第17話 人体実験の材料
放課後の渡り廊下。一ノ瀬一は、人気のない角で煙草を吸っていた(もちろん校則にも法律にも違反している)。
窓の外には西日が傾き、赤く焼けた空が校舎の壁を照らしていた。
「…面白い男だな、お前は」
不意に声がした。
一ノ瀬は煙を吐きながら、顔だけをわずかにそちらに向けた。
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。年齢は高校生にも見えたが、目が違う。焦点の合っていないような、けれど全体を射抜くような視線。
「誰だよ、お前」
「名乗るほどのもんじゃないさ。ただ……君みたいな“未完成”を見ていると、つい声をかけたくなる」
一ノ瀬は鼻で笑った。
「はあ? ナンパなら他を当たれ」
「違うさ。…君、速水蓮に勝ちたいか?」
一瞬、風の音が止まったような錯覚。
一ノ瀬はゆっくりと煙草を地面に落とし、靴の先で踏み消した。
「なんだよ、それ…急に核心突いてくんな」
「速水は、優れている。計算と冷静の塊で、まるで人間じゃない。君は彼に劣っているわけじゃない。ただ、“制御”ができていないだけだ。衝動と感情に振り回されている」
男の言葉に、なぜか反論できなかった。
「…だったら、どうすりゃいい。感情捨てりゃ、アイツみたいになれんのかよ」
「いや。君は、君のままでいい。ただし——“正しく導かれる”ならば、速水を超える力を手にできる」
「は?」
その時だった。男の背後から、もう一人の人影が歩いてきた。長い黒髪を後ろで束ねた女だった。無表情で、まるで何も感じていないような冷たい眼差し。
「我々は“観測者”だ。人間の境界を測り、進化の可能性を記録している」
「…冗談か?」
「冗談のつもりはない。“観測”は、実験を必要とする。そして今、我々が探しているのは—速水蓮を“揺るがす存在”だ」
女の声は、氷のように冷たいが、確かに一ノ瀬の胸に突き刺さった。
「君がその器になれるかどうかは、これからの選択次第。協力するか、しないか。どちらを選ぶ?」
一ノ瀬は口の中で舌を転がした。火照るような怒り。脈打つような劣等感。そして、否応なしに湧き上がる。好奇心。
「…勝てるのか?」
「“勝たせてやる”とは言わない。だが、手段は与える。“人間の限界”を一歩、超える手段を」
男の言葉に、女が微かに頷いた。
「ただし、代償はある。君はもう、普通の人間ではいられないかもしれない。それでも、速水に、勝ちたいか?」
一ノ瀬の瞳が、夕焼けに照らされて赤く光った。
その目は、迷いを捨てた獣の目だった。
「…勝てるもんなら、なんだってやってやるよ」
その瞬間、男と女はわずかに笑った。
「では、実験開始だ」
夕陽のなか、観測者たちは闇のように溶けていった。残された一ノ瀬の背中に、新しい影が刻まれていた。
「対象:プロトコルK-03へ移行」
女が静かに言った。
「君はこれより、“K-03”と記録される。“速水蓮を打ち破る可能性を持つ未確定因子”として」
「…ナンバリングかよ。俺はモルモットか?」
「違う。君は“鍵”だ。我々の観測が進むかどうかは、君の選択と進化次第」
「K-03ってのは、何人目だ?」
男が答える。
「君は三人目だ。だが、最初の二人は、速水に辿り着く前に崩壊した」
一ノ瀬は、口元だけで笑った。
「じゃあ、俺は、その続きをやるってわけだな」
「そうだ。“速水蓮”に辿り着き、彼を“人間”に引き戻すのか。それとも“越える”のか。それは君の意思で決まる」
男と女は、揃って背を向けた。まるで既に答えを得ているかのように。
