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第三の条件  作者: コバヤシ
20/22

第20話 決闘の舞台

 土曜の夜。瑞峰学園の旧体育館。


 公の用途で使われなくなって久しいその建物は、薄暗い照明と湿った木の匂いに包まれていた。


 ひび割れた窓から吹き込む風がカーテンを揺らし、床板はところどころ軋んでいる。


 だが今夜、そこはただの廃墟ではなかった。


 即席のリング代わりに、中央にレスリング用のマットが敷かれ、四方を机と椅子で囲んでいる。


 観客席には二十名ほどの生徒。夏希に“証人”として呼ばれた者。


 彼らの目は、即席の照明に照らされ、不気味に光っていた。


 興奮のために会場はざわついている。


「ようこそ瑞峰のウラに」


 主催者・片桐夏希が片手を上げた。


 その声はよく通り、場内のざわめきがすっと収まる。


 彼女は制服のジャケットを羽織り、口元に皮肉な笑みを浮かべていた。


「これより、不敗の夏希プレゼンツ“瑞峰の獣”対“合理の怪物”を始める。負け犬は噂になる、勝者は伝説になる。あんたらが退屈しのぎにはうってつけじゃない?」


 観客から笑いとざわめきが漏れた。


 体育館の入口から現れたのは、一ノ瀬一。


 ジャージ姿、拳にはバンテージを巻き、肩で風を切るように歩く。気合い十分だ。


 反対側の扉からは速水蓮。上は白いシャツ、下は黒のジャージ、無駄のない動きで歩みを進める。目は観客ではなく、一ノ瀬だけを捉えていた。


 二人がリング代わりのマットに足を踏み入れると、夏希は宣言した。


「証人も観客もいる。逃げ場はない。さあ、始めようか。瑞峰学園、直接対決の“真剣勝負”を」


 観客の息が詰まる。勝負の歯車が回り始めた。


 夏希が指先をひらりと振る。


 ジャーン!


