第18話 死の研究
図書室の奥。夕暮れの光は次第に薄れ、窓際に沈む橙色が長い影を机に落としていた。
速水と七瀬。二人は本を広げていたが、七瀬がふと口を開く。
「速水くん、死ぬってどういうことだと思う?」
突然の問いに、速水は視線を上げた。
「…どういうこと、とは?」
「終わりって言う人もいれば、次の世界への入り口だって考える人もいる。私はね、どっちでもいいんだけど…“死”って、生きてる間ずっと付きまとってるものじゃない?」
速水はしばし黙し、それから本を閉じた。
「死は“無”だ。意識が途切れる。情報が消去され、記録されなくなる。ただそれだけ」
「じゃあ、生きる意味は?」
七瀬の目が真っすぐに向けられる。
「意味を求めるのは、生者の幻想だ。死の前では、どんな物語も途絶える。残るのは、他人の記憶だけだ」
七瀬は少し笑った。
「冷たいね。でも、速水くんらしい」
「冷たいかどうかは関係ない。事実を述べているだけだ」
「でもね、私思うの。死が“無”だとしても、人は死を意識するからこそ、一生懸命生きるんじゃないかって」
速水は眉をわずかに動かす。
「どういう意味だ」
「例えば“いつか死ぬ”って知ってるから、人は恋をしたり、何かを残そうとしたりする。死は終わりかもしれないけど、それを意識するから生き方に色がつく。もし死がなかったら、たぶん誰も本気で生きない」
沈黙。窓の外で鳥の声がかすかに響いた。
「…合理的だな」速水は呟いた。
「死があるから、生が強調される。生は有限だからこそ、選択が意味を持つ。つまり死は、生の条件だ」
七瀬は小さく頷いた。
「そう。だから私は、死を怖がるよりも、“どう生きるか”の方がずっと大事だと思う」
速水はその言葉を胸の奥で反芻する。
「死を意識して生を彩る、か…」
七瀬は穏やかに微笑んだ。
「速水くんも、いつか“無になる”ことを恐れるんじゃなくて、“今この瞬間の意味”を楽しめるようになったらいいね」
速水は答えなかった。ただ、その言葉の余韻だけが、静かな図書室に残った。
夜。寮の自室。
机の上には積み上げられた本が並んでいた。心理学、神経科学、宗教学、哲学、倫理学。ページの間には速水が走り書きしたメモが挟まれている。
速水は蛍光ペンで一行を引いた。
「死は“体験できない体験”である」フッサールの講義録から引用された言葉だった。
「…つまり、死とは“観測者がいない状態”」
速水は呟く。
「観測されないものは、存在しないも同然だ。ならば、人は死と同時に“記録”からも消えるのか?」
手元のノートには、図式が描かれていた。
生存:自己と他者が互いに観測している状態
死:自己による観測が途絶え、他者の記憶のみに残存
忘却:他者からの記憶すら消え、完全に無に帰す
「死そのものではなく、死後に“他者の中に残る情報”こそが人間の延長…」
そこで筆が止まる。
「だが、他者の記憶は歪む。なら、死とは“真実の消失”とも言えるな」
机の端に置かれたもう一冊。医学書の章には、死の臨床的定義が書かれている。心停止、呼吸停止、脳死。速水はページをめくる。
「臨床的死は、条件にすぎない。問題は“意識の消失”だ。それは客観的に証明できない。つまり、死は永遠に推論にしかならない」
彼は目を閉じる。昼間の七瀬との会話が脳裏に蘇る。
「死があるから、生が色づく」
「…感傷的だな」
そう呟きつつも、完全には切り捨てられなかった。速水はノートに新しい見出しを書いた。
研究課題:
1.死の定義は“意識の喪失”か“記録の喪失”か
2.他者の記憶は死者を“生かす”のか、それとも“別の存在”を作り出すのか
3.死を恐れる感情は、生存本能か、それとも社会的幻想か
速水の筆跡は整っているのに、どこか追い詰められたように早かった。
「答えは出ない。…が、出ないからこそ、考える価値がある」
速水は最後に一文を付け加えた。
“死を理解した者は、死を恐れなくなるのか。それとも、より強く、生を欲するのか”
ペンを置いたとき、窓の外には月がかかっていた。静かな光が、彼の横顔を青白く照らしていた。
翌日の放課後。
図書室の片隅、窓際のテーブル。
速水は昨日まとめたノートをもう一度開き、淡々と赤ペンで修正を加えていた。
“死の定義は意識の消失か、記録の消失か”
“他者の記憶は死者を生かすのか、それとも別の存在を生むのか”
細かい文字がびっしりと並び、もはや授業用の勉強ノートとはまったく違う雰囲気を帯びていた。
「速水くん」
声に顔を上げると、そこに七瀬柚葉が立っていた。彼女はためらいながらも、速水の向かいの席に腰を下ろす。
「…そのノート、ちょっと見てもいい?」
速水は数秒だけ考え、差し出した。七瀬の視線が文字を追う。彼女の目は、驚きよりも、真剣さで揺れていた。
「…死の研究?」
「そうだ。定義が曖昧なまま、誰もが恐れている。その矛盾を整理しているだけだ」
七瀬はしばらく黙ってページをめくり、やがて小さく息を吐いた。
「すごいね。ここまで突き詰めて考える人、初めて見た」
速水は肩をすくめる。
「感情を混ぜなければ、ただの論理遊戯だ」
「…でもね」
七瀬は顔を上げ、まっすぐに言った。
