第21話 勝負の決着
マットの上で、二人の体がぶつかり合っていた。
速水は投げと関節を解禁し、徐々に一ノ瀬を追い詰めていく。
受け身を取った一ノ瀬の背中が床を鳴らすたび、観客は歓声をあげた。
「…やっぱり自力が違うな」
九条楓は呟いた。速水は常に冷静。息ひとつ乱れない。
一ノ瀬の獣じみた猛攻も、合理の怪物の前では通用しないかに見えた。
そのとき。
一ノ瀬の目の奥に微かな光が走った。
九条だけが気づいた。観測者がナノマシンを媒介に一ノ瀬の脳へ介入したのだ。
「…!?」
一ノ瀬の瞳孔が一瞬にして開く。
ナノマシンが自律的に“追加刺激”を始めた。アドレナリンが急激に分泌され、痛覚回路が遮断される。
さらに、速水の掌底で痺れていた胸板が、次の瞬間にはまるで風船のように膨らみ、吠えるような呼吸が漏れた。
「がはっ…はは、来やがったな…!」
一ノ瀬の声は低く震えていた。だが苦痛ではない。興奮と狂気が入り混じった、危うい響き。
速水は僅かに眉をひそめる。冷静なまなざしに、初めて動揺の色が走った。
観客は知らない。ただ「盛り上がってきた!」と歓声をあげるだけだ。
だが九条は知っていた。この戦いは、もう喧嘩ではない。実験に変わったのだ。
一ノ瀬の拳が振り抜かれる。
速水は反射的に受け流す。だが重い。骨の軋む感触が腕を通じて伝わった。
先ほどまでの一ノ瀬とは別物。ナノマシンが限界を超えて獣を解き放った。
「…おい速水。前に言ったよな。お前のは“気づいたら吠えなくなってた”って」
一ノ瀬の声は笑いに震えていた。
「俺は違うぜ。今、檻が壊れた。噛み殺してやる!」
速水は低く息を吐き、視界を研ぎ澄ませる。
ドーパミンを抑制し、リスク回避を優先するか。
それともアドレナリンを解放し、対真っ向勝負か。
この数秒が、永遠にも感じられた。
旧体育館の空気は、さらに熱狂していく。
人間という枠の外へ押し出される実験場の匂いが漂い始めていた。
次の瞬間、一ノ瀬の動きが変わる。
ナノマシンによる制御が異様な加速を見せ、彼の拳は獣じみたモノから、異常な「精度」を帯びたモノへと変貌していた。
一見ただの連打に見える。だが速水の目には、反応速度を超えた「強制された動き」として映った。
一ノ瀬の叫びは獣の咆哮に近かった。
だがその奥に、本人の意思ではない歪みが混じっているのを速水は見抜いた。
(これは…誰かが一ノ瀬を“道具”にしているのか)
避けることはできた。
合理的に動けば、最小限の被害でやり過ごせた。
だが、速水の胸の奥に、久しく感じたことのない熱が生じていた。
一ノ瀬との確執に対してではない。
ただ純粋に、「利用される一ノ瀬」が許せなかった。
観客の歓声の中で、速水の瞳がわずかに揺らぐ。
「…ふざけるな」
次の瞬間、速水は連打をもらいながら、躊躇なく振りかぶった。
合理性を捨て、剥き出しの感情を宿した拳。
ゴッ。
一ノ瀬の頬を打ち抜いた衝撃は、これまでの「制御された動き」とは明らかに違った。
観客席がどよめき、九条の指先が震える。
(速水蓮…いま、怒った?)
速水自身、答えを持っていなかった。
ただ、気づけば拳が一ノ瀬を捉えていた。
「…これが、あの、速水蓮?」
九条の声は、観客の熱狂にかき消された。
鈍い衝撃音。観客のどよめき。
一ノ瀬は膝をつきかけたが、ナノマシンが全身の神経に鞭を入れる。
強制的に痛覚が切り落とされ、筋肉が再び動きを取り戻す。
「っは、ははっ…まだだ!」
血を吐きながら、無理やり立ち上がる。その姿に観客は歓声を上げるが、速水は冷たい眼差しを向けた。
「…都合の良い道具にされてんじゃねぇよ」
吐き捨てるような声だった。
一ノ瀬は一瞬、理解できずに目を見開く。
観客には挑発にしか聞こえない。だが、胸の奥で獣がざわついた。
「…道具?」
「今の、お前の動きは“お前の意志”じゃない。怒りも、痛みも、誰かに握られてる。自分で戦ってるつもりか? それじゃ、ただの人形だ」
その言葉は一ノ瀬の胸に突き刺さった。
無視できない。無視したくても、心臓の鼓動が速水の言葉に反応してしまう。
(…俺は、俺の意思でここにいないのか?)