夕暮れのなか、一ノ瀬一は静かにその場に立ち尽くしていた。
【実験項目1:倫理反転シナリオ】
放課後、音楽室。
グランドピアノの脇に、モニターが置かれていた。部屋には誰もいない。
だが、スピーカーから音声が流れた。
「こんにちは、K-03。一ノ瀬一。君は選ばれた。速水蓮という“合理の怪物”に立ち向かう因子として」
一ノ瀬は鼻で笑った。
「怪物ね……。あいつはただの冷血野郎だろ」
「では君に、ひとつ“選択”をしてもらおう。友人を助けるか、自分を守るか。どちらが“正義”か?」
モニターが点いた。画面には、校内のとある場所が映っていた。そこには、一ノ瀬の中学時代の知人・金子がいた。彼は一ノ瀬と過去に関わりがあったが、現在は別の学校。暴力的な不良グループに絡まれていた。
「今、彼を助けに行けば、君は教師に目をつけられ、停学処分を受けるかもしれない。逆に、何もせずに帰れば、彼は重傷を負うだろう。君の“倫理”は、どちらを選ぶ?」
一ノ瀬は、すぐには動かなかった。
だが、やがて舌打ちをして、ドアを乱暴に開けた。
「…舐めやがって」
【結果ログ:倫理反転テスト】
被験者K-03は、社会的リスクを無視し、対象A(金子)を救出。衝動的な義侠性、観測継続に値すると判断。
“正義の定義”において速水蓮との根源的対立が存在することを確認。
【実験項目2:孤立状況下の心理変化】
翌日から、一ノ瀬の周囲の空気が変わった。
金子の救出により、彼は教員から目をつけられ、些細な違反で指導記録に残され、さらに友人たちも急に彼から距離を置き始めた。
妙だった。まるで何者かが水面下で操作しているように。
放課後の教室。机に座ったまま、じっと前を見つめていた一ノ瀬の耳に、またあの声が届いた。
「どうだ、孤独という味は。君の怒りも絶望も、すべて観測している」
「ふざけんな…」
一ノ瀬は立ち上がり、机を拳で叩いた。が、誰も気に留めない。まるで最初から“存在しない人間”のような扱いだった。
【結果ログ:孤立刺激】
被験者K-03の“承認欲求”と“帰属欲求”を分断することに成功。自己確認のベクトルが“速水蓮”へ向き始めていることを観測。感情反応の強度:危険域に近い(覚醒傾向あり)
初期観測完了。対象は衝動・倫理の反転に耐性あり。
次フェーズに移行:肉体および認知機能の適応率を測定。
【プロトコル01:反射強化テスト】
夜、人気のない地下室。
天井の低いその空間には監視カメラと、反応速度を測る赤外線センサーが張り巡らされていた。
「…どういう仕掛けだよ、ここは」
一ノ瀬が呟くと、壁際のスピーカーから機械的な声が響いた。
「目隠しをした状態で、10秒以内に赤外線センサーを5箇所回避しろ。失敗すれば、電撃が走る。成功すれば次の段階へ進む。始めるぞ」
ブッという機械音。
その直後、床から煙のような気体が立ち上る。一ノ瀬の視界が曇った。
「やってやろうじゃねぇか」
動体視力を殺され、耳で音を拾いながら、一ノ瀬は足の感覚と筋肉の反応だけを頼りに動いた。
左右から何かが飛んでくる。反射的に身体を捻る。背筋の皮膚がかすめられた瞬間、ビリッとした感覚が走る。
「クソが…!」
それでも、一ノ瀬は止まらない。
拳を握る。身体が徐々に環境に適応していくのが分かる。痛みすら、リズムとして利用する。
「完了。反射速度:1.02秒短縮。被験者の適応速度、想定より高。肉体強化フェーズ、次へ移行」
【プロトコル02:幻聴・音響干渉下判断試験】
数日後、一ノ瀬はある「暗室」に入れられた。
