく笑った。
少し離れた席では、一ノ瀬一が腕を組んだまま天井を見上げている。
「数学、やべぇな…最後の問題、途中で諦めたわ」
「珍しいな。お前が諦めるなんて」
速水が淡々と言う。
「いや、あれはもう根性じゃどうにもならん。完全に知能戦だろ」
「テストはだいたいそうだ」
「うるせぇよ、怪物野郎」
一ノ瀬は軽く笑いながら肩をすくめた。
チャイムの余韻が消え、教室は一気にざわつき始めた。
「てかさ!」
玲奈が突然立ち上がる。
「テスト終わったんだし、今日どっか寄って帰らない?」
「もう遊ぶ話か」
高嶺が呆れたように言う。
「当たり前でしょ。努力のあとはご褒美ってやつ!」
「努力したのか?」
「したよ!? めっちゃ!」
玲奈が頬を膨らませる。
七瀬が少し考えてから言った。
「カフェくらいならいいかもね。みんな疲れてるし」
一ノ瀬が椅子を振り向きながら笑う。
「俺も行く!」
教室の空気は、テスト前とは明らかに違っている。
緊張がほどけ、言葉の距離も少しだけ近い。
「速水くんも来るよね?」
七瀬がやわらかく聞く。
「…別に構わない」
「よし、決まり!」
玲奈が満面の笑みで拳を突き上げた。
窓の外では、夕方の光が校庭を染め始めている。
中間テストという小さな戦いが終わり、瑞峰学園の日常が、また少しずつ動き出していた。
次の日の放課後、図書室はほとんど人がいなかった。
窓際の長机に、速水蓮は一人で座っている。開いているのは本ではなく、薄いノート。ページには整然とした文字列が並んでいた。
「速水蓮」
落ち着いた声だった。振り向くと、九条楓が立っている。
制服の襟元をきちんと整え、片手には小さなレコーダー。
「少し、時間もらってもいいかな」
「…内容によるな」
速水はノートを閉じる。
「学園新聞の取材。テーマは“身体と才能”。最近、あなたの名前、よく聞くから」
「噂は当てにならない」
「だから本人に聞きに来たの」
楓は向かいの席に腰を下ろし、レコーダーをそっと机に置いた。
「神経伝達物質を調整してるって話。…本当のところはどうなの?」
速水の目が、わずかに細くなる。
「噂は、誇張されている」
「でも、完全な嘘でもないんでしょう?」
問い詰めるというより、事実を確かめる声だった。
「意識的に状態を切り替えるだけだ。集中を上げる、恐怖を鈍らせる、痛覚を遅らせる」
「調整ができるってことね」
楓は静かにメモを取る。
「恐怖は感じるの?」
「感じている。ただ、優先順位を下げている」
楓はペンを止め、顔を上げた。
「それって…少し怖いね」
責める口調ではない。純粋な感想だった。
「感情を消してるわけじゃないんだよね」
「消せるなら楽だろうな」
速水は淡々と答える。
「全部残ってる。ただ、意思決定の順番を変えているだけだ」
楓は小さく息を吐いて、少しだけ笑みを浮かべる。
「記事には名前は出さないよ。安心して」
「名前を出さなくてもバレバレだろ」
楓は笑ってレコーダーを止めた。
「最後にひとつだけ、聞いてもいい?」
「…なんだ」
「その能力。便利だから使ってるの?それとも、依存してるから?」
速水は少しだけ言葉を選んだ。
「……両方だな」
短い沈黙のあと、楓は頷く。
「そっか」
ノートを閉じ、レコーダーをしまいながら、彼女は静かに言った。
「ここからは…個人的な興味」
楓は向かいの椅子に腰を下ろした。
「速水くん、最初に『能力』に気づいたのって、いつ?」
速水の視線が少しだけ動く。
「…何の話だ」
「神経伝達物質の操作。能力っていう言い方、あまり好きじゃないかもしれないけど」
楓は無理に踏み込む口調ではなかった。ただ静かに待つ。
しばらく沈黙が続く。
図書室の奥で、誰かが本を閉じる音が小さく響いた。
「…小学生の頃だ」
速水が静かに言った。
「川で、事故があった」
楓の表情がわずかに引き締まる。
「溺れてる子がいたんだ」
「…助けたの?」
「ああ」
速水の声は平坦だったが、ほんの少しだけ間が空く。
「水に入った瞬間、妙に冷静だった。怖いはずなのに、心拍だけが静かで…周囲の動きが遅く見えた」
楓は言葉を挟まない。
「普通なら焦る。だが、俺は距離、流れ、呼吸のタイミングを計算していた」
「……」
「後で聞いた話では、かなり危険な状況だったらしい。でも、その時の俺には『危険』という感覚が、ただの情報に見えていた」
楓はゆっくり息を吸った。
「それが、最初?」
「多分な」
速水は窓の外を少しだけ見た。
「助けたあと、急に体が震えた。恐怖は消えてなかった。…後からまとめて来ただけだ」
楓の指先が、ノートの角を軽くなぞる。
「怖くなかった?」
「怖かったさ」
速水は淡々と答えた。
「ただ、その瞬間だけは…意識から外せた」
夕焼けが、机の上に赤く広がる。
「その後、どうしたの?」
「祖父に話した」
短く答える。
「祖父は、『偶然じゃない』って言った」
「…」
「それからだな。呼吸、姿勢、視線。何をすると、あの感覚に近づくか…少しずつ試した。今では、それらの予備動作が無くても操れるようになった」
楓は小さく頷いた。
「目覚めた、っていうより…気づいて、育てた感じなんだね」
「そんなところだ」
少しの沈黙。
楓は視線を上げた。
「ねえ、速水くん」
「なんだ」
「その能力…好き?」
速水はすぐには答えなかった。指先が、本の背表紙を軽く叩く。
「好き嫌いで考えたことはない」
「もし、あの時…あの子を助けなかったら?」
速水の目が、わずかに揺れた。
「…分からないな」
短い返答だった。
「ただ」
少し間を置いて続ける。
「あの時、動けなかった自分は…多分、今の俺じゃない」
楓は小さく息を吐いた。
「そっか」
「その力の始まりは、すごく人間的なんだね」
「そうか?」
「うん。誰かを助けたいって思った瞬間から始まってるから」
楓は立ち上がり、鞄を肩にかける。
「記事にはしないよ。でも…知れてよかった」
「なぜだ」
「速水くんが『ただのサイコパスな人』じゃないって、改めて分かったから」
軽く微笑んで、彼女は歩き出した。
「じゃ、またね」
足音が遠ざかる。
図書室に静けさが戻る。
速水はしばらく動かなかった。
水の冷たさ。
小さな手を掴んだ感触。
遠い記憶が、一瞬だけ浮かんで、すぐに沈んだ。
速水蓮はしばらく本を開かないまま、机の上に置いた手を見つめていた。