 ゴング代わりの甲高いシンバルの衝撃音が体育館全体に響き渡った。


 その音を合図に、リング脇で待機していた軽音部の生徒が演奏を始める。


 旋律は最初こそ軽快だったが、すぐに獣じみたビートへと変わり、観客の心拍と一体化していく。


 速水はアドレナリンの分泌をわずかに上げた。


 余計な雑音が消え、視界が研ぎ澄まされる。観客の笑い声すら、遠くの残響にすぎなかった。


 一ノ瀬はナノマシンにを調整を任せていた。焦りや恐怖は削ぎ落とされる。


 観客が息を呑む。


 夏希が皮肉を込めて囁いた。


「幕は開いた。どっちが“本物”か、見せてもらおうじゃない」


 シンバルの余韻が消える頃、二人は同時に距離を詰めた。


 旧体育館の空気は、次第に熱を帯びていった。


 シンバルの余韻はまだ天井の梁に残り、軽音部の奏でるリズムが途切れることなく続く。


 低音のビートが観客の胸を叩き、場内のざわめきと混ざり合って、ひとつの熱狂に変わっていた。


 二人の拳が交わるたびに、観客の喉から歓声がほとばしる。


「今の当たった!」

「やべぇな速水!」

「一ノ瀬いけーッ!」


 声は渦巻き、汗と興奮の匂いが広がる。


 夏希はリング脇に立ち、すべてを見渡していた。


 腕を組み、口元には皮肉めいた笑み。


「ほら見ろよ。血が滲んだだけでこの熱狂だ。お前ら、退屈な教室よりも、こっちのほうがよほど“教育的”だろ?」


 観客から笑い混じりの拍手が上がる。


 マットの上では、一ノ瀬が鼻息荒く立っていた。


 胸板に残る掌底の痛みを、ナノマシンが抑え込んでいる。


 アドレナリンが急速に放出され、興奮は痛みを上書きしていく。


「…まだだ、まだこれからだ、速水」


 速水は反対側で静かに呼吸を整えていた。


 心拍数を低く保ち、セロトニンをわずかに引き上げて、動揺を均す。


 外側は冷静、だが筋肉の奥ではアドレナリンが微量に解き放たれ、次の動きに備えていた。


「…足掻いても、結果は変わらない」


 その一言に、一ノ瀬の目が光った。一ノ瀬が踏み込む。


 フックが横薙ぎに走り、速水が身を沈めてかわす。


 だが避けざまの肘が速水の肩を叩き、鈍い衝撃が走った。


「っ…」


 一瞬、肩口が痺れる。速水はすぐに呼吸を深め、エンドルフィンを引き出して痛覚を鈍らせた。


 観客が総立ちになる。


「入ったぞ!」「いいぞ一ノ瀬!」


 夏希はその熱に乗るように、声を響かせた。


「おおっと、“合理の怪物”に獣の牙が食い込んだ! さあ速水、ここで冷静ぶって立っているだけじゃ観客は満足しないぜ?」


 速水は彼女を一瞥する。


 挑発とも実況ともつかない夏希の言葉は、観客を焚きつけると同時に、戦っている二人の心理にも揺さぶりをかけていた。


 一ノ瀬は唇を歪め、にやりと笑う。


「聞いたか? 主催者のお墨付きだ。…逃げるなよ」


 速水はわずかに顎を引く。


 次の瞬間、速水が一気に距離を縮めた。


 観客が息を呑む。


 速水の掌打が、一ノ瀬の顎を狙って突き上げられる。


 刹那。


 一ノ瀬はナノマシンの制御で脳内の時間感覚を一瞬だけ伸張させた。


 世界が遅く見える。速水の腕の軌道を読み、身体を横に滑らせる。


「…悪くねぇ」


 一ノ瀬の拳が速水の脇腹へ突き刺さる。


 鈍い痛みと同時に、速水の体がわずかに揺れた。


 旧体育館に、観客の歓声と拍手が爆発した。


ーーー


 九条楓は、旧体育館の隅でカメラを構えていた。


 リング代わりのマットの中央では、速水と一ノ瀬が打ち合い、観客は熱狂に揺れている。


 だが、九条の目はその熱に呑まれなかった。


 レンズの奥に映るのは、赤く染まる頬、震える拳、呼吸の速さ。


「…」


 速水は、呼吸のリズムを完璧に制御していた。


 殴られた痛みを、エンドルフィンで抑制しているのか微塵も顔に出さない。


  一方、一ノ瀬は、獣のように踏み込み、感情を剥き出しにしながらも、ナノマシンがその衝動に手綱をかけている。


 激情と制御。そのせめぎ合いが彼の肉体から噴き出していた。


(同じ“神経の制御”でも、まるで別物…速水は“自然に収束した静寂”、一ノ瀬は“無理やり押さえつけた炎”)


 ペンを走らせながら、九条はふと息を呑んだ。


 速水の目。


 一ノ瀬を見据えながらも、どこか遠い。勝敗や観客ではなく、“別のもの”を見ているような眼差し。


「…君は、何を見ているの」


 小さな呟きは、歓声にかき消された。


 だが、その声は確かに自分自身への問いでもあった。


 記録者として、冷静に分析し続けるはずだった。


 けれど速水蓮という存在を見ていると、自分の中の価値観が揺らぐ。


 ただの被写体ではなく、「特別な何か」として刻まなければならない気がする。


 会場にビートがこだまする。


 その音は、自分の心臓の鼓動と重なっていた。


(この戦いは、ただの高校生の喧嘩じゃない。二人の“生き方”の衝突だ。そして、私自身がそれを証人として刻んでしまっている)


 九条はそう悟った。


 拳と掌が交わるたびに観客が歓声を上げる。


 だが、九条の耳にそれは遠く感じられた。


 速水蓮の目に、彼女は引き込まれていた。


 戦っている相手を見ながら、どこか「もっと遠いもの」を見ている眼差し。


 その無機質さは恐ろしく、同時に美しかった。


「……」


 指が震える。レンズを通した映像ではなく、自分の眼で刻まなければならないと感じてしまう。


 速水蓮も一ノ瀬一も、自分たちの存在を証明するために戦っている。


 そして自分は、記録することで「彼らが存在した証明」になろうとしている。


 まるで“観測者”の一部に取り込まれていくような感覚だった。


ーーー


 一ノ瀬の拳が速水の頬をかすめ、速水の掌底が一ノ瀬の胸板を叩く。殴り合う衝撃音に混ざり、軽音部のリズムが狂熱を煽る。


 だが、速水の眼差しは冷えていた。


(…この打ち合いに、意味はない)


 次の瞬間、速水は踏み込んだ一ノ瀬の腕を掴み、腰を沈める。


 全身のバネを使い、流れるように投げを放った。


 ドンッ!


 一ノ瀬の身体が宙を舞い、マットに叩きつけられる。


「おおっ!」「投げたぞ!」「あれは内股か!?」


 観客のざわめきは、非難ではなく驚きと興奮だった。


 ルールが定められていないこの場では、打突も投げも関係ない。ただ勝利だけが価値になる。


 すぐに起き上がろうとした一ノ瀬の腕を、速水の膝が押さえ込む。


 肘関節が極まり、静かな圧力が加わった。


「ぐっ…!」


 一ノ瀬の喉から押し殺した呻きが漏れる。


 だが速水の顔は微動だにせず、勝ち誇りも苛立ちもない。淡々とした無表情。


 夏希が口元を歪めた。


「ふふ、さすが“合理の怪物”。打ち合いにこだわらず、勝つために一番早い道を選ぶか」


 観客の中から「やべぇ、本物だ…」「速水、やっぱ別格だな」と感嘆が漏れる。


 一ノ瀬は歯を食いしばり、ナノマシンで痛覚を切り捨てた。


 無理矢理腕を引き抜き、荒い息を吐きながら立ち上がる。


「てめぇ…殴り合いから逃げたかよ」


「逃げた? 違う」


 速水は低く言う。


「“勝つための最短経路”を選んでいる」


 一ノ瀬の瞳に、獣のような光が宿る。


「上等だ!」


 歓声が巻き起こり、観客はさらに熱を帯びていった。

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