「誰かの死を“記録の喪失”で片づけるのは、ちょっと寂しい気がする。だって、人が死んだときに泣くのは、記録が消えたからじゃなくて…その人と“もう会えない”からでしょ」
速水は即答しない。その言葉は理屈としては曖昧だ。だが、妙に引っかかる。
七瀬は微笑んだ。
「私は“会えない”ってことが、ちゃんと心に残るんだと思う。忘れない限り、その人は生き続ける。少なくとも、私の中では」
速水は沈黙したまま、ノートの余白を見つめた。そこに赤字で書き足す。
“死を記録喪失とみなす視点は、残された者の感情を切り捨てる”
七瀬はそれ以上追及しなかった。ただ、閉じられたノートを静かに彼に返すと、柔らかい声で言った。
「…でも、そういう風に考える速水くんも、私は嫌いじゃないよ」
その言葉が、速水の中に淡い違和感を残した。
「嫌いじゃない」感情の領域で測られる評価。
論理では否定できない、けれども整理のつかないもの。
ーーー
窓の外では、春の陽が傾き始めていた。
速水くんは、死について淡々と語っていた。
彼にとって「死」はただの生物学的な停止であり、心臓が止まり、脳が機能を失うプロセスに過ぎない。
どこまでも冷静で、合理的で、まるで「死すらも観察対象」にしているみたいだった。
私は、思わず本から顔を上げてしまった。
「…ねえ、速水くん」
「なんだ」
「速水くんにとって、“死”って本当にそれだけなの?」
彼は目を細め、何も言わずに私を見た。
その視線は答えを拒んでいるわけじゃなく、ただ「どう答えるか」を計算しているように見えた。
「私ね、小さい頃に飼ってた犬が死んだことがあるの」
自分でも不思議だった。なぜ、こんなことを口にしたのか。
でも、彼のあまりに乾いた死の話を聞いていたら、何かを重ねずにはいられなかった。
「その時、ただ“止まった”って思えなかった。匂いも、声も、あったかさも…全部、急に消えて。そこにいたはずの存在が、いない。その“喪失感”が死なんじゃないかって、私は思った」
速水くんは少しだけまばたきをした。
それが感情なのか、ただの生理現象なのか、判断はできない。
「人間にとっての“死”は、生物学的な事実だけじゃないよ。残された人が、どう生きるかで“死の形”は変わるんだと思う」
私はそこまで言って、ふっと笑った。
「…でも、きっと速水くんは“感情論だ”って切り捨てるんだろうな」
彼は答えなかった。ただ、机の上で静かに本を閉じた。
その仕草が、妙に重たく感じられた。
理屈と感情。合理と喪失。
そのどちらか一方ではなく、両方を抱えて生きるのが人間なんじゃないか。
そう思ったけれど、言葉にはしなかった。
ーーー
夜の図書室は、本当に静かだった。
照明は半分ほど落とされ、残された明かりが机の表面を淡く照らしている。ページをめくる音が、やけに大きく響いた。
速水蓮は机に座り、ノートに短くメモを書き込んでいた。テーマは「死の定義」。生物学的死、社会的死、記録に残る死。いくつかのキーワードが、幾何学模様のように並んでいる。
その前に、影が差した。
「熱心だね。死の研究?」
低い声。中性的で、抑揚の少ない響き。顔を上げると、九条楓が立っていた。制服の上に薄手のパーカーを羽織り、記者用の小さなノートを片手にしている。
「…覗き趣味か?」
「取材、と言ってほしいな。新聞委員だから」
九条は勝手に椅子を引き、速水の正面に腰を下ろした。ノートを広げるその仕草は、取材というより実験の記録に近い。
「君は“死”をどう定義してる?」
速水は眉をわずかに動かし、ノートを指先で叩いた。
「肉体の停止。社会的役割の消失。そして記録からの消滅。その三つだ」
「なるほど。生物学、社会学、記録学…三つ並べてみたわけか」
「そうだ。人間は死んだあと、記録の中で生きる。だがそれも、時間が経てば薄れる」
九条はペン先をくるくる回した。目は、速水を刺すように見ていた。
「じゃあ、君が死んだらどうする? 誰が君を“記録”してくれる?」
速水は一瞬黙った。
その問いは、想定していなかった角度だった。死そのものではなく、“死んだ後の自分”に視線を向けるもの。
「…記録されなくても構わない。俺が生きていた事実は、俺自身が知っている」
「でも君が消えたあと、それを知っている“君自身”はいない」
九条の声には、感情がなかった。ただ論理を突きつけるだけ。
速水の指先がわずかに止まる。
「つまり、死とは“記録の喪失”だ。君の合理主義なら、その結論に至るはずだろう?」
速水は目を細めた。
その冷静さの奥に、微かな苛立ちが灯る。
「…お前は、俺を試しているのか?」
「記録しているんだよ。君という“例外”をね」
九条の口元だけが、わずかに笑った。その笑みは挑発的というより、確信に近い。
「君が死に対してどう向き合うか。それは単なる哲学じゃない。君が“人間かどうか”を測るための観測なんだ」
速水は黙ったまま、視線を逸らした。窓の外、夜の闇が広がっている。の奥に、わずかな重みが残った。
九条はノートに一行、さらさらと書き込む。
「速水蓮。死を合理で捉えるが、死後の“記録”には動揺を見せる」
それは彼女にとって、ただの取材記録だった。しかし速水にとっては、最も触れられたくない「空白」を言葉にされた瞬間でもあった。