ヘッドフォンを装着させられ、暗闇のなか、**断続的に流れる“音”**に晒される。
それは、赤ん坊の泣き声。鉄の軋む音。誰かが罵倒する声。
交互に、重ねられるようにして流れ続ける。
音は脳を焼く。思考を奪う。
そしてその状態で、問われる。
「この声は“本物”か?——“幻覚”か?」
正しい答えはない。
どちらを答えても、次の音がやってくる。止まらない。
一ノ瀬は最初、声を張り上げていた。
「本物だろうが幻だろうが、うるせぇもんはうるせぇんだよ!!」
だが、やがて声を失った。
そして数分後、笑った。
「なるほどな…“本物か幻か”なんて聞いてくる時点で、もう意味なんてねぇんだよ。俺に選ばせたいだけだろ」
「回答認定。自我認識の定着を確認。ノイズ環境における意識の崩壊兆候:検出なし。認知ベース安定。次段階へ移行」
【プロトコル03:薬理刺激試験(合法範囲)】
観測者のラボ内。
冷たいメタルチェアに腰掛けた一ノ瀬に、無表情の観測者が錠剤を差し出す。
「カフェイン、チロシン、β-フェニルエチルアミン、α-GPC…全部市販品だ。だが、混ぜ方次第で“別物”になる。飲むか?」
一ノ瀬は黙ってそれを飲んだ。
数分後—視界が澄む。世界が異様な明度を持って眼前に広がる。
壁の文字が一瞬で読める。遠くの音が鼓膜まで届く。思考のスピードが倍になったような感覚。
「…ハイになってるってわけでもねえ。だが、何かが動いてる」
「神経系の反応良好。副作用反応:閾値以下。覚醒モード、限定的成功。最終段階に向けた基盤形成完了」
【フェーズ終了ログ】
被験者K-03、肉体・反射・認知の各領域において、予想以上の適応を示す。感情反応は強く、制御にはリスクあり。だが、ゆえに“鋭利な器”としての可能性を保持。
【開始ログ:K-03 被験者】
対象速水蓮に対する“敵対的共鳴”の形成を目的とする。
誘導刺激・過去映像・模倣環境を用い、認知の焦点を速水蓮へ最適化する。
【プロトコル01:再構成環境(模擬対話シナリオ)】
薄暗い部屋。モニターの前に座る一ノ瀬の顔が、静かに揺れていた。
映像には、速水蓮がいた。
ただし、それは録画ではない。観測者によって再構成された模擬人格AIだ。
「お前は、また怒ってるのか。一ノ瀬。他人に期待して、勝手に失望して、吠えるだけの犬のままだな」
冷静な、あの声。
皮肉でもない。ただ事実を突きつけるような口調。
一ノ瀬は笑った。
「へぇ。よくできてんじゃん、モノマネにしちゃな」
「お前が誰かに理解されたいと望む時点で、お前も“俺と同じ”だ。違うと思ってるのは、お前の傲慢だ」
再構成された速水の“言葉”は、一ノ瀬の記憶に基づいて組み立てられている。つまり、それは“自分自身の中の速水像”だ。
だからこそ、否定できない。
「…俺はあいつになりたいんじゃねぇ。ぶっ壊したいんだよ、その“完成された冷静さ”を」
「なら、壊してみろ。一度でも、お前が俺を“理解”できたらな」
再生が終了する。
部屋のスピーカーが静かに響く。
「君は速水蓮に対して、強い執着を持っている。憎しみか、羨望か。それは重要ではない。問題は、“思考の起点が彼になり始めている”という事実だ」
「…つまり、俺が“あいつに支配されてる”ってか?」
「違う。共鳴し始めている。君は速水蓮を、倒すために理解しようとしている。それが、彼を“越える”ための第一歩だ」
一ノ瀬は黙ったまま、拳を握った。
【プロトコル02:感情トリガーテスト】
次の部屋。
そこには複数の映像が並ぶモニターがあり、どれも速水蓮に関係する場面だった。
・授業中に鋭い発言をして注目を集める速水
