第22話 記事の一面
Z-Press 第××号
旧体育館を揺るがせた「伝説の一夜」
記者:九条楓(新聞部/裏班)
速水蓮 vs 一ノ瀬一、激闘の記録
去る土曜夜、使用されなくなって久しい旧体育館において、二人の男子生徒による非公式の直接対決が行われた。観客はおよそ二十名。照明の乏しい廃墟同然の空間は、一夜限りの「闘技場」と化した。
対峙したのは、学内で「怪物」と呼ばれる速水蓮と、「猛獣」と評される一ノ瀬一。片桐夏希の仕切りにより、即席のリングで幕を開けた試合は、開始直後から観客を熱狂の渦に巻き込んだ。
序盤、速水は投げや関節技を織り交ぜ、冷静に一ノ瀬を追い詰めていった。その姿はまさしく「合理」の体現であり、息ひとつ乱さぬ制御は圧倒的だった。
だが中盤、異変が起こる。一ノ瀬の瞳が不自然に光を帯び、痛みを超越したかのように猛攻を繰り返したのだ。観客の誰もが「何が起きたのか」と息を呑んだ。
それでも速水は怯まず、初めて「怒り」を表に出した。合理の冷徹さに感情を織り込み、拳を振るったその姿は、従来の彼とは異なる「新しい速水蓮」のようだった。
勝負は最終的に、速水の「裸絞め」によって決着した。これまで、どんな攻撃を受けようと立ち上がってきた一ノ瀬は意識を手放す寸前まで抗い続けた。しかし、速水の冷徹かつ、高練度の技術を前に沈んだ。
敗れた一ノ瀬はなおも速水を睨み、声を振り絞った。
「俺はまだ負けてねぇ。少なくとも、中学の時よりお前に“届いた”ろ…?」
その言葉は、観客の笑いや歓声を一瞬で凍りつかせた。
勝者・速水蓮は多くを語らず、ただ静かに一ノ瀬を見返しただけだった。だが、その瞳の奥に宿っていた光は、冷静さだけでは測れない何かを孕んでいたように見えた。
この夜を目撃した者は皆、同じ感覚を共有している。
「ただの喧嘩ではなかった」―と。
瑞峰学園に新たな伝説が刻まれたことだけは、疑いようもない事実である。
ーーー
翌週の昼休み。
学食のざわめきは、この記事の話題で持ちきりだった。
「おい見たか? “伝説の一夜”だってよ!」
「速水が裸絞めで決めたとか…マジかよ」
「一ノ瀬もやべぇな、何度も立ち上がったらしいぜ…」
トレイを手に席へ向かう速水は、そのざわめきを黙って聞き流していた。
カツ丼の匂い、味噌汁の湯気。
旧体育館の熱狂は、もうどこにもなかった。
七瀬柚葉が、速水の隣に腰を下ろす。
「…新聞に載っちゃったね」
彼女の声は、少し呆れ混じりだ。
向かいでは高嶺悠真が笑っている。
「まあ、あれだけ派手なことすりゃ仕方ない。瑞峰の連中は娯楽に飢えてるからな」
夏海玲奈はポテトを口に運びながら、にやりと笑った。
「でも、なんかいいじゃん。“伝説”とか呼ばれてさ。青春っぽいじゃん?」
速水はスプーンを置き、短く答える。
「…いい見せ物になっただけだ」
周囲のざわめきと、自分たちのテーブルに流れる会話。
「伝説」と呼ばれた夜が、本当にあったのかどうかさえ曖昧になるほど、昼の学食は日常そのものだった。
ーーー
午後の現代社会の授業。
教室にはまだ昼休みのざわめきが残っていた。
裏新聞の噂は、すでにクラス全体の話題になっている。
教師がチョークを走らせ、黒板に大きく文字を書いた。
「理性」と「感情」
「さて―今日は人間を動かす二つの力について考えてみよう」
静まりかけていた教室に、再びざわめきが走る。まるで昼休みの話題がそのまま授業に持ち込まれたようだった。
「アリストテレスは、人間を“理性的動物”と呼んだ。つまり理性こそが人間の本質であると考えたんだ。一方で、デカルトは“情念”を研究し、感情をどう統御するかを探った。じゃあ、みんなはどう思う? 人を突き動かすのは、理性か、感情か」
教師の問いかけに、教室がざわつく。
「感情だろ。サッカーの試合だって気持ちが大事っすよ!」と誰かが声を上げる。
「いや、ルールがなきゃ試合にならん。理性が基盤でしょ」と別の生徒が反論する。
議論がざわざわと広がる中、教師の視線が自然と速水へと向いた。
「速水、お前はどう考える?」
教室の視線が一斉に集まる。速水は一瞬だけ息を整え、淡々と答えた。
「理性も感情も、どちらか一方じゃ社会は成り立たない。理性は長期の道筋を示すが、感情はその場での一歩を踏み出させる。つまり、両方が作用しあうことで、人は本当に“動く”んだと思います」
短い言葉。だが教室の空気が一瞬で引き締まる。
「なるほど。バランスが大事ということか」教師は満足げに頷いた。
「では、高嶺」
指名された高嶺は、少し笑った。
「俺は理性派ですね。感情に流されて判断を誤った例なんて歴史にいくらでもある。戦争もそうだ。冷静な理性のほうが人を救う」
夏海がすかさず茶化すように手を挙げる。
「じゃあ、恋愛は? 理性だけでできるなら、タカミーってモテモテのはずじゃん」
教室が笑いに包まれた。高嶺が顔をしかめて「茶化すな」と言う。
七瀬はノートを見つめながら、小さな声で呟いた。
「でも、感情がなければ、理性を働かせる意味もなくなるんじゃないかな。守りたい、とか、進みたい、とか。そういう感情がなければ、理性の計算なんて空っぽになる気がする」
その言葉に、速水はほんの一瞬だけ目を向けた。
七瀬の声音が、昨日の夜の記憶をわずかに呼び覚ましたからだ。
教師は黒板に線を引き、まとめに入る。
「いい議論だったな。理性と感情、どちらを重視するかで『人間観』そのものが変わる。今日の話題は、単なる哲学や心理学の枠を超えて、みんな自身の問題でもある」
チャイムが鳴る。
初夏に差し掛かった教室にはまだ、春のの余韻が残っていた。
第一部完




