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第三の条件  作者: コバヤシ
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第16話 九条楓の接触

瑞峰学園を夜の帷が静かに包んでいた。


 速水蓮はジャージの裾を軽く蹴り上げるようにして寮の玄関を出た。


 春。とはいえ、夜気にはまだ肌寒さが残っていて、吐いた息はわずかに白く残った。


 電灯の下を抜け、ゆるやかな坂を下りていく。耳に入るのはスニーカーがアスファルトを蹴る乾いた音と、自身の呼吸のリズム。それが心地よかった。


 夜の冷えた空気の中。遠くで誰かの飼い犬が吠え、風に乗って沈丁花の匂いが流れてくる。


 速水は走る。リズムを崩さず、腕を振り、少しだけ呼吸を深くする。


 図書館から出てきた生徒や、夜食を調達する生徒。瑞峰学園の生活の匂い、すべてを追い越しながら、速水はただ無心に走った。


 思考は、走ることで透明になっていく。昼間の喧騒や、教室で交わされる言葉、人間関係。それらが汗とともに蒸発していく。


 交差点の手前で一度だけ立ち止まった。自販機の明かりに照らされたその横顔には、まだ幼さの残る輪郭があった。


 そして再び走り出す。


 目的地などない。ただ、走ることで“何か”に近づこうとしていたのかもしれない。


 春の夜風は優しく、それでも確かに、速水の背中を押していた。


  九条楓が彼に接触したのは、その夜の終わりだった。


 グラウンド脇のベンチに、速水はひとり腰を下ろしていた。額に汗がにじみ、ペットボトルの水を飲み干した後、そのラベルを無意識に指で剥がしている。体温と呼吸は落ち着いていたが、精神はまだ走っていた。


 気配に気づいたのは、風がやんだ瞬間だった。


「速水くん、だよね」


 低く、どこか中性的な声が背後から届いた。速水はゆっくりと振り向く。ベンチの影に、制服の上からパーカーを羽織った細身の人物が立っていた。月明かりに照らされているが、顔の輪郭がはっきりと見えない。


「……誰だ?」


 声には警戒が滲んだ。しかし、相手はそれを楽しむようにふっと笑った。


「九条。九条楓。新聞委員、って言えば伝わるかな」


「新聞……?」


「いや、ただの名目。興味があるんだ、君のことに」


 速水の眉がわずかに動く。


 九条は彼の隣に腰を下ろした。距離は、まるで何度もこうして会っていたかのように自然だった。


「今日、君が昼にしてた話。あの、集団心理と意思決定についてのやつ。あれ、面白かったよ。それと、脳内の神経伝達物質を、意図的に調整してるって本当?」


 速水は黙った。だがその沈黙を、九条は「肯定」として受け取ったようだった。


「ドーパミン、セロトニン、アドレナリン……そういうものを制御できれば、人間は”機械以上の精度”で生きられる。そう思ってる?」


 速水は口を開いた。


「それができなければ、ここには来ていない」


 九条は口元だけで笑う。


「やっぱり、君は“面白い”ね」


 その言葉には、どこか本来の役割を超えた、異物感があった。まるで、速水が何かの実験体であるかのような響きだ。


「俺に興味があるのか?」


 九条は小さく首を傾げた。


「それは、どうだろうね。ただ、君が何に向かって走っているのか、それを知りたいと思った」


 それが“速水蓮”という個人に対する興味なのか、あるいはもっと抽象的な、人間の可能性という名の実験素材に対する執着なのか、彼女の瞳は曖昧なままだった。


 速水は立ち上がった。濡れた髪をかき上げ、ちらりと九条を見る。


「勝手にすればいい。せいぜい気をつけろよ」


 そこに警告の意あることは、九条も理解していた。


 だが彼女は、笑ったままだった。


「危ないのは、お互いさま」


 春の夜の空気が、ふたりの間に流れた。

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