表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第三の条件  作者: コバヤシ
25/25

第25話 悪の凡庸さ

 寮の居室には、速水蓮が本のページをめくる音以外には、窓を撫でる風と高嶺の寝息が響いていた。


 机の上には、角度を揃えて置かれた数冊の本と、最低限の文具。


 必要なものだけが、整然と配置されている。


 速水は、デスクライトの下で本を開いていた。


 悪の凡庸さ。


 裁判記録。政治哲学。

 だが、速水にとって重要なのは起きた事実ではなかった。


(前提は何か。どこで判断が止まったか)


 ページをめくる速度は一定だ。

 文章を逐一追うことはしない。

 主張、根拠、反復される言い回し。

 数ページ分の情報は、すでに頭の中で一枚の図にまとめられている。


 被告は怪物ではない。狂気も、倒錯した快楽主義者もない。


 几帳面で、勤勉で、命令に忠実。組織の中で「最適に機能する個体」。


(優秀な管理職だ)


 速水はそう結論づけ、次のページへ進もうとした。


 だが、指が止まる。


 被告の証言は一貫している。


 命令に従っただけ、仕事をしただけ、自分なりに考え、最善を尽くしただけ。


(論理的には破綻している)


 速水の思考は即座に反論を提示する。命令の正当性検証の欠如。判断主体の外部化。結果責任の否認。


 だが、本が示しているのは、その『破綻』そのものではなかった。


(…この男は、思考停止していない)


 考えている。計算している。

 ただし、疑う対象が限定されている。


 命令の範囲内でのみ、最適化を行っている。


 速水の中で、いくつかの概念が即座に連結される。役割遂行。効率化。環境適応。


 それらは、速水自身が高く評価してきた能力だ。


(違う)


 即座に自己反証が走る。


 俺は、判断している。

 前提を検討し、最適解を選んでいる。

 命令に従っているだけではない。


 だが、その反論は完全ではなかった。


(もし)


 もし、合理性が最適化が「疑う工程」を省略したまま完成したら?


 悪意は不要だ。狂気も必要ない。


 ただ、正しく機能していると信じる人間がいればいい。


 速水は、静かに本を閉じた。


 思考は止まっていない。

 むしろ、通常よりも澄んでいる。


 だが、珍しく結論が出ない。


(どこまでが判断で、どこからが処理だ)


 その問いは、数式にも、略図にも変換できなかった。


 視線を落とすと、机の上は相変わらず整然としている。環境は最適だ。無駄はない。


 それでも、胸の奥に、処理できない残差が残っていた。


 私は、ただ職務を全うしただけです。


 その言葉は、感情ではなく、構造として速水の中に留まる。


 怪物である必要はない。

 異常である必要もない。


 悪は、最適化された日常の延長として成立する。


 速水はデスクライトを落とし、暗闇の中で目を閉じた。


 それでも、思考は続いている。


 この本は、速水にとって毒でも薬でもない。


 ただ一つ確かなのは、無視できない、という事実だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