・七瀬柚葉と話す速水の表情
・高嶺悠真と笑い合う速水の後ろ姿
・夏海玲奈が、速水の肩を小突いて笑っているシーン
どれも、日常の中にある“速水蓮”だった。
一ノ瀬の脳波と心拍が常時記録されている。
「どう思う?」
観測者の問いに、一ノ瀬は吐き捨てるように言った。
「全部演技じゃねぇか。共感してるフリして、内心じゃ全部切り捨ててんだ」
「どう思う?」
観測者の声が、スピーカーから届く。
「面白いな。俺には“速水の正体”が透けて見えるってのに、みんな、ああやって懐いてやがる」
「懐いている? それは錯覚かもしれない。君は“速水蓮”の中に虚無を見ている。だが、周囲はそれに気づかない。なぜだと思う?」
一ノ瀬はしばらく黙っていた。
やがて、呟くように答えた。
「見たいもんだけ、見てるからだろ。あいつらも。……あいつを“まとも”だって信じたいだけだ」
「では君は? 速水蓮のどこを“信じている”?」
その問いは、鋭い刃のようだった。
「俺も、見たいように見ていると…?」
「そうだ。そして速水蓮は、君が“本気で壊したい”と思える、唯一の存在になった。その執着は、憎しみを超え、“共鳴”と呼ばれる段階にある」
感情・認知・倫理的選択の全項目において速水蓮を中心とした再構築が完了。被験者は自己の“定義”を、速水蓮との決着に求めている。ナノマシン投与、実行可能と判断。
【観測者ラボ:深層フロア】
白い密閉空間に、医療用チェアが一脚。
その中心に一ノ瀬が座っていた。両手両足は固定されてはいない。ただ、その表情には、覚悟に近い静けさがあった。
壁の奥から、観測者たちが現れる。男と女、いつもの二人だ。
「君は最後まで、自分の意思でここまで来た。強制は一切していない。そう記録される」
一ノ瀬は皮肉のように笑った。
「つまり“実験失敗時の責任逃れ”かよ」
「そういう考え方をする時点で、まだ君は“人間”だ。だが、それも——今だけだ」
男の観測者が、手のひらサイズのカプセルを提示した。内部には微細な銀色の粒子が浮かんでいる。それは液体ではない。ナノレベルで設計された、情報構造を持つ粒子機械だった。
「真型ナノマシン No.Θ(シータ)-03」
「副作用は?」
「未知数。だが、K-01は投与直後に錯乱。K-02は三日で昏睡状態に。君には、それを超えてもらう」
沈黙。
だが、一ノ瀬は視線を逸らさずに言った。
「……もし俺が“アイツ”をぶっ壊せたら、その先に何がある?」
観測者は即答しなかった。
少し間を置いて、女の方が答える。
「速水蓮を超える存在は、人間ではない。君が“その先”に何を見るか——それを我々は、観測する」
一ノ瀬はゆっくりと腕を差し出した。
「やってみろ。……全部、見せてやるよ。俺の“その先”をな」
【投与ログ:ナノマシン Θ-03】
投与完了。ナノ構造、血中伝播確認。神経組織接続反応:正常。脳内物質制御因子、自己調整開始。
その瞬間だった。
一ノ瀬の視界が、白に塗り潰された。
熱い。
内側から、何かが焼けるような感覚。神経が剥き出しになる。だが、意識は飛ばない。逆に、研ぎ澄まされていく。
アドレナリン、自己投与完了。
ドーパミン、20%増幅。動機形成ルート安定。
セロトニン、安定値固定。恐怖反応抑制中。
脳内で、声が鳴っていた。それは誰のものでもない。自分自身が、今この瞬間から“手にしたもの”だった。
手が震える。心臓が跳ねる。
けれど、心は、静かだった。
「…これが、“速水蓮の世界”かよ」
呟いた声は、もはやかつての自分のものではなかった。




