第19話 二頭の獣
放課後、渡り廊下にて。
速水と一ノ瀬が向かい合う。
「…変わったな」速水が言った。
「ああ。俺はもう“獣”に振り回されることはねぇ」
一ノ瀬の口元が吊り上がる。
「獣?」
「人間の奥底に眠ってる衝動だよ。怒り、恐怖、痛み…。そういうもんを俺は“飼い慣らした”。ナノマシンが手綱になってくれる」
速水は瞳を細める。
「…それは本当に“飼い慣らした”のか?」
「檻に閉じ込めただけなんじゃないのか?」
言外に、いずれツケを払う時がくるだろうと仄めかす。
しばしの沈黙のあと、一ノ瀬は速水を射抜くように見据える。
「…お前はどうなんだ?」
速水は視線をそらさなかった。
問いかけに対して即答せず、ほんの数秒だけ考える素振りを見せる。
それから、ごく淡々と、しかしどこか遠くを見つめるように言った。
「どうしたんだろうな。…ただ、気づいたら吠えなくなってた」
一ノ瀬の眉がわずかに動く。
速水の声音には、自慢も後悔もなかった。ただ事実を述べているだけ。
その無味乾燥な響きが、かえって一ノ瀬の胸に重くのしかかった。
「…勝手に黙っちまったってのか。お前らしいな」
吐き捨てるように言いながらも、一ノ瀬の目には複雑な色が浮かんでいた。
獣をナノマシンで押さえつけた自分と、気づけば操れるようになっていた速水。
同じようで、まるで違う道を歩んできた。
夕暮れの静かな廊下に、二人の呼吸音だけが残った。
一ノ瀬が口を開いた。
声は低く、どこか噛み殺したような響きを帯びていた。
「速水。お前、中学の時のこと、覚えてるか?」
速水はすぐには答えない。
その目がわずかに細められただけで、表情は変わらなかった。
「何を指している」
「わかってんだろ。佐久間の件だよ」
空気がひりつく。速水は淡々と視線を返した。
「…ああ。覚えている」
一ノ瀬が笑う。
その笑みには喜びも哀しみもなかった。ただ、苛立ちの色だけが混ざっていた。
「俺はあの時、獣みてえに吠えてただろ。怒りも恐怖も、全部さらけ出して。…でも今は違う。もう振り回されねえ。ナノマシンが、俺の獣に手綱をかけてくれる」
廊下の奥、壁に背を預けるようにして九条楓が立っていた。彼女の手には小型のビデオカメラが握られていた。
突如、一ノ瀬が速水の胸ぐらを掴んだ。
夕日の赤が二人の間に影を落とす。
「見せてやるよ、今の俺を」
速水の手が一ノ瀬の手首を軽く押さえ、逆に力を外す。
二人の体がぶつかり合い、廊下に靴音が鋭く響く。
廊下に緊張が走った。
一ノ瀬の手首を外した速水は、距離をとる。
一ノ瀬が踏み込み、拳が真横から突き抜ける。
速水は体を捻って避けたが、頬をかすめた拳が皮膚を裂き、鈍い痛みを残す。
「…っ」
わずかに息を吐いた速水に、一ノ瀬が嘲るように笑う。
速水は無言で前に出た。返すように掌底を繰り出す。
鈍い音が廊下に響き、一ノ瀬の胸板を直撃した。大きくは吹き飛ばない。だが肺の奥から息が漏れる。
「がっ…!」
一ノ瀬が膝を沈ませながらも、再び顔を上げる。目は笑っていない。
「避けるだけかと思ったら…ちゃんと当ててくるじゃねぇか」
「必要な時には、な」
速水の声は淡々としていた。だが、その冷ややかさが逆に一ノ瀬を焚きつける。
次の瞬間、二人の拳と掌が交錯した。骨と骨がぶつかる鈍い衝撃。
「…中学の時よりかは成長しているみたいだな」
二人の目は離れなかった。敵意と執着と、互いへの認識がぶつかり合う。
その光景を、九条楓は階段の影から凝視していた。ビデオカメラを持つ手が震えている。
だが、それを止めることはできなかった。
(あの、直接衝突を良しとしない速水蓮が怪我を覚悟で戦っている。これは、ただの喧嘩じゃない。互いに“証明”しようとしている。自分の存在を)
夕暮れの廊下に、獣が二頭角を突き合わせていた。
その時だった。
カツン、と硬質な靴音が廊下に響く。
夕焼けに照らされた階段の上から、ひとりの女生徒が現れた。
「ずいぶん盛り上がってるじゃない」
不敗の夏希。瑞峰学園の裏社会を仕切る顔役だ。その姿が現れただけで、場の空気が一変した。
一ノ瀬の拳がわずかに止まり、速水も視線を向ける。
「ここで潰し合うなんて、つまらないことはやめなさい」
夏希は唇に笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩み寄る。
「どうせやるなら、賭場の興行で。観客の前で堂々と叩き合いなさい」
一ノ瀬が鼻で笑った。
「…賭場だぁ? 遊びじゃねぇんだぞ」
「遊び? 違うわ。賭場は“証明”の場よ」
夏希の声は冷たく、だがどこか甘美でもあった。
「ここでやっても教師に止められて中途半端で終わり。けれど、あたしが仕切れば立派な“カード”になる。勝敗は記録され、噂は広まる。それが本当の勝負よ」
速水は黙して夏希を見つめる。一ノ瀬は唇を歪め、舌打ちをした。
「…いいだろう。お前が舞台を用意するってんなら、乗ってやるよ」
九条の心臓が跳ねた。
興行。つまり、衆人環視の下で、速水と一ノ瀬は真正面からぶつかることになる。
夏希が二人を見比べ、ゆるやかに笑った。
「決まりね。じゃあ、この勝負、あたしが預かる」
その瞬間、夕暮れの廊下はただの舞台ではなく、学園裏へ繋がる入口に変わった。
速水も一ノ瀬も、一瞬だけ動きを止める。
夏希はわざとらしくポケットからスマホを取り出し、カレンダーをスクロールするようにしてみせた。
「土曜の夜。場所は旧体育館。観客は私が選ぶ。…それでどう?」
速水は黙っていた。だが目を細め、夏希の意図を計ろうとしているのがわかった。
「…俺は、見せ物にするつもりはない」
「へぇ? でも断れば、ただの“喧嘩した奴ら”で記録に残るだけだよ。それが、どういうことか、あんたなら、わかるでしょ?」
その言葉に速水の眉がわずかに動く。九条楓は息を呑んだ。
夏希はわざと「記録」という言葉を選んでいる。速水を挑発しているのだ。
一ノ瀬は口元を歪めた。
「面白え。やってやるよ。土曜の夜、旧体育館。逃げんなよ、速水」
速水はしばらく黙したあと、短く答えた。
「…わかった」
夏希は手を叩いて小さく笑った。
「決まり。じゃ、私は最高の観客と舞台を用意するから。二人はそれまで、せいぜい“技”を磨いておいてね」
彼女の声は冗談めいていたが、瞳の奥には確かな光が宿っていた。それは、盤面を操る者だけが持つ冷たい輝きだった。