観客にはただの舌戦。だが九条楓の耳には、別の響きとなって届いていた。
速水が本当に見据えているのは、リングの外、旧体育館の闇に潜む、観測者たちそのものだということに。
九条は無意識にシャッターを切った。
速水蓮という存在が、ただの勝負ではなく、“システムそのもの”に抗っている瞬間を、記録しなければならないと直感した。
ーーー
一ノ瀬の目が赤く燃えていた。
それは光でも錯覚でもなく、瞳孔が開ききった狂気と、ナノマシンの暴走信号が交じり合った結果だった。
「道具だと…? テメェに言われる筋合いはねぇんだよッ!」
雄叫びとともに一ノ瀬が踏み込む。
マットが軋み、空気が爆ぜる。
速水は即座に判断した。
心拍数を微調整、アドレナリンを抑え、筋肉の動きを必要最小限に。
無駄な動きは一切排除、合理の怪物の領域。
「来いよ、一ノ瀬」
二人の間合いが一気に詰まる。
拳打と掌打が交錯。
骨と骨がぶつかる衝撃音に、観客が総立ちになる。
「うおおおっ!!」
「どっちが勝つんだ!?」
一ノ瀬は怯まない。
痛覚の信号がナノマシンに切り捨てられ、感じる痛みは無い。
吐き出す息のたびに、血の匂いと獣の咆哮が混ざった。
「痛みなんざ感じねぇ……これが、俺の力だッ!」
速水は無言で応じる。冷たい瞳が一ノ瀬を見据える。
(…制御を失ったか。いや、違う)
速水の呼吸がさらに整う。
セロトニンを引き上げ、外界の雑音を排除。
脳内に残るのは、一ノ瀬の動きだけ。
だが次の瞬間。
一ノ瀬の攻撃が、速水の予測を一瞬だけ上回った。
「らあああッ!!」
拳が速水の頬を打ち抜き、血飛沫が散った。
観客が爆発するように叫ぶ。
「入ったぞッ! 一ノ瀬が速水に入れた!」
九条楓は息を呑み、震える手でカメラを構え続けていた。
(これは……ただの実験じゃない。速水の理性が揺らいでる!)
速水は顔色も変えず、血を拭った。
ただ淡々と、低く呟く。
「…なるほど。檻を壊した“獣”か」
一ノ瀬は苦しげに、笑った。
「そうだ。これが俺だ…観測者の鎖も、テメェの理屈も、全部ぶっ壊す!」
二人の間合いが再び詰まる。
合理の怪物と、覚醒した獣。衝突は、ここからが本番だった。
速水は低く呟く。
「…お前が強くなったのは事実だ、一ノ瀬」
一ノ瀬は笑い、血走った目で速水を睨む。
「あれから、中学のあの時から、お前を倒すことだけ考えてた。半ば諦めてかけたがな。それでも毎日、お前の顔を思い浮かべてサンドバッグを叩いてきたんだ」
観客には聞き取れないほどの声で速水は吐き捨てる。
「…なら、得体の知れない奴らに自分の“復讐”を売るなよ」
一ノ瀬が一瞬、表情を強張らせた。
観客にはただの挑発に聞こえたが、九条は気づいた。
(違う…これは一ノ瀬に向けてじゃない。“観測者達”に向けた怒りだ)
速水の胸の奥に、これまで抑え込んでいた感情が滲み出す。
合理性だけで組み立てられた行動の隙間から、確かな“怒り”が顔を覗かせていた。
速水はアドレナリンをあえて制御せず、微量のドーパミンを増幅させる。
理性と衝動を混ぜ合わせ、筋肉が微かに震えた。
「お前の力が何によるものでも構わない。だが…俺はお前の”復讐”を買収した奴等を許さない」
一ノ瀬は言葉を失った。
その背後で、九条の手が震える。
(…これは記録しなきゃいけない。“観測者達の外側に出た人間”の瞬間を)
夏希がリング脇で不敵に笑う。
「おやおや、“合理の怪物”さんが声を荒げるなんて。こりゃ伝説の夜になるな」
場内が熱狂に飲まれる中。
速水蓮の目は、もう一ノ瀬を見てはいなかった。
その奥で、見えざる観測者たちを睨み据えていた。
一ノ瀬の拳が再び突き出される。観客が息を呑む。
だが速水は受け止めた。
身体をひねり、肩で衝撃を逃す。
そのまま一ノ瀬の腕を極め、体を軸にして背負う。
ズシンッ!
一ノ瀬の体が宙を舞い、マットに叩きつけられた。
衝撃音に観客が総立ちになる。
「うおおおっ!」「速水が投げたぞ!」
夏希は口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「ほら、なんでもありって言っただろ? これが本当の決闘さ」
一ノ瀬は呻きながらも立ち上がる。瞳はまだ燃えていた。
「俺は…まだ、終わっていない!」
その声に、速水の目が冷たく光る。
怒りを隠さない、しかし感情に飲まれもしない。
研ぎ澄まされた理性と、奥底から滲む怒気が同居していた。
速水は呼吸を一つ整えた。
アドレナリンを制御せず、ドーパミンを高める。
恐怖や痛みを切り捨て、ただ合理的に“攻める衝動”を燃料へ変える。
「…俺は、実験の材料じゃない」
低く吐き出された声は、一ノ瀬ではなく、虚空の“観測者たち”に向けられていた。
九条の指が震える。
(…怒っている。理性を超えて、確かに“怒り”を抱いている。だけどそれを…自分の武器に変えてる)
一ノ瀬が吠えるように突っ込む。が速水はかわさない。
正面からぶつかり、膝で一ノ瀬の腹を打ち抜き、続けざまに肘を顎に叩き込む。
ガッ!
一ノ瀬の頭が仰け反り、マットに崩れ落ちた。観客の熱狂が爆発する。
「やべえ!」「速水、マジで怪物だ!」
夏希は腕を組み、吐息混じりに呟いた。
「これだよ…“退屈を壊す力”。速水蓮、本当に面白い」
マットの中央。
速水は息を荒げず、ただ一点を見据えていた。
血の味が口に広がっているが、頭は澄んでいる。
「都合の良い道具にされてんじゃねぇよ」
再び呟かれたその言葉は、観客には挑発にしか聞こえなかった。
だが九条だけは理解していた。
それが一ノ瀬ではなく、観測者たちに向けられた宣戦布告であることを。
マットに倒れ込んだ一ノ瀬が、荒い息を吐きながらゆっくりと身体を起こす。
一ノ瀬は肩で息をしながら、速水を真正面から睨み据えていた。
頬には血が滲み、拳は震えている。だが、目の火は消えていなかった。
やがて、一ノ瀬は口を開いた。低く、掠れながらも、まっすぐに。
「…俺はずっと、お前に追いつけねぇ自分が憎かった」
その言葉は、拳よりも鋭く、胸を抉るように響いた。観客のざわめきが一瞬にして凍りつく。
「なのに…気づけば、“怪物”みたいなお前に憧れてたんだよ。ムカつくくらいにな」
吐き捨てるようでいて、そこには確かな真実があった。
速水は答えない。
ただ静かに、その言葉を受け止めるように見返していた。
体育館の隅でカメラを構えていた九条楓の指が、微かに震える。
記者として淡々と記録するはずだった。
けれど今、この光景を前にして心臓が早鐘を打っている。
一ノ瀬の咆哮も、速水の瞳も。
そのどちらも、言葉では測れない領域に達していた。
(妬み、憧れ、怒り…。結局、人間を突き動かすのは、理屈じゃなく感情だ)
彼女は記録者として確信する。
この夜の出来事は、ただの校内の噂では終わらない。
(ここから先、瑞峰学園は変わる…)
観客の熱狂が渦巻く中、二人は最後の決戦に臨む。
一ノ瀬の拳が渾身の力で振り抜かれる。だが、速水はその動きを読んでいた。
肘を手繰るようにして、一ノ瀬の腕を極める。
「……っ!」
一ノ瀬の顔が歪む。
ナノマシンが痛覚を抑制しても、関節のきしむ感覚までは消せない。
速水は腕に注意をいかせた後、一ノ瀬の背後へ回り込み両腕で首を絡め取る。
裸絞め。
一ノ瀬は最後まで抵抗を見せた。拳を振り、足を踏み鳴らし、獣のように暴れた。
だが、速水は微動だにせず、無駄のない体重移動で絞め落としにかかる。
数秒後、観客のざわめきのなかで一ノ瀬の動きが鈍り、やがて両手が力なく垂れた。
その瞬間、甲高いシンバルが再び鳴り響いた。
リング脇で腕を組んでいた片桐夏希が、勝負を終わらせたのだ。
「そこまで」
声はよく通り、場内の熱を一瞬で断ち切った。
速水はすぐに腕を解く。
崩れ落ちる一ノ瀬を、冷静な目で見下ろす。勝ち誇るでもなく、同情するでもなく。
ただ事実としての勝敗を受け止める視線。
汗と息遣いが交錯する中、夏希はゆっくりとリングに上がる。
「速水蓮。…見事だね。誰が見ても、今のはあんたの勝ちだ」
観客の中から歓声が上がる。だが、夏希は片手を上げて制した。
速水は、一ノ瀬に蘇生処置を施す。
一ノ瀬は、すぐに息を吹き返し、速水を見る。
「…終わり、か」
一ノ瀬が呟くように言った。
声は掠れていたが、不思議と澄んでいた。
「俺はまだ負けてねぇ。少なくとも、中学の時よりお前に“届いた”ろ…?」
速水は静かに一ノ瀬を見る。
答えはなかった。だが、その沈黙こそが答えのようにも思えた。
観客席からざわめきが戻り、どよめきと拍手が入り交じる。
誰もが“伝説の瞬間”を目撃したと理解していた。
リング脇で腕を組んでいた夏希が、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「…いいね」
九条楓は体育館の隅でカメラを構えたまま、心臓の鼓動を押さえきれずにいた。
レンズ越しに見えた二人は、もう高校生が喧嘩した後には収まらない。
(…これは、私が記事にしていいのか? それとも、“触れてはいけない”領域なのか)
自問しながらも、指はしっかりとシャッターを押していた。
記録者として、抗えない衝動がそこにあった。
速水はゆっくりとマットを降りた。
その背中を、一ノ瀬が睨みつける。
敗北の苦味の奥に、まだ熱い炎がくすぶっていた。
「…覚えとけ。次は火星までぶっ飛ばしてやるよ」
低く呟いた声は、観客の歓声にかき消されたように思われた。
しかし、この夜、微かだが速水は初めて笑った。
旧体育館の薄暗がりに、熱だけが長く残っていた。
ーーー
旧体育館の熱狂が終息した後。
暗い部屋。複数のモニターに、先ほどの試合映像が繰り返し映し出される。
観測者たちが、その前で声を交わしていた。
「興味深い。予測以上だ」
低い声がモニターを見つめる。
映っているのは、裸絞めに沈んだ一ノ瀬の姿。
「K-03、一ノ瀬一。ナノマシン投与後も自我は残存。だが“駒”としての利用には限界が見えた」
「速水蓮の言葉に反応したな。我々の干渉を“本能的に拒絶”した。これは想定外だ」
「想定外、ではない。むしろ我々が観たかったのはそこだ」
別の声が割って入る。
女性の声。冷ややかだが、どこか愉快そうでもある。
「速水蓮“合理の怪物”。感情を統制したはずの器が、今夜、初めて“怒り”を武器にした」
「感情の発露を制御し、理性に組み込む…。人間が進化するなら、その形こそが“次の段階”だろう」
長い沈黙。やがて、また別の観測者が言葉を落とした。
「記録に残せ。速水蓮は、“合理と感情の融合”を果たした」
「…これからの実験結果が、楽しみだな」
「楽しみ? 危険因子だ。制御不能になる。K-03の比ではない」
「危険だからこそ、観測する価値がある。人類が“次段階”に進むなら、その芽は淘汰されず残すべきだ」
「…驕るな。彼が我々の手に収まるとは限らない」
モニターにはまだ、速水が監視カメラを見つめる姿が映っている。
その瞳の奥に、観測者たちが測れない“何か”が潜んでいることに、誰も言及しなかった。




